第8話(後編)――「夫の妾、妻の男」
384年8月下旬。
8月22日。
柳紅玉が陳家へ入る話が正式に決まった。
正妻の周春華へ話したのは、田朔ではなく陳貴だった。
その日の夕方。
田朔が陳家へ行くと、春華は戸口へ出てこなかった。
侍女に通され、居間へ入る。
春華は卓の前に座っていた。
「知っていたの?」
挨拶より先だった。
「何をです」
「紅玉」
「陳さんが気に入ったことは知っていました」
「あなたが連れていったんでしょう」
「はい」
春華の顔が変わった。
「認めるのね」
「そこまで嘘をつく必要はありません」
「妾にすると知っていた?」
「陳さんから相談されました」
「相談まで?」
「妓館との話も俺がしました」
春華が田朔を睨む。
「あなた、本当に何を考えているの」
「陳さんに喜んでもらおうと」
「私が喜ぶと思った?」
「奥方様には聞かれていません」
「最低ね」
「陳さんにもよく言われます」
「笑うところじゃないでしょう」
春華は本気で腹を立てていた。
「主人は何と言ったと思う?」
「分かりません」
「『お前が正妻なのは変わらない』ですって」
「その通りでしょう」
「そういう問題ではないのよ」
「では、何が嫌なんです」
「あなたまで聞くの?」
「俺なら聞けます」
「どうして」
「俺は陳さんではありませんから」
春華は田朔を見る。
答えなかった。
◇ ◇ ◇
8月24日。
紅玉が陳家へ入った。
春華は正妻として迎えた。
人前で騒ぎはしない。
「主人が決めたことです。家の決まりを守るなら、私も無用に争うつもりはありません」
紅玉も頭を下げた。
「姉上に逆らうつもりはございません」
陳貴は満足そうだった。
田朔も招かれていた。
「全部お前が始めたようなものだ」
陳貴が笑う。
「俺は酒へ連れていっただけです」
「妓館と話をつけたのもお前だろう」
「500銭も貸しました」
「忘れていない」
「次の商いも忘れないでください」
「こんな日にまで銭の話をするな」
「大事です」
紅玉が笑った。
春華だけは笑わなかった。
田朔はそれを横目で見た。
◇ ◇ ◇
その夜から、陳貴は紅玉の部屋へ通った。
翌日も、その翌日も同じだった。
昼間、田朔が陳家へ商売の札を届けると、春華が言った。
「今日も主人は紅玉のところでしょうね」
「知りません」
「あなたなら知っているでしょう」
「俺は陳さんの寝床まで管理していません」
「女を連れてきたくせに」
「それは別です」
「あなたのせいよ」
「半分はそうかもしれません」
「半分?」
「欲しがったのは陳さんです」
春華は黙った。
田朔は向かいへ座る。
「本当に嫌なら、怒ればいいでしょう」
「主人に?」
「はい」
「何を言えばいいの。妾のところへ行くなと?」
「それでもいいでしょう」
「そんなことを言えば、嫉妬深い正妻だと笑われるだけよ」
「なら我慢するんですか」
「仕方がないでしょう」
「俺なら我慢しません」
春華が田朔を見る。
「あなたは男でしょう」
「だから何です」
「男なら妾を持てる」
「女は持てない?」
「当たり前でしょう」
「別の男を持てばいい」
春華の表情が固まった。
「あなた、何を言っているの」
「陳さんだけ好きな女を抱いて、奥方様だけ1人で寝る必要がありますか」
「馬鹿なことを言わないで」
「腹いせくらいすればいいでしょう」
「誰と?」
「そこは奥方様が選ぶことです」
田朔は自分を指ささなかった。
春華はしばらく田朔を見ていた。
「自分が選ばれると思っているの?」
「選ばれれば断りません」
「大した自信ね」
「俺の噂も聞いたでしょう」
春華の頬が赤くなった。
「それとこれとは関係ないわ」
「関係ないなら忘れてください」
「それができないから腹が立つのよ」
言ってから、春華は口を閉じた。
田朔は笑わなかった。
春華自身が、下男から聞いた話を忘れられないと認めた。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
