第5話(中編)――「田朔の札」
384年5月中旬。
自分の荷車を持ってから、田朔は朝の動き方を変えた。
父の田順が頼まれた荷を運ぶ一方で、田朔は自分の注文分を集めて長安へ入る。
昼までに品を売り切れば、帰り道で次の荷を積むこともあった。
荷車が2台になっても、客が2倍になるわけではない。それでも、父の仕事が終わるのを待たずに動けるため、断らずに済む注文は増えた。
5月11日。
田朔は炭8束を積み、梁景成の屋敷へ入った。
これは田朔自身の商売ではない。
城外の炭焼きから預かり、梁家へ納める商人の荷を一部運んだだけだった。
東の倉へ着くと、趙六が荷札を受け取った。
「炭8束」
「合っています」
「今日は妙に素直だな」
「間違っていない人に文句は言いません」
「可愛げがない」
「それは商売に必要ですか」
「お前、本当に面倒な奴だな」
趙六が荷札を返そうとした時、奥から崔玉容が出てきた。
数枚の帳面を持っている。
「その炭、いくらで入っているの?」
趙六が振り向いた。
「奥様、これはいつもの商人からの分です」
「値は?」
趙六が帳面を開いた。
玉容は数字を確かめ、田朔へ目を向けた。
「あなた、炭も売っているでしょう」
「はい」
「このくらいの炭なら、いくらで集められる?」
田朔は炭の大きさ、乾き方、束ねた縄まで見た。自分が宿屋や飯屋へ売っている物と大きな違いはない。
「量によります」
玉容は田朔を見直した。
「前なら、すぐ値を言ったでしょうね」
「安く言って後で困るのは嫌ですから」
「何束なら値を出せる?」
「1日10束くらいなら、今の相場で集められます。続けて何日かとなると、先に農家と話をしないと分かりません」
「では10日間。毎朝10束」
田朔はすぐには答えなかった。
10日で100束になる。
薪200束で失敗した時には、売ることばかり考え、支払いの日さえ確かめなかった。
「代金はいついただけますか」
趙六が吹き出した。
「そこから聞くのか」
田朔は趙六を見なかった。
玉容が答える。
「10日分を全部納めた日に払う」
「途中で値が下がったり上がったりしても、決めた値ですか」
「そう」
「受け取る炭の大きさと乾き方も、今の物と同じでいいですか」
「ええ」
「雨で遅れた場合は?」
「遅れた分は買わない」
「分かりました」
玉容が田朔を見る。
「やるの?」
「値を決めてからです」
「やっと商人らしいことを言うようになったわね」
田朔は仕入れ値と運ぶ手間を頭の中で計算し、自分の取り分を加えた値を示した。
玉容は帳面にある今の仕入れ値と比べた。
「今の仕入れより少し安いわね」
趙六が眉をひそめる。
「安すぎないか」
「俺が集められる範囲なら、この値で残ります」
玉容が聞いた。
「途中で集まらなくなったら?」
「高く買ってでも持ってきます」
「それでは損をするでしょう」
「約束を破るよりはましです」
「なぜ?」
「次の仕事がなくなるからです」
玉容は田朔から帳面へ目を移した。
「いいわ。明日から10日間」
田朔は懐から紙を出した。
「書いてもいいですか」
「好きにしなさい」
田朔は数量、日数、1束の値、支払日を書いた。
玉容が内容を確かめ、梁家の印を押させた。
趙六が呆れた顔をする。
「梁家を信用しないのか」
「大きな家だからこそ、俺の言ったことなど忘れられたら困ります」
玉容が田朔を見る。
「それでいいわ」
田朔は札を受け取った。
初めて梁家から田朔自身へ仕事が出た。
父が運びを請け負った荷でもなければ、別の商人から回された仕事でもない。
札には、田朔が炭を納めると書かれていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、田朔は城外の炭焼きを回った。
毎朝10束を10日間。合計100束になる。
1軒だけへ頼めば、そこで何か起きた時に全部止まる。
田朔は3軒から分けて集めることにした。
「梁家へ持っていく」
最初の男が聞き返した。
「お前が梁家へ?」
「俺の名で売る」
「随分出世したな」
「炭100束だけだ」
「俺には大きい話だ」
田朔は1日の数量と値段を紙へ書いた。
「濡れた物は持っていきません。大きさも揃えてください」
「前は何でも持っていったじゃないか」
「今度は俺が買い取ります。梁家に断られたら俺の損です」
男の顔が変わった。
