第3話(後編1)――「大勝の凱旋と母娘の吉報」
387年10月中旬、関中西部。
秦軍が占領した後秦の本陣では、夜が明けても戦場の整理が続いていた。姚萇の大旗は引き下ろされ、荷車に積まれた兵糧と武器が運び込まれている。秦王田朔は勝利の報告を聞きながら、まず負傷兵の収容と捕虜の扱いを確かめさせた。
「こちらの負傷者を先に手当てしろ。降った兵に水を与えるのも忘れるな。姚萇の兵だったからといって、武器を捨てた者まで殺す必要はない」
趙嶽は各隊の損害を調べ、将を失った部隊には新たな指揮官を付けた。段烈と賀蘭真も追撃から戻ってきたが、姚萇本人は西へ逃れたという。
「田様、奴の護衛は最後までしぶとかった。もう少し追えば捕まえられたかもしれんが、あれ以上進めばこっちの馬も潰れる」
「深追いしなくてよかった。今日は旗を奪い、主力を破った。それで十分な戦果だ。姚萇を追うなら、あいつの逃げ込む城も道も調べてからにしよう」
後方の兵糧を襲った裴慎も本陣へ戻った。荷車をすべて奪えたわけではないが、敵に予備兵を引き戻させ、正面の戦いを有利にした働きは大きい。
「裴慎、お前に独立した兵を預けた甲斐があったな。あそこへ回ってくれなければ、趙嶽たちはもっと苦しい戦を続けていただろう」
裴慎は、趙嶽と段烈が正面で敵を引きつけていたからこそ、補給部隊へ近づけたのだと答えた。田朔はその言葉を聞き、諸将の功績をきちんと記録させた。旧後秦の将も、長年仕えてきた将も、働きに応じて取り立てるという約束は変えない。
数日後、姚萇の敗北が関中西部の諸城へ伝わると、さらに帰順を申し出る城主が現れた。田朔は城主の官職を当面認め、徴税と軍の指揮は秦国の規則に従わせるよう命じる。新しく降った城を荒らさず、冬の兵糧を蓄えることが、来年の遠征の備えにもなる。
「俺は長安へ帰る。玉容のお産が近いからな。西方はお前たちに任せるが、姚萇が動いたら必ず知らせてくれ。冬の間に兵と倉を整え、来年はもっと先まで進もう」
段烈は先鋒を任せる約束を念押しし、田朔を笑わせた。裴慎は守備を引き受け、賀蘭真と姚虎は斥候を西へ残す。姚萇にはなお兵がいる以上、勝利の後こそ油断できなかった。
◇ ◇ ◇
10月下旬、長安の西門に田朔の旗が見えると、街道沿いの人々が歓声を上げた。荷車が通える道が増え、商いを再開した者たちにとって、関中西部の勝利は戦場だけの話ではない。
都へ戻る途中、田朔は街道を走る商人の荷車に目を留めた。戦が続いた頃には荷が途絶えていた道にも、今は穀物や布を積む車が戻り始めている。西方の城が従えば、商人は護衛を雇って遠回りする必要が減る。兵だけが道を使うわけではないのだ。
田朔は、自分が荷車を押していた時のことを思い出した。どれほど高い官位を得ても、雨で道が崩れれば荷は動かない。戦場で奪った街道を普段の暮らしに戻すことも、秦王としての仕事だった。
宮城では陸文昭と馮岳が迎えた。田朔は兵の褒賞と戦死者の遺族への扶持を命じ、負傷者を休ませるよう伝えた。湯浴みを済ませてから父の田順に会うと、老人は息子の顔をじっと確かめた。
「また敵の本陣まで乗り込んだそうじゃな。わしはお前の勝ち戦を聞くたび嬉しいが、そのあとで無事かどうか心配になるんじゃぞ」
「今回は趙嶽も段烈も裴慎も働いてくれた。俺だけが強いわけじゃないさ。だからこそ、こうして帰ってこられた」
田順は、王后が夫の帰還を待ちわびていたと話した。田朔は父とともに後宮へ向かい、出産が近づいた崔玉容の部屋を訪ねた。
玉容は大きくなった腹を抱え、立ち上がろうとしたが、田朔がすぐに止めた。
「約束どおり11月前に帰ったぞ。姚萇は逃げたが、あいつの軍は破ってきた。お前はどうだ。困ったことはなかったか」
「私は順調でございます。玉蓮たちも元気です。殿下がお戻りくださったことが、何より心強うございます」
許玉蓮、蘇青蘭、拓跋阿若も年内のお産に備え、赤子の衣と寝具を揃えていた。玉容との嫡男は、父の姿を見るとよちよち歩いて近づいてきた。田朔が抱き上げると小さな手が髪をつかみ、田順が横から笑った。
「こいつが走るようになったら父上も大変だな。次々に弟や妹が生まれてくるんだから、覚悟しておいてくれよ」
田順は元気なうちは孫の相手をすると笑い返した。
◇ ◇ ◇
玉容は、出産に備えて侍女の役割を改めて分けていた。誰が医者を呼び、誰が湯を用意し、誰が上の子供の世話をするのか。王后が子を産む時には、玉蓮たちも身重である。母親たちが互いに無理をして助け合うのでは、かえって心配が増える。
「必要な人数は増やしてくれ。城へ将を置くのと同じで、仕事をする人間が足りないと困るだろう。子供が増えても、皆が安心して暮らせるようにしたいんだ」
田朔はそのための費用を認め、玉容にも細かい手配を侍女へ任せるよう頼んだ。
帰還から数日後、玉容の部屋に杜蘭英と杜月華が呼ばれていた。実の母娘であり、ともに田朔の妻でもある2人が、そろって懐妊したと診察で分かったのである。
「母娘そろってか! こいつは嬉しい知らせだな」
月華は、母と同じ時期に子を宿したことがまだ不思議だと笑った。蘭英は娘の身体を気遣い、月華は今度こそ自分が母を助けたいと話す。玉容は、2人が無理をせず暮らせるよう侍女を増やしたいと申し出た。
「もちろんだ。蘭英も月華も、相手を心配するのは結構だが、自分が倒れたら元も子もないぞ。仕事は侍女に任せてくれ」
これで懐妊した妻は10人になった。残るのは韓淑蘭だけである。田順は祝いの席で息子をからかったが、すぐに真面目な顔になった。
「朔よ、淑蘭を急かすでないぞ。子は欲しいと思った時に必ず授かるものではない。お前が今までどおり大切にしてやることじゃ」
田朔は父の言うとおりだと思った。ほかの妻たちの懐妊を喜ぶことと、淑蘭が焦らず暮らせることは別の話である。
それから数日後、淑蘭も医者の診察を受け、子を宿していると分かった。韓淑蘭は玉容の部屋で田朔を待ち、夫が入ってくると目を潤ませた。
「殿下、私にも子ができました。皆様のように母になれる日が来ると分かって、嬉しゅうございます」
田朔は淑蘭の手を取り、隣へ座らせた。
「よかったな。お前がこの日を待っていたことは知っている。俺も楽しみだぞ。ただし、皆と比べて無理をする必要はない。今は身体を大事にしてくれ」
こうして、田朔の妻11人すべてが子を宿した。玉容、玉蓮、青蘭、阿若の4人は年内に、残る7人は翌年に出産を迎える見込みである。
田朔は父にも知らせ、祝いを述べに来た妻たちを見渡した。西方では多くの兵が命を落とした。そのことを忘れるつもりはないが、長安へ戻るとこうして新しい命の話が待っている。だからこそ次の戦でも、帰ってこられる道を残しておきたいと思った。




