第8話(前編)――「役所を先に売る」
384年8月上旬。
7月末、田朔の手元には2500銭を超える銭が残っていた。
1月には母から100銭を借り、その100銭を失えば次の商売もできない有様だった。今は、牢へ送った曹五や杜三たちから預かったままの銭も、自分で稼いだ銭も、同じ袋へ入っている。
返すつもりはなかった。
父の田順が、卓に積まれた銭を見た。
「増えたな」
「まだ少ない」
「2500を超えているんだろう」
「だから少ない」
「お前、半年で随分変わったな」
「父さん。米1升はいくらだ」
「店によるが、10銭くらいだろう」
「2500銭なら米250升だ」
「十分な大金じゃないか」
「食うだけならな」
田朔は銭袋の口を締めた。
「梁景成が倉へ積んでいる穀物は、こんなものではない」
「また梁旦那か」
「比べる相手がほかにいない」
田順は呆れた顔をした。
「そのうち、銭がいくらあっても足りないと言い始めるぞ」
「もう言っている」
「知っている」
田順は笑った。
2500銭は田家にとって大金だ。しかし、これを1割増やしても250銭、2割増やしても500銭にしかならない。
曹五と杜三を騙した時には、他人の銭を元手にした。それで一気に手持ちが増えた。
ならば今度は、自分の2500銭だけを使って商売する必要もない。
もっと大きな相手の銭と信用を使えばよかった。
田朔が目をつけたのは役所だった。
◇ ◇ ◇
8月2日。
田朔は陳貴を酒屋へ呼び出した。
これまでは陳貴から呼ばれることが多かったが、今回は田朔からだった。
「何だ」
陳貴は腰を下ろすと、すぐ酒を注文した。
「飼葉と縄の話です」
「前に教えただろう」
「足りません」
「何がだ」
「量です」
陳貴が田朔を見る。
「お前、買い占める気か」
「買い占めてはいけないと言われたので、前は控えました」
「それで十分儲けただろう」
「小さいです」
「いくら欲しいんだ」
「役所が全部で何を、どれだけ欲しがっているのか知りたい」
「馬鹿を言え」
「陳さんも小銭のままでいいんですか」
陳貴の顔から笑みが消えた。
「どういう意味だ」
「俺が200銭、300銭儲けて、陳さんへ50銭渡すような話を、いつまで続けます」
「前は200寄こしただろう」
「だから小さいと言っています」
「お前にとっては大金だろう」
「俺は半年で100銭からここまで来ました。陳さんと組むなら、もっと速く増やしたい」
陳貴は杯を置いた。
「何を考えている」
「役所が必要な数を先に知る。俺が品を押さえる。役所が買い始める時には、俺から買うしかないようにする」
「俺まで巻き込む気か」
「もう巻き込まれていますよ」
「何?」
「曹五を捕まえた時からです」
陳貴は田朔を睨んだ。
「違いますか」
「随分偉そうになったな」
「儲け話です」
「それで、俺に何をさせる」
「役所が正式に買い付けを始める日を教えてください。それから必要量。買い付けを扱う書吏が、俺の品を先に見るようにしてください」
「ほかの商人はどうする」
「待たせればいい」
陳貴が笑った。
「簡単に言うな」
「検める順番くらい変えられるでしょう」
「俺1人で決められると思うな」
「決められる人に銭を渡してください」
「俺の取り分が減る」
「その分、商いを大きくします」
陳貴は田朔の顔を見た。
「いくら動かす」
「俺の銭だけなら2500ほどです」
「そんなもので大きなことを言うな」
「だから陳さんが要るんです」
「俺が銭を出すのか」
「違います」
田朔は卓へ身を寄せた。
「役所の買い付けがあると証明できれば、品は後払いでも集められます」
陳貴の表情が変わった。
「なるほど」
「俺に2500しかなくても、5000、6000の品を動かせる」
「払えなかったらどうする」
「役所へ売れば払えます」
「役所が買わなければ?」
「買うと知っているのは陳さんでしょう」
陳貴が笑った。
「お前、本当に嫌な頭をしているな」
「褒め言葉として受け取ります」
◇ ◇ ◇
陳貴はその日のうちには答えなかった。
翌日、田朔を自宅へ呼んだ。