8月27日。
田朔は再び陳家へ行った。
陳貴はいない。
紅玉も外へ出ていた。
春華は庭の井戸のそばにいた。
「また汗だらけね」
「今日は荷車を3回引きました」
「もう人に任せればいいでしょう。銭はあるんだから」
「俺まで働かなくなったら、父さんに何を言われるか分かりません」
「主人の古い衣を出すわ」
「また借りるんですか」
「あなたのために1枚置いておけば?」
「俺の衣を陳家に?」
春華が自分の言葉に気づいた。
「変な意味じゃないわよ」
「俺は何も言っていません」
「顔が笑っている」
田朔は井戸で汗を流した。
今回は春華自身が着替えを持ってきた。
「そこへ置いてください」
「はい」
春華は衣を置いて戻るつもりだった。
だが、足が止まった。
下男や侍女から話は聞いていた。
それでも、自分の目で見れば噂以上だった。
「どうしました」
「……本当に」
「何です」
「何でもない」
「噂通りでしたか」
春華が田朔を睨んだ。
「分かっていて見せたでしょう」
「奥方様が持ってきたんですよ」
「あなた、最初からこれを狙って」
「何をです」
「もういい」
春華は衣を押しつけるように渡した。
田朔は受け取った。
「嫌な男」
「見たのは奥方様です」
「黙りなさい」
春華は家へ戻った。
田朔は追わなかった。
急げば逃げる。
もう逃げ切れないところまで来てから手を伸ばせばよかった。
◇ ◇ ◇
8月29日。
春華の苛立ちはさらに強くなっていた。
陳貴が紅玉へ新しい髪飾りを買ったからである。
値の張る品だった。
春華自身が見て知ったことで、田朔が何か吹き込む必要もなかった。
「主人は私に何か買った時だって、あんなに嬉しそうにはしなかった」
春華は田朔へ言った。
「新しい女ですから」
「あなたは主人の味方なの?」
「俺は俺の味方です」
「最低」
「それはもう何度も聞きました」
「では何て言えばいいの」
「田朔はいい男だ、と」
「誰が言うものですか」
「では嫌な男のままでいいです」
春華は笑いかけ、すぐ顔を戻した。
「あなた、本当に腹が立つ」
「陳さんより?」
春華は答えなかった。
「陳さんには腹が立つ。俺には?」
「別の意味で腹が立つ」
「それならいいです」
「何がいいのよ」
「嫌われてはいない」
春華が田朔を睨む。
「随分自信があるのね」
「奥方様が俺を嫌っているなら、主人がいない時に家へ上げないでしょう」
春華は返せなかった。
田朔が立ち上がる。
「今日は帰ります」
「何で」
春華が反射的に言った。
2人とも止まった。
「帰ってはいけませんか」
「そういう意味じゃないわ」
「では帰ります」
「田朔」
春華が呼び止めた。
田朔は振り返った。
「前に言ったでしょう」
「何をです」
「私も腹いせに遊べばいいって」
「言いました」
「まだ同じことを思っている?」
「はい」
「もし相手があなたでも?」
「断りません」
「後悔しない?」
「何を後悔するんです」
「主人を裏切るのよ」
「陳さんとは商売をしています。妻まで守る約束はしていません」
春華は呆れたように笑った。
「本当に悪い男ね」
「今さらですか」
春華はしばらく黙っていた。
「今日は帰らないで」
田朔は迷わなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、春華は下男たちの噂が大げさではなかったことを知った。
実際に向き合うと、噂で聞いていた以上だった。
「あなた、こんなの……」
「今さらやめますか」
「そういう言い方をしないで」
「無理ならやめます」
田朔は無理に進めなかった。
春華の方が退かなかった。
そして春華がさらに驚いたのは、田朔の精力だった。
陳貴なら一度で満足して眠るような夜でも、田朔は違った。
一度休めば、また春華を求めた。
それが終わっても、しばらくするとまた同じだった。
夜半を過ぎても田朔には余裕があり、先に疲れたのは春華だった。
