第4話(後編)――「青蘭の目」
384年4月下旬。
田朔の手元に残る銭は少しずつ増えていた。
まだ荷車を買えるほどではない。
それでも1月の頃とは違い、数十銭を失えば何もできなくなる状態からは抜け出しつつあった。
田朔は使う銭と残す銭を分けた。
郭安へ払う稽古代。
父へ払う荷車代。
曹五へ渡す25銭。
食事代。
商売で必要になる細かな銭。
それらを先に除き、残りを別の袋へ入れた。
田順が袋を見つける。
「何だこれは」
「俺の銭だ。触らないでくれ」
田順が目を丸くした。
「俺にまで丁寧になったのか」
「今だけだ」
「何で今だけなんだ」
「荷車を買う銭だから触ってほしくない」
「本気で買うのか」
「いつまでも父さんの荷車だけでは、運べる量が増えない」
「牛はどうする」
「最初は人が引く小さな物でいい」
「中古でも安くないぞ」
「分かっている」
「いくら貯まった」
「まだ足りない」
「なら働け」
「言われなくても働く」
田順が笑った。
「もう終わったな」
「何が」
「丁寧なのがだ」
「父さん相手に長く続ける必要はない」
「郭爺さんに聞かせたいな」
田朔は銭袋を取り返した。
◇ ◇ ◇
4月23日。
田朔は梁家へ甘い菓子を持っていった。
荷ではない。
何小玉との約束だった。
仕事を終えたあと、裏門近くで待った。
しばらくすると、小玉が侍女と一緒に出てきた。
「本当に持ってきたの?」
「高かった」
「毎回それを言うわね」
小玉が包みを受け取った。
「今日は何を聞きたいの」
「分かってきたな」
「棗の時から分かっているわよ」
田朔は笑った。
「蘇夫人のことを聞きたい」
小玉が田朔を見る。
「蘇夫人?」
「何だ」
「前は青蘭って呼んでいたでしょう」
「郭安に、目上の人には口の利き方を変えろと言われた」
「あなたが?」
「俺だって覚える」
小玉は笑った。
「似合わない」
「放っておけ」
「ほら、もう戻った」
「お前にはいい」
「ずるい」
田朔は菓子を指した。
「蘇夫人は、軍の客が来る時に近くにいることが多いと言っただろう」
「そうね」
「どんな話をしている」
「私は一緒にいないから知らないわよ」
「客の名前は」
「それも知らない」
「では、知っていることだけでいい」
小玉が少し驚いた。
「ずいぶん素直ね」
「怒らせると話が聞けないと習った」
「郭安さん、いい先生ね」
小玉は菓子を1つ取った。
「青蘭姉さんは、旦那様のお客様をよく覚えているの。前に会った時に何を話したかも覚えているから、旦那様が重宝しているみたい」
「軍人だけか」
「商人も役人もよ」
「誰にでも愛想がいいのか」
「そうね。でも相手によって話し方を変えるわ」
田朔が顔を上げた。
「それもか」
「何が?」
「俺も今、それを習っている」
小玉が笑った。
「青蘭姉さんの方がずっと上手よ」
「どう変えるんだ」
「偉い人には、その人が気持ちよく話せるようにする。商人なら商売の話をする。若い人には冗談も言う」
「男を扱うのが上手いんだな」
小玉が笑った。
「本人に言ってみれば?」
「怒るか」
「たぶん笑う」
「その方が面倒だな」
「どうして?」
「怒る奴なら、何に怒ったか分かる」
小玉は菓子を食べながら笑った。
「それは当たっているかも」
「私が何ですって?」
後ろから女の声がした。
小玉の顔から笑いが消えた。
田朔が振り向く。
赤みを帯びた上等な衣を着た女が立っていた。
蘇青蘭だった。
近くで顔を見るのは初めてだった。
口元には笑みがある。
だが、田朔を見る目は小玉とは違った。
服、手、履物、顔。
田朔が気づくほど露骨ではないが、青蘭は一度見ただけで全部確かめていた。
「青蘭姉さん」
小玉が困った顔をした。
「何を話していたの?」
「何でもないの」
「私の名前が聞こえたけれど」
田朔が答えた。
「俺が聞きました」
青蘭が田朔を見る。
「あなたが田朔ね」
「俺を……ご存じなんですか」
言い直した田朔を見て、青蘭の笑みが少し大きくなった。
「面白い話し方をするのね」
「今、習っているところです」
「誰に?」
「郭安という人です」
「字だけではなく、口の利き方まで?」
「必要だと言われました」
「それは正しいわね」
青蘭は小玉が持っている包みを見る。
「今日は菓子?」
小玉が少し隠した。
「もらっただけよ」
「この前は棗だったでしょう」
田朔は黙った。
青蘭が田朔を見る。
「ずいぶん安く梁家の話を買っているのね」
小玉の顔が赤くなった。
「私はそんなつもりじゃ」
「小玉を責めていないわ」
青蘭は田朔へ視線を戻した。
「あなたが上手なのか、小玉が人を疑わなすぎるのか、どちらかと思っただけ」
「どちらですか」
「両方ね」
田朔は少し笑った。
「では、もう小玉には話させないんですか」
「どうして?」
田朔は意外だった。
「梁家の話を外の男にしています」
「あなたが聞いていることなんて、今のところ大した話ではないもの」
「今のところ?」