戸口へ出てきたのは正妻の周春華だった。
「またあなた?」
「陳さんに呼ばれました」
「主人よりよく来るようになったわね」
「俺の家ではありませんよ」
「その割には遠慮がないでしょう」
春華は笑い、田朔を中へ招いた。
「主人はまだ戻っていないわ」
「待ちます」
「お茶は?」
「いただきます」
「もう客という感じでもなくなってきたわね」
「では家人ですか」
「誰が雇うと言ったの」
「奥方様なら安くしておきます」
「あなたが銭を取るの?」
「ただ働きはしません」
春華が声を上げて笑った。
田朔は菓子の包みを出した。
高価な品ではない。しかし以前、春華が甘すぎる菓子は好まないと話したのを覚えていた。
「これ、前に言ったのを覚えていたの?」
「見たことと聞いたことは忘れにくいんです」
「主人にもそのくらい覚えてほしいわ」
「陳さんは忙しいんでしょう」
「そう言って男同士でかばうのね」
「俺は奥方様の味方ですよ」
「口だけは」
「使える口でしょう」
「自分で言わないの」
春華はまた笑った。
7月に初めて陳家を訪ねた頃には、夫の帰りを待つ間に少し話すだけだった。今では春華の方から茶を勧め、以前話したことまで覚えているか確かめる。
田朔はその変化を見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、陳貴が帰ってきた。
春華と田朔が向かい合って菓子を食べているのを見ると、顔をしかめた。
「お前、俺の家で何をしている」
「待っています」
「俺を?」
「奥方様を待っていたように見えますか」
「見えるから言っている」
春華が横から言った。
「あなたが遅いのが悪いでしょう」
「俺は役所だ」
「田朔は仕事の話をしに来たんでしょう?」
「その田朔が、なぜお前と菓子を食っている」
「あなたも食べる?」
「いらん」
春華は笑いながら奥へ入った。
陳貴が田朔を睨む。
「妻へ余計なことを言うなよ」
「何をです」
「知らん」
「知らないことを禁じられても困ります」
「その口だ」
「口を閉じたら商売になりません」
陳貴はため息をついた。
「来い」
2人は庭の奥へ移った。
◇ ◇ ◇
陳貴が持ってきた話は、田朔の予想より大きかった。
南門から動く兵馬のために、飼葉、縄、麻袋、油、薪まで買い付けるという。
すべてを田朔へ回すことはできない。
それでも飼葉と縄だけで、これまでの商いとは量が違った。
「飼葉は荷車40台近く。縄は400巻ほど要るらしい」
田朔の目つきが変わった。
「本当ですか」
「まだ増えるかもしれん」
「買い付けはいつ」
「6日からだ」
「あと3日」
「だから、全部買い占めようなどと思うなよ」
「無理です」
「分かっているならいい」
「買う必要もありません」
陳貴が田朔を見る。
「何?」
「札があればいい」
「何の札だ」
「役所へ納める予定だと分かるものです」
「そんなものを勝手に出せるか」
「正式な注文書でなくていい。陳さんが、役所から飼葉と縄を集めるよう頼まれたと書けばいい」
「俺の名前を使うのか」
「陳さんの名があるから、後払いで品を出す奴が増えます」
「俺が借金するのと同じじゃないか」
「俺が払います」
「お前が逃げたら?」
「陳さんは俺の家も父さんも知っているでしょう」
「それだけでは足りん」
「では300銭先に渡します」
陳貴の眉が動く。
「300?」
「儲かったら、さらに500」
「800か」
「今回の話が本当なら」
「本当だ」
「では800」
陳貴は考えた。
「書吏にも渡す分がいる」
「そこは陳さんの800から出してください」
「お前な」
「俺は仕入れの銭を出します」
「本当に強欲だな」
「陳さんもでしょう」
陳貴が笑った。
「分かった」
その夜、田朔は陳貴に札を書かせた。
役所の印はない。
陳貴自身が、兵馬用の飼葉と縄を取りまとめるため田朔に品を集めさせる、と書いた私札だった。
正式な役所の注文書ではない。
それでも、長安の南門で働く陳貴の名が入っているだけで、田朔1人の信用とは重みが違った。
