第8話(中編)――「役人へ女を買う」
384年8月中旬。
役所との商いを終えると、田朔の手持ちは4500銭を超えた。
陳貴との関係も変わった。
以前は陳貴が田朔を使っていた。
今では陳貴の方から、次に役所が必要とする品を持ち込むようになっている。
8月11日。
陳貴が酒屋で言った。
「今度は油だ」
「何に使うんです」
「そこまで聞くな」
「量は?」
「壺で200ほど」
「いつ」
「10日後くらいだ」
「値は?」
「それは役所が決める」
「では駄目です」
「何がだ」
「先に値を決めない商いはしません」
「お前が決める立場か」
「買うかどうかは俺が決めます」
陳貴は笑った。
「本当に偉くなったな」
「陳さんが儲けさせたんでしょう」
「お前が俺を儲けさせたんだろう」
「同じことです」
「違う」
田朔は油の話をその場では受けなかった。
量だけ聞いて、値も支払日も分からないまま飛びつくつもりはない。
2月に軍へ薪200束を売った時とは違った。
◇ ◇ ◇
陳家へ出入りする回数も増えた。
役所で長く話すより、陳家で相談した方が人目につかない。
8月13日。
田朔は荷運びの帰りに陳家へ寄った。
真夏の午後で、上着まで汗を吸っている。
春華が顔を見るなり言った。
「そのまま座らないで」
「外にいます」
「井戸で洗ってきなさい」
「着替えがありません」
「主人の古い衣を出させるわ」
春華は成人した下男を呼んだ。
田朔は庭の井戸へ行き、桶で水を汲んだ。
田朔は幼い頃から父と荷を運び、毎日のように荷車を押し、薪や炭、穀袋を担いできた。18歳になった今では、肩や背中、腕、腰、脚まで、肉体労働を続けてきた男らしい身体に鍛えられている。
武芸を習ったことはなく、殴り合いにも慣れていない。力仕事で鍛えた身体はあっても、喧嘩を仕事のようにしてきた杜三と殴り合うなら、経験の差がものをいう。
そして田朔には、鍛えられた身体とは別に、昔から明らかに人並みではないところがあった。
田朔は庭の中でも、家の者から見えやすい場所を選んで衣を脱いだ。
替えの衣を持ってきた下男が、田朔を見るなり足を止めた。
「どうした」
「いや」
「衣だろう」
「ああ」
下男は着替えを渡しながら、もう1度田朔の腰の辺りを見た。
田朔は気づいていた。
「そんなに珍しいか」
「お前……それで普通に歩けるのか」
「歩いてきただろう」
「いや、そういう意味では」
「なら何だ」
「何でもない」
下男は逃げるように家の中へ戻った。
田朔は口元を緩めた。
自分で春華へ自慢するより、家の者に勝手に喋らせた方がよかった。
◇ ◇ ◇
狙い通り、話はすぐ広がった。
2日後。
田朔が春華と茶を飲んでいると、侍女2人が田朔を見るたびに顔を見合わせている。
春華が追い払った。
「何なの、あの子たち」
「俺に聞かれても分かりません」
「本当に?」
「俺が何かしましたか」
「下男が余計なことを言ったみたい」
「何をです」
「言わせる気?」
「奥方様が話したいなら聞きます」
「そういうところ、ずるくなったわね」
「教えてくれる人がいますから」
「梁家の青蘭とかいう人?」
「蘇夫人です」
「同じでしょう」
春華は茶碗を持ち上げたものの、しばらく口をつけなかった。
結局、自分から尋ねた。
「あなた、本当にそんなに……大きいの?」
田朔は春華を見る。
「下男は何と言ったんです」
「聞き返さないで」
「俺には普通です」
「それは答えになっていないでしょう」
「ほかの男の物を並べて比べたことはありません」
「馬鹿」
春華が笑った。
「興味がありますか」
「ないわよ」
「では、この話は終わりですね」
「……本当にずるい」
春華はそう言ったが、その後は田朔が立ち上がるたび、無意識に腰の辺りへ目を向けるようになった。
田朔は気づいても何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
田朔は陳貴にも別の仕掛けを始めた。
同じ夜。
2人で酒を飲んでいる時に尋ねる。
「陳さんは妾を持たないんですか」
「急に何だ」
「今なら銭もあるでしょう」
「誰のおかげだ」
「俺です」
「そこは否定しろ」
「事実です」
陳貴が笑った。
「春華が面倒なんだ」
「奥方様が?」
「妾を入れたら、しばらく口を利かなくなる」
「それだけですか」
「それだけで十分だ」
「もったいないですね」
「何が」
「陳さんくらいなら、若くて綺麗な女を囲えるでしょう」