「まだなの?」
「嫌ならやめます」
「そういう意味じゃないわ」
「では?」
「少し休ませて」
春華が田朔の胸を押した。
「分かりました」
田朔は素直に横になった。
ところが少し休むと、また平然と春華へ手を伸ばす。
「本当にまだ平気なの?」
「はい」
「嘘でしょう」
「昔からです」
「朝まで続ける気?」
「奥方様が嫌なら寝ます」
「その言い方、ずるいわ」
春華は呆れながらも、田朔を追い出そうとはしなかった。
田朔の肩や背中、腰、脚には、長年の荷運びでついた力があった。飾りのために鍛えた身体ではない。重い荷を担ぎ、荷車を押し続ける暮らしの中で自然に作られた身体だった。
そのうえ、男としての身体と精力はさらに並外れていた。春華がこれまで知っていた男とは、最初から比べものにならない。夜が深くなっても田朔の方には余裕があり、先に限界を迎えるのは春華だった。
最後には春華の方から、
「もう本当に休ませて」
と言わせた。
田朔はそこでようやく諦めた。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
田朔が起きると、春華はまだ横になっていた。
「帰るの?」
「陳さんが戻る前に帰らないとまずいでしょう」
「主人は紅玉の部屋よ」
「それでもです」
春華は田朔を見る。
「主人には絶対に知られないようにして」
「もちろんです」
「紅玉にもよ」
「言う理由がありません」
「下男にも」
「俺から言うわけがないでしょう」
田朔は衣を着た。
春華が背中へ声をかける。
「田朔」
「何です」
「昨日のこと」
「後悔しましたか」
春華は少し考えた。
「していたら、こんなこと聞かないわ」
「何をです」
「次はいつ来るの」
田朔が振り返った。
「奥方様から聞くんですか」
「嫌なら来なくていい」
「来ます」
「即答なのね」
「俺は焦らして得する場面と、すぐ取った方が得な場面を分けています」
「女まで商売と同じなの?」
「奥方様は商売ではありません」
「本当?」
「欲しいから来ます」
春華は黙った。
怒る代わりに顔が赤くなった。
「帰りなさい」
「はい」
「次は主人がいない日よ」
「分かりました」
田朔は陳家を出た。
◇ ◇ ◇
8月31日。
田朔は月の帳面をまとめた。
7月末に2500銭余りだった資金は、役所との大きな取引で一気に増えた。
後払いで集めた品の代金もすべて払った。
陳貴へ渡した銭も引いた。
それでも現金で4000銭ほどが残り、さらに陳貴へ貸した500銭の札がある。
田順が銭袋を見た。
「今月は随分儲かったな」
「そうだな」
「何をした」
「役所へ物を売った」
「それだけか」
「役人へ女も世話した」
田順の顔が止まった。
「何?」
「妾を欲しがっていたから紹介した」
「お前は何屋だ」
「銭になるなら何でもやる」
「そのうち女まで売り始めるぞ」
「もう紹介料くらいは取れるかもしれないな」
「冗談だよな」
田朔は答えなかった。
田順が嫌そうな顔をする。
「お前、最近は夜までよく出歩いているな」
「用があるからな」
「役人との商売か」
「それもある」
「それも?」
「父さんが知らなくていいこともある」
「その言い方をする時は、大抵ろくでもないことだ」
田朔は笑った。
今年の初めには、100銭を借りて草鞋20足を買い、杜三に殴られて18銭の損をした。
8か月後には、役所の買い付けを先に知り、陳貴の名で自分の倍近い品を集め、役所へ高く売って2000銭以上を抜いた。
その陳貴には、自分で選んだ女を妾として与えた。
陳貴は以前より田朔を信用している。
陳貴が新しい妾を抱いている間に、その正妻は田朔の次の訪れを待つようになった。
梁景成の持つ財産には、まだ遠く及ばない。
だが田朔は、4000銭の入った袋を前にしても満足しなかった。
この銭を次に何へ使えば、もっと大きく増えるのか。
考えていたのはそれだけだった。
384年8月が終わった。