「なら、少し値を上げろ」
「上げません」
「お前が梁家へ高く売るんだろう」
「俺が運んで、俺が断られる責任も取ります」
「口だけ立派になったな」
「前から口は立派です」
「そこは変わらんな」
男が笑った。
田朔は3軒と話をつけた。
初日から3日目までは、毎朝10束を問題なく納めた。
梁家へ入る前には、縄が緩んでいないか、炭が崩れていないか、湿って重くなっていないかを確かめた。
今までは売り手と買い手をつなぎ、手数料を取ればよかった。
今回は違う。
梁家が買う相手は田朔だ。
品が悪ければ、農家ではなく田朔の名が傷む。
田朔が守りたいのは農家との約束ではない。
梁家から次の注文が来なくなる方が困った。
◇ ◇ ◇
5日目の朝、問題が起きた。
前夜に雨が降った。
炭を受け取りに行くと、軒下へ積んであった束の一部まで湿っていた。
田朔は1束を持ち上げた。
いつもより重い。
「これは持っていけません」
炭焼きの男が顔をしかめる。
「中まで濡れていない」
「梁家で断られます」
「乾けば同じ炭だ」
「今日の朝に乾くんですか」
「お前が日に当てろ」
「そんな時間はありません」
約束の10束のうち、使えるのは6束だった。
あと4束足りない。
田朔は別の農家へ荷車を走らせた。
そこには余分が2束しかなかった。3軒目へ行くと3束あった。
合計は11束になる。
ただし、急に買いに来た田朔へ、いつもの値で売る者はいなかった。
「急いでいるんだろう」
農夫が言う。
「梁家へ持っていくなら、これくらい出せ」
田朔は値を聞き、顔をしかめた。
「高すぎます」
「なら持っていかなくていい」
田朔は相手の顔を見た。
梁家が縄を急いでいた時、自分も同じことをした。
「前に俺も同じことをしました」
「なら分かるだろう」
「分かります」
田朔は高い値で5束を買った。
その日の利益はほとんど消えた。
それでも10束を選んで梁家へ運んだ。
趙六が数える。
「10束。今日は遅かったな」
「雨のせいです」
「濡れていないだろうな」
「確かめてください」
趙六が1束をほどき、中を見る。
「大丈夫だ」
田朔は濡れた炭を混ぜて持ち込まずに済んだことを確認し、荷車の引き手へ手を掛けた。
「何だ、その顔は」
「今日は高くつきました」
「知らん」
「梁家の人は皆それを言いますね」
「お前の儲けまで面倒を見てどうする」
「その通りです」
田朔は空の荷車を引いて帰った。
今日の稼ぎは少なかった。
それでも10日分の仕事を失うよりは安い。
その計算なら田朔にもよく分かった。
◇ ◇ ◇
5月21日。
最後の炭10束を納めた。
趙六が数量を確かめ、帳面へ印を付けた。
しばらくして玉容が来た。
「100束、全部入ったわね」
「はい」
「5日目だけ遅かった」
「雨で濡れた炭を持っていくところでした」
「持ってこなかったのね」
「別のところから買いました」
「高かったでしょう」
「ほとんど残りませんでした」
「それでも持ってきた」
「約束ですから」
玉容は帳面を閉じた。
「では約束通り払うわ」
田朔は受け取った銭をその場で数えた。
趙六が呆れた顔をする。
「また数えるのか」
「数えます」
「梁家の銭だぞ」
「梁家の銭でも数は同じです」
玉容が尋ねた。
「合っている?」
「はい」
「利益は?」
田朔は頭の中で計算した。
「修理した荷車に使った銭の一部は戻せました」
「聞いたことに答えていないわ」
「全部は教えません」
趙六が笑った。
「奥様にまで隠すのか」
「仕入れ値まで全部言う商人がいるんですか」
玉容は田朔を見た。
「そこも覚えたのね」
「郭安に教わったわけではありません」
「では誰に?」
「今、考えました」
玉容は田朔を追及しなかった。
「次も同じ値でできる?」
「同じ量なら、炭を出す家と先に話します」
「分かった。必要なら趙六から伝えさせるわ」
田朔はいつもの調子で返しかけ、言葉を直した。
「ありがとうございます」
趙六が目を丸くする。
「本当に田朔か」
「うるさい」
「そこは田朔だな」
趙六が笑った。
田朔は銭袋を懐へ入れた。
梁家の帳面には、田朔の名で100束の炭を納めた記録が残った。
量そのものは小さい。
だが、荷運びとして門を出入りしていた頃とは違う。
梁家が田朔から品を買った。
今の田朔にとっては、その事実の方が100束の炭より値打ちがあった。




