第6話(前編)――「2人の財布」
384年6月上旬。
長安城外では麦の刈り入れが始まっていた。
畑では朝から人が動き、刈った麦を束ねて道端へ積んでいる。麦を積んだ荷車も増え、城門の近くには乾いた藁の匂いが漂っていた。
収穫した麦を運ぶには麻袋や縄がいる。荷が増えれば荷車と人足も必要になる。
田朔は自分の荷車で町を回るうちに、麻袋の値が少しずつ上がっていることに気づいた。
6月2日。
梁家へ炭を運ぶと、東の倉の脇に古い麻袋が積まれていた。
趙六が使用人へ怒鳴っている。
「破れた物は分けろ! 底の抜けた袋へ麦を入れてどうする!」
田朔は荷車から炭を下ろしながら尋ねた。
「麻袋が足りないのか」
「お前には関係ない」
「そればかりだな」
「だったら聞くな」
田朔は炭を担いだ。
「買うなら売る」
趙六が振り向いた。
「持っているのか」
「今は持っていない」
「なら黙って働け」
「いくつ欲しい」
「今のお前が聞いてどうする」
「集められるかもしれない」
趙六は少し考えた。
「今月は麦が入る。古袋を直して使っても、そのうち足りなくなるだろうな」
「新しい物なら?」
「値が合えば買う」
「何枚くらい」
「決めるのは俺じゃない」
「では、誰に聞けばいい」
「奥様か番頭だ」
田朔はそれ以上聞かなかった。
麻袋を欲しがっているのは梁家だけではない。城内の穀物商でも店先に袋が積まれ、酒屋では縄を買い足していた。城外から麦を運び込む農家も増えている。
麦が動けば、その周りでも銭が動く。
5月に梁家へ炭100束を売った時より、もう少し大きな商いができそうだった。
問題は元手だった。
自分の荷車はある。売り先も少しずつ増えた。しかし、麻袋をまとめて買えるほどの銭はまだない。
◇ ◇ ◇
6月4日。
田朔が南門を通ると、曹五が待っていた。
「田朔」
「何です」
「今月だ」
田朔は荷車を止めた。
「25銭ですね」
「30だ」
「先月も同じことを言いましたね」
「荷車を持って、梁家へ品まで売るようになった。儲かっているだろう」
「曹五さんほどではありません」
曹五が眉を上げた。
「何だ?」
「俺は朝から荷車を引いています。雨が降れば品が濡れるし、車輪が壊れれば修理代もかかる。それでやっと銭が残ります」
「だから何だ」
「曹五さんは南門にいれば、俺よりずっと銭が入るでしょう」
曹五の顔つきが変わった。
「嫌味か?」
「羨ましいと言っているんです」
田朔は、すぐに本題へ入らなかった。
「杜三も毎日露店を回っています。あれだけ集めれば、かなりになるでしょうね」
「杜三が集めた銭を、全部あいつが取れると思っているのか」
曹五の方から口を滑らせた。
田朔はすぐには食いつかなかった。
「それは大変ですね」
「何がだ」
「下から集めても、上へ渡さなければならない」
「当たり前だ」
曹五は鼻で笑った。
「お前みたいに、売った銭が全部自分の懐へ入る商売とは違う」
「俺だって仕入れがありますよ」
「俺にもある」
「何を仕入れるんです」
曹五はそこで口を閉じた。
「お前には関係ない」
「そうですか」
田朔は25銭を出した。
曹五が手を伸ばす。
田朔はまだ離さなかった。
「30だ」
「25です」
「5銭くらい惜しむな」
「曹五さんには5銭でも、俺には大きいんです」
「面倒な奴だな」
「毎月入る25銭を取るか、俺が別の門を使うかです」
「分かった。25でいい」
曹五が銭を取った。
田朔が荷車を引こうとすると、今度は曹五が呼び止めた。
「待て」
「何です」
「さっきの話だ」
「どの話です」
「俺が銭を持っているとか言っただろう」
「持っていないんですか」
「お前よりは持っている」
曹五が笑った。
田朔は、そこで余計な質問をしなかった。
「羨ましいですね」
「お前はまだ若い。もう少し世の中を知れば、荷車を引かなくても銭を取るやり方が分かる」
「曹五さんのようにですか」
「俺は働いている」
「南門に立っていますね」
「馬鹿にしているのか」
「羨ましいと言っているんです」
曹五は機嫌を直した。
「杜三が集める銭だって、全部あいつに渡しているわけじゃない。俺が見てやっているから、あいつも南門で好きにできるんだ」
「杜三さんは、月にどれくらい持ってくるんです」
今度は曹五の顔が変わった。
「聞きすぎだ」
「すみません」
田朔はすぐに引いた。
蘇青蘭から、相手が嫌がれば別の話へ移れと教わっている。
「今年は麦がよく取れていますね」
「急に何だ」
「麻袋が売れそうだと思っただけです」
「麻袋?」
曹五が反応した。
「梁家でも探しています。穀物商も買っています」
「それで?」
「俺には仕入れる銭が足りません」
田朔は、そこで初めて話を向けた。
「曹五さん、銭を増やしたくありませんか」
曹五が田朔を見る。
「どういう意味だ」
「俺が麻袋を買って売ります。曹五さんが元手を出す。儲かった分は半分ずつにする」
「お前に銭を預けろと?」
「嫌ならやめましょう」
田朔はすぐに話を切った。
食いついたのは曹五の方だった。
「どれくらいいる」
「500銭あれば、まとまった数を買えます」
「500?」
「多いですか」
「お前に渡すには多い」