◇ ◇ ◇
翌朝から田朔は長安近郊を回った。
相手によって条件を変えた。
安く売る農家には現金を渡す。
量を出せる家には半金だけ払う。
以前から付き合いのある職人には、役所へ納めたあとに残りを払う条件を持ちかけた。
「本当に役所へ入るのか」
縄職人が札を見る。
「陳貴さんの名があります」
「役所の人か」
「南門で働いています」
「残りの銭はいつだ」
「7日後です」
「払わなかったら?」
「この札を持って陳さんのところへ行ってください」
「お前ではなく?」
「俺を捕まえてからでも構いません」
男は笑った。
「大した自信だな」
「売り先がありますから」
田朔は自分の2500銭を使いながら、陳貴の名でも品を集めた。
3日間で、飼葉23台分と縄260巻、それに麻袋を少量確保した。
仕入れと後払いを合わせた額は5000銭ほどになる。
田朔が現金で持っている額の2倍近い。
1月の田朔なら、相手にしてもらえなかった商いだった。
今は役人の名前まで元手にしていた。
◇ ◇ ◇
8月6日。
役所の買い付けが始まった。
田朔は夜明け前から南門近くへ荷車を並べた。
あとから、役所から声をかけられた別の商人たちもやってきた。
だが、品を検める順番は田朔が先だった。
陳貴が書吏の横に立つ。
「この男は昨日から待っている。先に見ろ」
実際には夜明け前に来ただけである。
書吏は何も言わなかった。
すでに話はついていた。
飼葉の乾き具合、量、縄の太さが次々に確かめられる。
田朔の品が通っていく。
後ろの商人が怒鳴った。
「俺たちの方が先に頼まれていたぞ!」
陳貴が振り返る。
「順に見る。騒ぐな」
「こいつだけ先なのはなぜだ」
「昨日から話をつけていた」
「聞いていない!」
「ならお前の聞き方が悪い」
田朔は口を挟まなかった。
誰が怒ろうが、自分の荷が先に検められればよかった。
◇ ◇ ◇
次は値段だった。
田朔は役所が急いでいることも、集まった品だけでは必要量に届かないことも知っている。
書吏が田朔の示した値を見た。
「高い」
「すぐ必要なんでしょう」
「普段より3割高いぞ」
「なら、後ろの商人からお買いください」
田朔は荷車を動かそうとした。
「待て」
「何です」
「2割だ」
「3割」
「2割」
「では俺は帰ります」
「おい」
「俺には急ぐ理由がありません」
後ろにも飼葉を積んだ荷車はある。
しかし全部合わせても足りない。
「2割5分」
書吏が言った。
「現金ですか」
「10日後だ」
「嫌です」
「役所の支払いだぞ」
「2月に薪200束を売って懲りました」
書吏が田朔を見る。
「ならどうする」
「半分を今日。半分を5日後」
「無理だ」
「では値を3割に戻します」
「何でそうなる」
「待たされる分です」
横で陳貴が笑いをこらえていた。
交渉の末、田朔は普段の買い付け値より2割5分ほど高い値を認めさせたうえ、代金の半分を早く受け取れることになった。
田朔が安い時に集めた品と、後払いで押さえた品を合わせた売上は約8300銭に達した。
そこから仕入れ代、荷車代、人足代、陳貴へ渡す800銭などを引いても、2000銭を超える利益が残った。
◇ ◇ ◇
8月9日。
田朔は帳面を広げた。
田順が横から覗き込む。
「2000?」
「もう少し残る」
「1回で?」
「そうだ」
「お前、何を売った」
「飼葉と縄だ」
「そんなに儲かるものか」
「普通に売れば無理だ」
「では、どうした」
「買う相手が欲しがる日を先に知った」
「それだけか」
「順番も先にしてもらった」
田順は息子を見る。
「役人へ銭を渡したな」
「渡した」
「いくら」
「800」
「800!」
「それでも2000以上残る」
田順は言葉を失った。
田朔は帳面を閉じた。
「父さん。米1升が10銭なら2000銭で200升だ」
「分かる」
「それを1回で取った」
「だから怖いと言っている」
「俺は楽しい」
田順はしばらく息子を見た。
「お前、本当に梁旦那を追う気なんだな」
「追う?」
田朔は笑った。
「抜くんだ」
8月上旬が終わった。




