第3話(後編2)――「11月9日、王女誕生」
387年11月上旬、長安。
西方の大規模な戦が一段落し、秦王田朔は宮城で政務を執る日が増えていた。将軍たちは各地の守備を引き受け、陸文昭と馮岳が軍の報告と官吏の任免を整理する。長安の門からは帰順を願う使者が入り、田朔はその書状に目を通していた。
「姚萇を破った効果が出てきたな。だが、降った城を守れなければ意味がないぞ。官吏を派遣し、兵糧と守備兵の数を確かめてくれ。冬の間に無理な徴発をするような真似は禁じる」
西方にはなお姚萇の支配する城が残る。田朔は来年の遠征を考えていたが、今は都を離れるつもりはなかった。王后崔玉容のお産が近い。許玉蓮、蘇青蘭、拓跋阿若も続く予定だった。
後宮では赤子を包む布が洗われ、寝台のそばには夜間でも使えるよう灯りが用意されていた。すでに嫡男がいるため、使える道具は揃っている。それでも出産の日は人の都合に合わせてくれない。玉容は侍女たちへ、慌てず動けるよう何度も手順を確かめさせていた。
田朔はその様子を見て、軍の出陣準備と似たところがあると感じた。だが、自分が口を挟めることは少ない。産婆が必要だと言うものを揃え、妻が休めるようにする。それが今の自分にできる仕事だと分かっていた。
田朔は昼になると玉容の部屋を訪ね、医者と産婆が整えた支度を確かめた。玉容は最初の出産を経験しているものの、日によって腹の張りが強くなり、長く歩くことは避けている。
「殿下、毎日来てくださってありがとうございます。お仕事が滞っては困りますから、どうぞご無理はなさらないでくださいませ」
「西方には将軍がいるし、長安には陸文昭も馮岳もいる。今だけは俺にも父親の仕事をさせてくれよ」
玉容は笑い、侍女たちに昼食を運ばせた。やがて1歳を過ぎた嫡男も連れられてくる。田朔が膝に乗せて弟か妹の話を聞かせても、子供は父の袖を引っ張るばかりだった。
「お前にも、もうすぐ一緒に育つ子ができるぞ。けんかせず、仲よくするんだぞ」
玉容は息子がどこまで分かっているかしらと笑った。田朔も、まだ言葉の意味までは通じないだろうと思いながら、その頭を撫でた。
◇ ◇ ◇
11月9日の明け方、玉容に陣痛が始まった。侍女が産婆と医者へ知らせ、宮城の奥に用意してあった湯と清潔な布が運び込まれる。田朔は朝の政務に向かう前に知らせを受け、すぐ妻の部屋へ駆けつけた。
玉容は痛みの合間に夫の手を握った。
「どうやら今日、生まれるようでございます。産婆からは順調だと聞いておりますので、殿下はどうかご心配なさらないでください」
「心配するなと言われてもな。だが、俺が何を言っても痛みを代われるわけじゃない。今日は仕事を陸文昭に任せる。ここで知らせを待っているぞ」
産婆から隣室へ移るよう促され、田朔は妻を励まして部屋を出た。ほどなく田順もやってきた。父子は向かい合って座ったものの、田朔は部屋の戸が開くたびに顔を上げてしまう。
「朔よ、姚萇の大軍を前にしても落ち着いていたそうだが、今は座っているのも難しいようじゃな」
「戦なら俺が兵を動かせる。今は玉容が頑張っているのに、俺には何もできんからな」
「お前が生まれる時、わしも同じじゃった。ここは産婆たちに任せるしかあるまい」
父の声に、田朔はようやく腰を落ち着けた。廊下では侍女が忙しく行き交っている。玉蓮、青蘭、阿若もお産が近いため、無理に集まらず、それぞれの部屋から知らせを待っていた。
昼になっても出産は続いた。田朔は勧められた食事をわずかに口にしただけで、何度も侍女に状況を確かめた。母子に異常はないと聞くたびに胸を撫で下ろすが、部屋の中へ入って力になることはできない。
待つ間、田朔は幼い嫡男のことを思い出していた。長安を出る前は、自分が戻るたびに抱き上げるだけだった子が、今ではよちよちと歩いて膝へ来る。まだ顔も見ていない腹の子も、来年には笑うようになり、いつか父の帰りを待つのだろう。
田順は息子の横顔を見て、そろそろ落ち着いたかと尋ねた。田朔は、落ち着いてはいないが待てるようにはなったと答えた。
午後、産婆から間もなく生まれるとの知らせが届いた。田朔と田順が廊下へ出て待つと、しばらくして赤子の産声が響いた。
「父上、生まれたぞ!」
田順も立ち上がった。やがて産婆が出てきて、王后が元気な女児を産み、母子ともに大きな問題はないと告げた。
「女の子か! よかった。本当によかったぞ。玉容を休ませてやってくれ。娘の顔も早く見たいが、まずは母親の身体が大事だ」
田順は孫娘の誕生を喜び、息子の肩を叩いた。田朔は産婆や侍女たちへ礼を述べ、後で褒賞を与えると約束した。
◇ ◇ ◇
産後の支度が済むと、田朔は玉容の部屋へ通された。妻の顔には疲れが残っていたが、寝台のそばには布に包まれた小さな娘が眠っている。
「玉容、よく頑張ったな。元気に産んでくれてありがとう」
「殿下、今度は娘でございました。兄にも早く会わせてやりたいと思います」
田朔は産婆に手伝ってもらい、娘をそっと抱いた。小さな指が布の端をつかみ、腕の中で身じろぎする。その手を見つめるうち、戦場で姚萇の旗を奪った時とはまるで違う喜びが胸に広がった。
「この子が何か欲しいと言ったら、俺は何でも買ってやりたくなるかもしれんな」
玉容は疲れた顔で笑った。
「それでは困ります。息子にも娘にも、自分で考え、人を思いやれる子になってもらいたいのです」
「そうだな。俺が昔、荷車を押して暮らしていた頃のことも、大きくなったら話してやろう。王の子だからって、何をしてもよいわけじゃないからな」
田朔は娘をそっと寝かせ、玉容が休めるよう侍女に後を任せた。王后のもとには嫡男に続いて嫡女が生まれた。年内には玉蓮、青蘭、阿若が出産を迎え、翌年には残る7人も続く見込みである。
その夕方、盛大な宴は控えられた。田朔は田順と食事を共にし、娘が生まれたことを祝った。父は孫娘を抱く日を楽しみにしていると話し、息子が無事に帰ってくれたからこそ今夜を迎えられたのだと続けた。
「これからも天下を取りたいなら止めはせん。だが、お前には帰ってくる家がある。そこを忘れるなよ」
「分かってるさ。将軍たちにも働いてもらう。父上には、もっと大勢の孫を抱いてもらわんとな」
翌朝、田朔はまず玉容と娘の様子を見てから、宮城の広間へ向かった。西方からの報告には、姚萇が敗残兵を集め直し、諸城へ使者を送っているとあった。敵はまだ滅んでいない。だが秦軍も冬の間に守りを固め、兵糧を蓄えることができる。
田朔は陸文昭に、戦場の将軍たちへ王女誕生の知らせを送るよう命じた。
「お前たちのおかげで、俺は娘の顔を見られた。冬は軍を整え、来年また一緒に西へ進もう、と伝えてくれ」
政務を終えた田朔は、再び娘のいる部屋へ戻った。戦えば次の城を取れる。だが今は、娘を抱くために仕事を早めに片づける。そういう日があっても悪くないと、21歳の秦王は思っていた。