「では、やめましょう」
「待てと言っている」
曹五は門前を見回した。
「どれくらい増える」
「そこまでは分かりません。値が下がれば損をすることもあります」
「減るのか」
「商売ですから」
田朔は、あえて損をする可能性まで口にした。
「ただ、今は梁家も穀物商も欲しがっています。俺なら買って売れます」
「儲けは半分だな」
「それでいいです」
「元の500は返すんだろうな」
「もちろんです」
曹五はしばらく田朔を見た。
「紙は?」
「書きましょうか」
田朔が尋ねると、曹五はすぐ首を振った。
「いや、いらん」
「なぜです」
「お前がなくしたら面倒だ」
「俺はなくしません」
「そういう意味じゃない」
曹五は声を落とした。
「誰に見られるか分からんだろう」
田朔は黙って待った。
曹五は自分から続けた。
「俺がお前へ500銭渡した理由を、いちいち人に説明したくない」
「分かりました」
「口で十分だ」
「俺は構いません」
田朔には、それで十分だった。
曹五はまとまった銭を持っている。
しかも、その銭を持っていることを人に知られたくない。
普通の商売相手とは違った。
◇ ◇ ◇
曹五が500銭を持ってきたのは翌日だった。
田朔はその場で全部数えた。
「数えるのか」
「500あるか確かめます」
「俺を疑うのか」
「梁家の銭でも数えます」
「本当に可愛げがないな」
「商売ですから」
田朔は銭を懐へ入れた。
「10日ほど見てください」
「長いな」
「売る相手を選びます」
「逃げるなよ」
「逃げるなら、毎月南門を通ったりしません」
曹五が笑った。
「それもそうだ」
田朔は南門を離れた。
500銭というまとまった元手を手にした。
しかも自分の銭ではない。
荷車を引きながら考えているうちに、もう1人の顔が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
6月6日。
田朔はわざと南門近くの露店へ行った。
杜三が手下2人と酒を飲んでいる。
田朔を見るなり顔をしかめた。
「何だ、お前」
「少し話があります」
「俺に?」
「銭の話です」
杜三の顔が変わった。
「また殴られたいのか」
「俺を殴って10銭取るより、もっと儲かる話です」
手下が笑った。
「田朔、お前が杜三兄貴を儲けさせるのか」
「嫌なら帰ります」
田朔は背を向けた。
「待て」
杜三が呼び止めた。
「何の話だ」
「麻袋です」
「麻袋?」
「麦が入るので値が上がっています。俺は売り先を知っています。ただ、仕入れる銭が足りません」
杜三が田朔を見る。
「俺に出せと?」
「200銭」
「高いな」
「毎日露店を回っている杜三さんなら、それくらい持っているでしょう」
「誰が持っていると言った」
「持っていないなら、話は終わりです」
「待て」
杜三は曹五とよく似た反応をした。
「200出したらどうなる」
「麻袋を買って売ります。儲けが出たら分けます」
「どれくらいだ」
「分かりません」
「分からないのか」
「分かるなら俺が借金してでも全部やります」
杜三は少し考えた。
「曹五は知っているのか」
田朔は迷わなかった。
「知りません」
嘘だった。
「本当か」
「曹五さんとやるなら、杜三さんから200銭もらう必要はありません」
杜三は納得した。
「それもそうだな」
「杜三さんだけの話です」
手下2人も興味を持って聞いている。
「紙を書くか」
田朔が尋ねた。
杜三は笑った。
「俺とお前の間に紙なんかいるか」
「俺は字を書けますよ」
「いらん」
「あとで200渡していないと言われても困ります」
杜三の顔が険しくなった。
「俺を疑うのか」
田朔は首を振った。
「逆です。俺が受け取っていないと言ったら、杜三さんが困るでしょう」
杜三は少し考えた。
「それなら、お前の家まで取りに行く」
「分かりました」
「逃げたら父親から取る」
田朔は笑った。
「それなら逃げられませんね」
「明日持ってくる」
「お願いします」
田朔が頭を下げると、杜三は満足そうに笑った。
「お前、本当に口の利き方が変わったな」
「儲かる相手には丁寧にします」
「正直だな」
「そこは昔からです」
翌日、杜三も200銭を持ってきた。
こちらも紙には残さなかった。
曹五の500銭と杜三の200銭で、合わせて700銭になる。
その夜、田朔は自宅で銭を分けた。
父の田順が横から見ていた。
「ずいぶん増えたな」
「俺の銭じゃない」
「誰のだ」
「人から預かった」
「何に使う」
「麻袋を買う」
「700銭も?」
田朔は父を見る。
「数えたのか」
「見れば大体分かる」
「父さんも商人になれるな」
「誰から借りた」
「商売相手だ」
「名前は」
「言わない」
田順が顔をしかめた。
「変な銭じゃないだろうな」
田朔は少し考えた。
「銭そのものは普通だ」
「その言い方が一番嫌だ」
田朔は笑った。
父にはそれ以上話さなかった。
6月上旬が終わる前に、田朔は700銭のうち480銭だけを商いへ回すことにした。
残り220銭には手をつけない。
700銭すべてを働かせなくても、曹五と杜三が自分たちの取り分に満足するだけの利益を出せると読んだからだった。




