第5話(前編)――「最初の荷車」
384年5月上旬。
長安城外では麦の穂が伸び、昼になると乾いた道から埃が立つようになった。
田朔は、朝から父の田順と荷車を押していた。
この日の荷は薪18束、豆3斗、卵80個だった。どれも田朔が先に注文を取り、届け先と値段を札に書いてある。
問題は、父の荷車を使わなければ運べないことだった。
田順には田順の仕事がある。田朔の商売が増えるにつれて、荷車を使いたい時間が重なることも多くなっていた。
「豆を先に持っていきたい」
田朔が言うと、田順は荷車を止めなかった。
「先に薪だ」
「豆の店は昼までに欲しいと言っている」
「薪の客は朝と言った」
「分けて運べれば済むのに」
「荷車は1台だ」
「分かっている」
「分かっている顔ではないな」
田朔は返事をしなかった。
4月末に銭を数えた時には、中古の荷車を買うにはまだ足りなかった。
ただ、以前ほど遠い金額ではなくなっていた。
それから田朔は、町へ入るたびに売り物の荷車を見るようになった。
車輪の減り方、軸の傷、引き手の割れまで見る。値札がなければ持ち主に直接聞いた。
すぐに使える物は高い。
安い物には、安いだけの理由があった。
◇ ◇ ◇
5月3日。
田朔は南門から少し離れた道で、片輪を外した小さな荷車を見つけた。
持ち主は荷運びをしていた男だった。腰を悪くして仕事をやめ、妻の兄を頼って別の土地へ移るという。
車体は古かった。
底板や側板には何度も補修した跡があり、引き手にも縄が巻かれている。ただし板は腐っておらず、軸も折れてはいなかった。
外されていた車輪は、縁の一部が欠けていた。
「いくらですか」
田朔が尋ねると、男は値を言った。
田朔の持ち銭では足りなかった。
「高いですね」
「車輪を直せば、まだ何年も使える」
「直す銭もかかります」
「なら買わなくていい」
男は田朔から目を離した。
田朔は帰らず、荷車の周囲を見た。
家の前には布団、鍋、木箱などがまとめて置かれている。男の妻らしい女が、家財を縄で縛っていた。
「引っ越すんですか」
男が田朔を見る。
「妻の兄のところへ行く」
「いつです」
「明日だ」
田朔は荷車へ目を戻した。
「明日までに売れなかったら、これはどうするんですか」
男の顔が険しくなった。
「置いていくしかない」
「では、この値なら今払います」
田朔は、最初に言われた額よりかなり低い金額を示した。
「ふざけるな」
「俺も車輪を直さなければ使えません」
「その値なら置いていく」
「置いていけば銭は0です」
男が黙った。
「今なら全部払います。明日になって買う人が来るかもしれません。ただ、来ないかもしれない」
「もう少し出せ」
「これが全部です」
嘘だった。
銭袋には、まだ少し残してある。
男は妻を見た。
妻が家財を縛る手を止めた。
「売ってしまいましょう。持ってはいけないんだから」
男は田朔を睨んだ。
「若いくせに足元を見るな」
「俺も銭がありませんから」
「その言い方で悪びれないのか」
「安く買えるなら、その方が助かります」
男は呆れた顔をした。
結局、田朔が出した額へ少し上乗せしたところで話が決まった。
田朔はその場で売買の札を書いた。
荷車1台。
外した車輪1つを含む。
代金は受け取り済み。
男に内容を読んで聞かせ、印をもらった。
田朔は札を懐へ入れた。
「これで俺の物ですね」
「そうだ」
「あとから返せと言われても返しません」
「誰が言うか」
「念のためです」
「お前は本当に嫌な商人になりそうだな」
田朔は笑った。
「まだ荷車1台です」
◇ ◇ ◇
買った荷車は、そのままでは使えなかった。
