第4話(前編2)――「帳面の先に生まれた息子」
387年11月下旬、長安。
官倉から粟と麦が売り出されると、市場には早朝から買い手が集まった。初日は用意した穀物の大半が昼過ぎにはなくなり、役人は売り場を増やして混雑を減らした。値が落ち着くと見るや、在庫を抱えていた穀物商も少しずつ荷を出し始めた。
ただ、秦王田朔は手放しで喜ばなかった。官倉の穀物を安く売り続ければ、今度は冬の守備隊の飯が足りなくなる。馮岳から倉の残量と毎日の販売数を報告させ、必要以上に放出しないよう指示した。
「皆が買える値になれば結構だが、春まで食わせる兵もいるからな。市場を助けるために軍が飢えたら、笑い話にもならん」
陸文昭からは、商人たちが街道の関所で余計な銭を取られているとの報告もあった。積み荷を調べる際、決められた通行料とは別に小銭を要求する守備兵がいるらしい。
「誰が何を取ったか、帳面と商人の話を照らし合わせて調べてくれ。証拠もなく処罰はせんが、本当なら俺の兵が盗賊と同じことをしているわけだ。道を守るために置いた奴が荷車から銭をむしったら、商人はほかの町へ行ってしまう」
検査そのものは続ける。武器の密輸や敵の使者を見逃すわけにはいかない。だが、検査する権限と勝手に銭を取る権限は別物だった。田朔は関所の運用を確かめ、長安でうまくいけば新たに帰順した西方の城にも同じ調査を広げるよう命じた。
◇ ◇ ◇
穀物の値が落ち着き始めたと聞いた許玉蓮は、夫の顔を見てほっとした。
「商人たちも倉から品を出してくださったのですね。売値が下がるのは困るとおっしゃりながら、品物が売れなければ銭は入ってきませんもの」
「お前が帳面を見つけてくれなければ、俺も気づくのが遅れたかもしれん。昔は仕入れた品を少しでも高く売ることばかり考えていたが、国の商売となると客の腹まで見なきゃならんらしい」
玉蓮は微笑み、昔の田家の帳場でも夫は銭を使う決断だけは早かったと話した。田朔が新しい商いを思いつくと、玉蓮は仕入れ値だけでなく荷車と人足の費用まで計算し直したものだ。儲けが出た時には二人で喜んだが、思い返せば何度も危ない橋を渡ってきた。
「今は殿下が王でいらっしゃるのですから、損をするのも田家だけでは済みませんね。どうぞ、これからも帳面を大切になさってくださいませ」
「任せろと言いたいところだが、お前ほど数字に強くはない。まずは元気な子を産んでくれ。帳面の相手はそれからでいい」
玉蓮は腹をなでた。最近は夜中に寝返りを打つのも大変で、長時間椅子に座っていることさえつらい日がある。産婆の支度は整い、王后崔玉容も休養しながら経験を伝えてくれていた。田朔は初めて母になる妻の緊張を感じ取り、無理をしなくてよいと何度も伝えた。
11月25日の朝、玉蓮はいつもより強い腹の張りを感じた。医者は、すぐに産まれるとは限らないが、今夜から明日にかけて陣痛が始まるかもしれないと告げた。侍女は清潔な布と湯を用意し、産婆は部屋の近くで夜を明かすことになった。
田朔が訪ねると、玉蓮は寝台から笑顔を向けた。
「殿下、いよいよかもしれません。でも、まだ痛みは落ち着いておりますから、どうぞお仕事をなさってください。始まりましたら、すぐにお知らせいたします」
「そう言われると、ますます気になるな。だが、お前に寝不足で文句を言われるのも嫌だ。今夜は俺も休む。何かあれば遠慮なく呼んでくれ」
玉蓮は昔から、田朔がせっかちになった時に言葉を選んで止めるのが上手かった。彼女に言われるまま夫は隣室を出て、侍女に夜間の見守りを頼んだ。
◇ ◇ ◇
11月26日の夜明け前、玉蓮の陣痛が始まった。
痛みの間隔が短くなるにつれ、玉蓮は産婆に背中を支えられ、教えられたとおりに呼吸を整えた。初めてのお産は思っていたより長く、痛みが弱まった間にも疲れが残る。彼女は侍女に水を飲ませてもらい、次の陣痛に備えた。
朝になって知らせを聞いた田朔は部屋へ駆けつけた。玉蓮は痛みの合間に夫の手を取り、隣で待ってほしいと頼んだ。
「殿下が何度も入ってこられると、産婆の方々も落ち着いてお仕事ができませんでしょう。私は大丈夫ですから、お父様と隣のお部屋でお待ちください」
「昔からお前にはかなわんな。分かった。今日は余計な口を出さず、ここで待っているよ」
父の田順もやってきた。2人は食事を勧められたが、田朔は箸を持ったまま何度も戸へ顔を向ける。田順はその様子に笑い、戦場の大将が産婆の前では手も足も出ないのうとからかった。
「笑わないでくれよ、父上。敵の陣なら俺が動けば済む。今は玉蓮が頑張っているのに、俺には待つことしかできん」
午後遅く、隣室から赤子の産声が聞こえた。田朔が立ち上がると、しばらくして産婆が現れ、玉蓮が元気な男児を産んだこと、母子ともに大きな問題はないことを告げた。
「男の子か! 玉蓮も無事なんだな。よく頑張ってくれた。世話をしてくれた者にも、あとで褒美を出そう」
産後の支度が整ってから部屋へ入ると、玉蓮は疲れた顔で夫を迎えた。布にくるまれた息子は、すでに眠っている。田朔は産婆に教えられながら抱き上げ、その小さな顔を見た。
「これで俺は3人の子の父親だ。最初の息子に玉容の娘、それから今度はお前との息子か。父上に、ますます長生きしてもらわんとな」
玉蓮は赤子を見つめ、ようやく自分も母になれたのだと笑った。田朔は、計算の得意な子に育ててくれと言いかけてやめた。今は帳面の話より、妻の休息が先だった。
夕方、玉容からも祝いが届けられた。次は蘇青蘭、そして拓跋阿若のお産が控えている。田家の王宮は、これからしばらく産声の絶えない場所になりそうだった。
玉蓮は、眠る息子を見ながら、田家の帳場で荷を数えていた昔の日々を話し始めた。仕事が終わっても田朔が次の商いを考えていると、玉蓮は翌朝までに必要な銭を計算しておいたものだ。あの頃、こんな広い宮殿で自分の子供を抱く日が来るとは思いもしなかった。
「殿下、商売のことも忘れたくはございませんけれど、しばらくはこの子の世話を覚える方が先ですね。帳面なら読み返せますが、赤子の泣く理由は毎回違うのでしょう?」
「俺にも分からんことばかりだよ。長男が生まれた時も、何をしてほしいのか玉容に教わったくらいだ。だからお前も、産婆や侍女に遠慮なく頼ってくれ」
田朔は息子を寝かせると、翌日の政務を少し遅くしてもらうことにした。何より妻が十分に休めているか確かめたかった。玉蓮は、殿下が王宮へ戻るたびにこうして顔を見せてくださるなら十分だと答え、夫を見送った。
廊下へ出ると、田順が侍女から男児の様子を聞いていた。田朔が自分の子を抱いた時の不器用な手つきまで知られていたらしい。父に笑われても、田朔は少しも腹が立たなかった。新しい命を迎えるたび、王宮が自分たちの家であることを確かめられる。それが何より嬉しかった。




