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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第五章――「梟雄、天下を奪う」

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第4話(前編1)――「値上がりする長安の粟」

 387年11月中旬、長安。


 王后崔玉容(ツイ・ユーロン)が娘を産んでから数日が過ぎた。宮城の奥では赤子の泣き声が聞こえ、侍女たちは湯を沸かしたり、洗った産着を干したりしている。玉容は産後の回復も順調で、医者に勧められたとおり休んでいた。


 昭儀の許玉蓮(シュイ・ユーリエン)は、そんな後宮の一室で納品の帳面を開いていた。出産が近いため立ち仕事は控えているが、長く田家の商いを助けてきた玉蓮には、数字を確かめる習慣が染みついている。侍女が届けた納品書を数日前のものと並べると、粟と麦の値が目立って上がっていた。布や油はそれほど変わっていない。


「こちらの値は、市場でも同じなのでしょうか。それとも宮城に納める商人だけが上げているのですか」


 呼ばれた納品係は、城内の穀物商も冬を見越して値を上げていると答えた。西方の守備隊へ送る兵糧の買い付けが続き、商人の中には値上がりを待って倉から穀物を出さない者もいるらしい。


 玉蓮は市場の在庫と軍の支払い状況を調べるよう頼んだが、自分で店を回るつもりはなかった。腹はすでに重く、椅子を離れる時には侍女の手を借りる。彼女は帳面を閉じて背もたれに寄りかかり、かつて田朔と荷の仕入れを相談していた頃を思い出した。


 その時は、安く仕入れて高く売れば田家の利益になると考えればよかった。今は違う。王宮に穀物が十分あっても、市場の値が上がれば、毎日の稼ぎで食べ物を買う者から先に困る。商人として値上がりを待つ気持ちは分かるが、秦王の妻として放ってもおけなかった。


 昼前、政務を終えた田朔(ティエン・シュオ)が玉蓮を訪ねた。卓に積まれた書類を見るなり、少し顔をしかめる。


「お前はもうすぐ産むんだぞ。帳面の虫が腹の中にまで移ったらどうする」


「それなら、殿下のお子はきっと計算が得意になりますね。座ったまま少し調べただけですから、ご心配なく」


 玉蓮が笑って書類を渡すと、田朔の表情が変わった。粟と麦だけが続けて上がっている。収穫が終わったばかりの時期に市場から穀物が消えかけているのなら、軍の買い付けだけが原因とも限らない。


「俺が商人なら、来月はもっと高くなると思えば売るのを待つだろうな。だが今は王様だ。皆が同じことをやったら、客の方が飯を食えん」


「商人へ安値を押しつけても、別の町へ運ぶか、倉の奥へ隠すだけでしょう。軍が約束した代金を払っているかも確かめてくださいませ。後秦の頃のような扱いを恐れている商人もおりますから」


 田朔は妻の意見を聞き、翌朝に馮岳(フォン・ユエ)と陸文昭(ルー・ウェンジャオ)を呼ぶと決めた。玉蓮にはそれ以上仕事をさせず、用意された昼食を一緒に取った。腹の子が動くと、玉蓮が夫の手をその場所へ導く。


「今度はお前の番だな。玉容は無事に娘を産んでくれた。お前も元気な子を抱かせてくれよ」


「男の子でも女の子でも、まず無事に生まれてほしいと思っております。初めてですから、さすがに少し緊張いたしますけれど」


 田朔は妻の手を握った。戦に出ていれば自分で判断できることも多いが、お産だけは代わってやれない。必要な物を惜しまず揃えると約束し、午後は玉蓮を休ませた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝の軍議では、馮岳が長安周辺の官倉の残量を示した。冬の守備隊へ送る分を除いても多少の余裕はある。ただし、各部隊がばらばらに買い付ければ、商人同士の競り合いを招き、穀物の値はさらに上がる恐れがあった。


「軍の買い付けは馮岳にまとめさせろ。部隊が勝手に値をつり上げることは禁じる。納めた者には期日どおり代金を払え。軍の旗を使って穀物を取り上げる奴がいたら、俺の名で罰するぞ」


 陸文昭は商人を呼んで事情を聞くと申し出た。田朔も同席すると決める。長安の市場へ穀物を運んでくるのは官吏ではなく商人たちであり、その心配を聞かずに命令だけ出しても、取引は増えないからだ。


 午後、広間に集められた穀物商は、秦王から在庫を没収されるのではないかと顔をこわばらせていた。代表の男は、冬の運賃が高いこと、護衛の費用がかかること、軍の大量注文を見込んで在庫を抱えていることを正直に話した。


「もっと高く売りたいという気持ちは分かる。俺も同じ商売をしていたからな。だが全員が売らなくなれば、長安の客が腹を空かせる。客を失ってまで値を上げても、商売は長続きせんだろう」


 田朔は買い取り価格を一方的に下げることはせず、軍の支払いを確実にし、通行料や街道の警備を調べると約束した。そのうえで、商人には市場へ出す量を少しずつ増やすよう求めた。官倉からも軍の備蓄を損なわぬ範囲で穀物を売り、法外な高値を続けなくても商売が成り立つようにする。


 帰り際、商人の代表が恐る恐る尋ねた。


「秦王殿下、我々の倉は調べられるのでしょうか」


「帳簿と売る量は確かめる。だが、商いをしているだけで罪人扱いするつもりはない。俺が欲しいのは穀物と、来年も長安へ荷を運んでくれる商人だ。倉を空にして逃げられては困るからな」


 商人たちはようやく顔を上げた。宮城の外では冬の寒さが増している。田朔が今まで相手にしてきた敵軍と違い、彼らを力ずくで従わせても、次の荷車は長安へ来なくなる。長安の穀物を巡る駆け引きは、刀を抜かずに進めなければならない戦だった。


 その日の夕方、田朔は帰り支度をしていた商人の荷車を見せてもらった。買い付けた粟を積む車と、布や油を運ぶ車が同じ門を通っている。穀物商の1人は、冬の道がぬかるむと車輪が外れ、修理にかかった費用を荷の値に上乗せせざるを得ないと話した。田朔も商隊を率いた頃に同じ苦労をしていたため、役人へ街道の傷んだ場所を調べさせることにした。


「道路の穴1つを放っておいて、毎日何十台も車が壊れたら損の方が大きい。兵を出して道を直せば、軍の荷車にも役に立つだろう。工事の間は商人を足止めしすぎないようにしてくれ」


 陸文昭は道の修理とともに、商人が関所で何度も同じ税を取られていないか確認すると申し出た。田朔は、新しい規則をいきなり関中全域へ広めるのではなく、まず長安の周囲で実際の負担を数えるよう命じた。取り決めを守る役人まで疑えば、必要な検査も止まってしまう。


 夜、後宮へ戻った田朔は玉蓮に商人との話を聞かせた。玉蓮は、市場へ荷が増えれば値は落ち着くはずだが、軍が約束した支払いを滞らせれば再び売り控えが起こると念を押した。田朔は妻の帳面を受け取り、明日からは陸文昭に記録を付けさせると答える。


「お前が子供を抱いている間も、長安の市場は休んでくれん。だが、だからといって産室へ帳簿を持ち込むなよ。数字の相手なら役人がいる」


「では、殿下がご自分で確認してくださいませ。計算を間違えられたら、産後にまとめてお尋ねしますから」


 田朔は思わず笑った。妻を休ませる約束を守るには、自分も昔よりまめに帳面を見なければならない。市場の小さな値札が、国を治める仕事の難しさを教えてくれていた。

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