田順に見せると、父は最初に外れた車輪を持ち上げた。
「これを買ったのか」
「安かった」
「安い理由が付いているな」
「直せるか」
「俺は車大工ではない」
「見れば分かるだろう」
「分かる。金がかかる」
田朔は顔をしかめた。
「そこまでひどいのか」
「車輪の縁を直して、軸にも油を入れた方がいい。引き手の縄も巻き直せ」
「いくらくらいだ」
「店で聞け」
翌朝、田朔は修理を頼んだ。
残していた銭の大半が消えた。
田順が横で笑った。
「全部だと言って値切ったらしいな」
「誰から聞いた」
「売った男だ。昔、一緒に荷を運んだことがある」
田朔は父を見る。
「知り合いだったのか」
「狭いところで20年以上荷を運んでいるからな」
「先に言え」
「聞かれなかった」
田朔は舌打ちした。
「郭爺さんに、舌打ちは商売に向かないと教わらなかったか」
「父さん相手ならいい」
「そのうち痛い目を見るぞ」
「もう何度も見た」
田順は笑った。
◇ ◇ ◇
5月6日。
修理した荷車が戻ってきた。
父の物より小さく、牛や馬をつなぐ車ではない。人が前から引き、必要なら後ろから押す程度の大きさだった。
田朔には十分だった。
最初に積んだのは炭10束と縄8巻だった。
田順が荷を見た。
「載せすぎるなよ」
「これくらいなら大丈夫だ」
「自分の物になった途端、壊したら笑ってやる」
「縁起でもないことを言うな」
「昨日まで俺の荷車を好き勝手使っていた男が言うことか」
田朔は引き手を握った。
木が手のひらへ食い込む。
父の荷車を後ろから押すのとは違った。前へ出せば、荷の重さを受けながら自分の足で引かなければならない。坂ではさらに重くなり、車輪が石に当たれば止めて押し直す必要もあった。
それでも、田順が仕事を終えるのを待つ必要はなくなった。
「父さんは自分の仕事へ行ってくれ」
田順が息子を見る。
「本当に1人で行くのか」
「俺の客だ」
「そうか」
田順も自分の荷車の引き手を持った。
「壊したら手伝わんぞ」
「分かっている」
「客に喧嘩を売るなよ」
「分かっています」
田順が笑った。
「俺にだけ丁寧に言っても遅い」
親子は道の分かれる場所で別れた。
田朔は自分の荷車を引いて長安へ向かった。
手に入れたのは荷車1台だけだった。牛も馬も倉もない。それでも、自分の商売に使う道具を初めて自分の銭で手に入れた。
南門へ近づくと、曹五が荷車に気づいた。
「随分と羽振りがよくなったな」
「中古です」
「俺には急に丁寧だな」
「銭を払っている相手ですから」
曹五が笑った。
「今月は30銭だ」
「25銭の約束です」
「荷車まで持った奴が5銭を惜しむな」
「荷車を買ったから銭がありません」
「知らん」
田朔は曹五を見る。
「25銭で今まで通りなら払います。30銭なら、南門を使う回数を減らします」
「遠回りするのか」
「5銭のためなら考えます」
「馬鹿か、お前は」
「銭の話です」
曹五は鼻で笑った。
「25でいい。だが来月は分からんぞ」
「来月は来月に話します」
田朔は25銭を渡した。
曹五は荷車を軽く蹴った。
「せいぜい壊すなよ」
「縁起でもないことを言う人が今日は2人目です」
田朔は荷車を引き、城内へ入った。
炭と縄は、その日のうちにすべて売れた。
帰りの荷車は空だった。
荷を積んでいた時とは比べものにならないほど軽い。田朔は引き手を握りながら、翌日に何を積むか考えた。
荷車を持っただけでは銭にならない。
空のまま走らせる時間を減らす必要がある。
5月上旬が終わる頃には、田朔が父とは別に長安へ入る日が増えていた。
田家の荷車は、初めて2台になった。