「お前は俺へ何をさせたい」
「別に」
「その顔は何か考えている」
「陳さんも儲けました。たまには遊んでもいいでしょう」
「お前が払うのか」
「最初の酒くらいなら」
陳貴はすぐに乗った。
「では今日行くか」
「今日は駄目です」
「なぜだ」
「女を選んでいません」
陳貴が田朔を見る。
「お前、最初から女まで選ぶ気だったのか」
「せっかくなら気に入る女を連れていきたいでしょう」
「やっぱり何か考えているな」
「陳さんに喜んでもらおうと思っています」
「その言葉が一番怪しい」
◇ ◇ ◇
翌日。
田朔は長安の妓館を3軒回った。
自分のためではない。
陳貴が欲しがりそうな女を探していた。
4軒目で、24歳の柳紅玉に会った。
紅玉は目立つ美人だった。
客の前ではよく笑うが、田朔と女主人だけになると、相手を値踏みするような目へ変わる。
田朔はそこを気に入った。
「ここを出たいですか」
「何の話?」
「妾です」
「あなたの?」
「違います」
「残念ね」
「俺なら妓館から女を買う前に家を買います」
「口が悪いわね」
「正直なんです」
「何歳?」
「18」
「それで私をほかの男へ売りに来たの?」
「売るのは店でしょう」
紅玉は声を立てて笑った。
「嫌な男ね」
「相手は役所の男です。35くらい。妻は1人。妾はいない。酒が好きで、女に褒められると機嫌がよくなる」
「金は?」
「あります」
「乱暴?」
「俺が見た限りでは違います」
「妻は?」
「美人です」
紅玉が田朔を見る。
「美人の妻がいる男へ私を入れるの?」
「だから面白いんです」
「何が?」
「俺の話です」
「本当に嫌な男」
「それもよく言われます」
田朔は紅玉の前へ100銭を置いた。
「何の銭?」
「最初に陳さんをその気にさせる分です」
「そのあと妾になれなかったら?」
「100銭はそのまま取っていい」
「なれたら?」
「俺へ返さなくていい。その代わり、陳さんが何に銭を使いたがるか教えてください」
「私を間者にするの?」
「夫婦の話を全部聞く気はありません。陳さんが次に何を欲しがっているかだけでいい」
紅玉は卓上の100銭を見た。
「妾になれれば、ここを出られる」
「そうです」
「分かった」
「では、陳さんを自分から欲しがらせてください」
「それは得意よ」
紅玉は100銭を取った。
◇ ◇ ◇
8月18日。
田朔は陳貴を妓館へ連れていった。
紅玉が酒を持って現れると、陳貴は一目で気に入った。
田朔はほとんど口を出さなかった。
「南門で働く方って怖い人ばかりだと思っていました」
紅玉が酒を注ぐ。
「俺は怖く見えるか」
「思っていたよりずっとお若いわ」
「若くはない」
「私から見れば十分です」
陳貴は機嫌よく笑った。
紅玉は男の話を遮らず、少し大げさなくらい感心して聞く。
田朔が横で何かする必要はなかった。
途中で席を立つ。
「俺は帰ります」
陳貴が呼び止めた。
「お前が連れてきたんだろう」
「陳さんはもう俺がいない方が楽しいでしょう」
「勝手な奴だな」
「奥方様には、役所の人と飲んでいると言っておきます」
「それは言わなくていい」
「では何と言います」
「何も言うな」
「分かりました」
田朔は笑って妓館を出た。
◇ ◇ ◇
2日後。
陳貴の方から田朔を呼んだ。
「紅玉を出したい」
「妓館から?」
「ほかにどこから出す」
「奥方様は」
「まだ言っていない」
「先に決めるんですか」
「お前は黙って手伝え」
「いくらまで出します」
「安くしろ」
「美人を妾にするのに値切るんですか」
「お前が言うな」
田朔は妓館の女主人と交渉した。
紅玉を手放せば、その分だけ店の稼ぎが減る。女主人も簡単には折れなかった。
話をまとめても、陳貴が持ってきた銭では500銭足りなかった。
「500足りません」
「そんなにか」
「出しますよ」
「お前が?」
「貸します」
「利息を取る気か」
「利息はいりません」
陳貴が疑う。
「では何だ」
「次の役所の商いを先に俺へ回してください」
「お前は本当に何でも銭にするな」
「女を買う500銭ですよ。米なら50升ほど買える銭です。無料では出しません」
「分かった」
田朔は札を書かせた。
陳貴は紅玉を妾にするため、田朔から500銭を借りた。
田朔にとっては、陳貴へ女を世話しただけではない。
500銭を貸し、次の役所の商いまで押さえた。
そして紅玉が陳家へ入れば、春華が面白いはずもなかった。
そこまで含めて、田朔が欲しかった結果だった。




