第3話(中編2)――「兵糧を断ち、姚萇の旗を奪う」
387年10月中旬、関中西部の平野。
後秦軍が太鼓を鳴らすと、中央に並んだ歩兵が盾を掲げて進み始めた。向かい合う秦軍の中央を預かる趙嶽は、兵の列を厚くし、後方の弓兵へ援護を命じた。両軍の槍がぶつかり、盾を持つ腕に力がかかる。
秦王田朔は、敵の中央が厚いことを承知していた。ここで無理に突破を狙えば、後秦の左右に控える騎兵に横を突かれる。まずは趙嶽に敵の歩兵を受け止めさせ、段烈には右翼から圧力をかけ続けるよう命じた。
「押されても列を乱すな。前の兵が疲れたら後ろと交代させろ。段烈は敵の左翼を休ませるなよ。ただし、深入りして自分の陣まで崩すな」
賀蘭真と姚虎の騎兵は両翼で動き、後秦の騎兵が中央へ回り込もうとすれば、その進路へ姿を見せて牽制した。互いに矢を射かけながらも、大きく兵を離して突撃することは避けている。
後秦軍の中央では、君主姚萇が次々と報告を受けていた。正面の秦軍は押され始めており、勝負の機会は近いと見えた。左翼から援軍の要請が来ると、姚萇は予備兵の一部をそちらへ送った。
「左翼は守らせよ。だが、中央の攻撃は止めるな。田朔の主力を押し崩せば、あの男も逃げるしかなくなる」
趙嶽は田朔の命令に従い、隊列を保ったまま少しずつ後退した。後秦兵が追ってくるたびに槍を構え直し、疲れた兵を交代させる。無理に踏みとどまって死傷者を増やすより、戦う力を残すことを選んでいた。
田朔は、西方の地図を持参した裴慎を呼んだ。元後秦の将である裴慎は、敵の兵糧車が本陣の後方に集められていることを斥候から聞いていた。
「裴慎、お前には北の丘を回って、あの荷車を襲ってもらう。食い物が運べなくなれば、姚萇は正面へ出した兵のことばかり考えていられんだろう」
「護衛もおります。全部を奪うのは難しいでしょうが、輸送を止めることはできます。騎兵を先に進ませ、歩兵で荷車の通る道を押さえましょう」
「俺が欲しいのは、姚萇に後ろを振り向かせることだ。欲を出して敵の本隊へ突っ込むな。援軍が来たら持ちこたえられる場所を選べ」
裴慎は選抜した部隊を率いて、北側の丘陵へ向かった。田朔は姿が見えなくなるまで見送り、趙嶽へ現状を保つよう伝令を送った。正面はまだ苦しい。しかし、裴慎が働くまで兵を失いすぎなければ、攻め返す機会が来る。
◇ ◇ ◇
丘の陰を進んだ裴慎の斥候が、後秦軍の荷車と護衛兵の位置を確かめた。牛馬の近くでは人足が食糧を積み替え、本陣へ送る車列を整えている。戦闘は遠くに見えても、ここが止まれば前線の兵は食べられなくなる。
裴慎は部下たちに、戦利品を取りに散らばらぬよう念を押した。
「狙うのは荷車そのものより、敵が兵糧を運べなくなることだ。護衛を崩して道を押さえたら、部隊をまとめ直せ。敵の援軍に背後を取られるなよ」
騎兵が丘を越えて現れると、後秦の護衛兵が槍を並べた。だが攻撃は思いのほか早く、弓を射かける騎兵に気を取られた隙を歩兵が押し込んだ。驚いた牛馬が暴れ、荷車を引く綱が切られる。人足が荷を置いて逃げ出し、車列は道の途中で止まった。
一部の荷車から火が上がると、裴慎は使える穀物を無駄に燃やさぬよう命じた。しかし消火にかかりきりになれば護衛兵に反撃される。彼は道路の出入り口を守る方を優先し、後秦軍の兵糧輸送を断った。