「奥様が帳簿を見る。彩児が馬を見る。私がお客様の顔を覚えている。それを知って、今のあなたに何ができるの?」
田朔は答えられなかった。
「何もできないでしょう」
小玉が青蘭を見る。
「青蘭姉さん」
「怒っていないわよ」
青蘭は小玉から菓子を1つ取った。
「甘いわね」
田朔が言った。
「高かったんです」
青蘭が笑った。
「小玉にも同じことを言ったでしょう」
「言いました」
「ずいぶん素直」
「本当に俺には高いんです」
「では、その高い菓子で私の何を知りたかったの?」
「梁旦那のお客様と、どんな話をしているのか知りたかった」
青蘭の目が少し変わった。
「梁旦那?」
「そう呼んだ方がいいと教わった」
「3か月で随分変わるものね」
「得になることは覚えます」
「そこは変わっていないのね」
青蘭が笑った。
田朔は尋ねた。
「客から話を聞き出すんですか」
「私は無理に聞き出したりしないわ」
「向こうから話す?」
「そういう方もいるわね」
「どうやって喋らせる」
青蘭が目を細めた。
「そこだけ急に元へ戻ったわね」
小玉が吹き出した。
田朔は少し顔をしかめた。
「どうやって話してもらうんですか」
「今度はよくできました」
「答えは?」
「知りたい?」
「もちろん」
「では、お菓子をもう1包み」
田朔が青蘭を見る。
青蘭は笑っている。
小玉も楽しそうだった。
「田朔、取られたわね」
「お前の分を半分渡せ」
「嫌よ。これは私の」
青蘭が笑った。
「小玉から梁家の話を聞く前に、あなたはもう少し人との話し方を覚えた方がいいわね」
「郭安にも言われています」
「字と違って、すぐには覚えられないでしょう?」
田朔は少し考えた。
「相手によって違うから面倒です」
「だから役に立つのよ」
その言葉で田朔は青蘭を見る。
郭安と同じことを、別の言い方で言われた。
青蘭は小玉の肩に手を添えた。
「行きましょう」
「うん」
2人が歩き出した。
青蘭が途中で振り返る。
「田朔」
「はい」
「小玉は人がいいから、あまり困らせないでね」
「困らせていません」
「そういうことにしておくわ」
青蘭は笑い、小玉と一緒に屋敷へ戻った。
田朔は裏門の脇に残った。
小玉から梁家の話を聞いていることは、とうに気づかれていた。
しかも青蘭は、知った上で止めなかった。
理由までは分からない。
少なくとも、青蘭には小玉と同じやり方は通じなかった。
◇ ◇ ◇
4月26日。
田朔は再び梁家へ荷を運んだ。
小玉には会わなかった。
青蘭も姿を見せない。
代わりに、馮彩児が馬を引いて中庭へ入ってきた。
泥のついた靴で馬から降りると、すぐに馬の脚を確かめている。
使用人が手綱を受け取ろうとしたが、彩児は渡さず、蹄の辺りを指して何か指示した。
その後から梁景成も馬で戻ってきた。
彩児と話しながら笑っている。
田朔は少し離れた場所から見た。
趙六が横へ来る。
「また女を見ているのか」
「馬も見ています」
趙六が目を見開く。
「誰だ、お前」
「田朔だ」
「そこは戻るんだな」
「お前に丁寧に話して何の得がある」
「やっぱりお前だ」
趙六が笑った。
「馬が分かるのか」
「分からない」
「だったら女を見ているだけじゃないか」
「そうとも言う」
「懲りない奴だな」
「何に懲りるんだ」
「お前には一生関係ない女だ」
田朔は趙六を見る。
「前にも聞いた」
「何度でも言ってやる」
「では覚えておく」
「何を」
「お前がそう言ったことをだ」
趙六が笑う。
「好きにしろ」
田朔は荷を担いだ。
◇ ◇ ◇
4月30日。
田朔は月の収支を紙へ書いた。
普段の小商い。
旅人から安く買った豆の利益。
梁家へ納めた縄の利益。
荷車代。
郭安へ払った銭。
曹五へ渡した25銭。
食事代。
小玉へ買った菓子。
最後に残った銭を数えた。
まだ荷車には届かない。
それでも、3月末より確実に増えている。
田順が横から紙を見る。
「菓子まで書くのか」
「使った銭だからな」
「何の商売に使った」
「話を聞くためだ」
「女に使ったんだろう」
「結果として話も聞いた」
田順が笑った。
「便利だな、その理屈は」
「無駄ではなかった」
「何を聞いた」
「言わない」
「なら聞かん」
田順は寝床へ入った。
田朔は紙をもう一度見た。
4月は、それまでの3か月より銭が残った。
杜三の代わりに曹五へ直接払うようになり、南門を通りやすくなった。梁家が急いでいた縄を集め、84銭を得た。
その一方で、蘇青蘭には小玉から話を聞いていることを見抜かれた。
そして、字だけでは足りないことも分かった。
同じことを言うにも、相手によって言い方を変えた方が得になる。
田朔はまだ何度も失敗した。
父や趙六を相手にすれば、すぐ昔の口へ戻る。
それでも客や年長者、梁家の主人や妻妾を前にした時には、一度考えてから口を開くことが増えた。
田朔は銭袋をしまった。
口の利き方まで銭になるなら、覚えればいい。
384年4月が終わった。