この知らせはやがて姚萇の本陣へ届いた。姚萇は中央でなお優勢に戦っていたが、補給部隊を失えば明日の行軍にも支障が出る。後方へ予備兵を送り、左翼からも一部を引き抜いて守りを立て直すよう命じた。
「田朔め。正面で下がっていたのは、わしが攻める間に別の兵を回すためか」
姚萇は正面への攻勢を止めなかった。ここで秦軍の中央を破れば、後方に回った裴慎の部隊も退くしかないと考えていたからである。
◇ ◇ ◇
後秦の本陣から西へ走る兵が見えたと、姚虎の斥候が報告した。荷車の方角から煙も立っている。田朔は裴慎が役目を果たしたと判断した。
「今だ。趙嶽は新しい兵を前へ出せ。段烈には左翼を押し込ませろ。姚萇が兵を後ろへ回した今なら、前も横も守りきれんはずだ」
秦軍の太鼓が鳴り、趙嶽の歩兵が反撃に転じた。攻め続けて疲れていた後秦兵は、不意に勢いを増した秦軍を受け止めきれない。段烈も兵が薄くなった敵左翼を押し込み、賀蘭真はその側面へ騎兵を近づけた。姚虎が反対側の騎兵を牽制する間に、後秦軍の中央へ隙間が生まれた。
田朔は直属の騎兵を集めた。趙嶽が槍兵を左右へ開き、その間に通れる道を作っている。
「残っている槍の列へ無闇に突っ込むな。歩兵が開いた道を抜けて、姚萇の本陣を目指すぞ!」
突入した騎兵の後ろには、道を広げるため趙嶽の歩兵が続いていた。騎兵だけが前へ飛び出せば、通り過ぎた敵兵が背後に集まり、退路を失う。田朔は味方の旗が見える位置を保ち、槍兵の固まる場所を避けながら進んだ。
「前へ行くだけが突撃じゃないぞ。後ろの味方が通れる道を残せ。姚萇の旗を取っても、俺たちが帰れなかったら笑い話にもならんからな!」
護衛騎兵は互いの位置を確かめて進み、敵の小さな部隊を押し返しながら本陣の入口へ迫った。
田朔の騎兵が中央を突破すると、後秦兵は新たな隊列を組もうとした。しかし正面から趙嶽が迫り、左右では段烈と騎兵が戦っている。集めるはずの予備兵は補給部隊へ向かっていた。
姚萇は残った護衛兵を本陣の前へ並べ、槍で騎兵を防がせた。田朔は正面の槍を避けて左右へ兵を振り、後続の趙嶽が護衛兵とぶつかるのを待つ。歩兵が前を押さえると、田朔の騎兵は守りの薄くなった側面から本陣へ入った。
護衛の将軍たちは姚萇へ退却を勧めた。中央は突破され、後方の兵糧も襲われている。姚萇はなお戦おうとしたが、この場で捕らえられれば後秦に再起の道はなくなると悟った。
「残る騎兵をまとめよ。西へ退く。田朔との勝負は、これで終わりではないぞ」
姚萇は護衛騎兵に守られて戦場を離れた。
田朔が本陣へ踏み込んだ時、君主の姿はすでになかった。だが、中央にはまだ姚萇の大旗が掲げられている。田朔は抵抗する護衛兵を押し返し、旗を引き下ろさせた。
「見ろ、姚萇の旗を取ったぞ! 降伏する兵は助けろ。逃げた将を追って、武器を捨てた者まで殺すなよ!」
後秦兵は次々と武器を捨て、戦場は秦軍の手に落ちた。段烈と賀蘭真は姚萇を追ったが、護衛騎兵が退路を守り、本人を捕らえることはできなかった。田朔は追撃の範囲を限り、深追いさせずに兵を戻した。
補給部隊を押さえた裴慎からも、荷車と兵糧の一部を確保したとの報告が届いた。田朔は姚萇の旗を手に、遠く西へ続く道を見た。今度の大勝で後秦の主力は大きく削れたが、姚萇その人はまだ生きている。勝った戦は終わっても、天下を争う戦は終わっていなかった。




