第3話(前編2)――「妻子への約束と敵の前衛」
387年10月上旬、関中西部。
姚萇の前に置かれた地図からは、後秦の旗を示す印がいくつも消えていた。長安を失って半年近く、取り戻せた城は1つもない。9月には涇水の渡河地点を破られ、その先の3城まで秦王田朔の手に落ちた。しかも、そのうち2城は攻められる前に降伏している。
「田朔の軍勢は、勝つたびに大きくなっておるな」
姚萇は諸将に向かって言った。単に城が減っているだけではない。降伏した将兵が秦軍に迎え入れられ、かつて後秦の旗を守っていた将が、今は田朔から官職を与えられているという。取り立てられた旧臣の噂が広まれば、援軍を待つ城主たちまで心を変えるだろう。
「城へ籠もって田朔を待てばよいと申す者もおる。だが、城を守る兵が自ら門を開けるなら、どれほど高い壁も役に立たん。わしがここで勝たねば、冬の間にも諸城は離れていくぞ」
将軍の1人が、兵を集めるより先に城壁を修理し、倉に穀物を蓄えればよいと進言した。姚萇はその意見にも耳を傾けた。守りを固めることは必要だ。しかし、その間にも秦王の使者が城へ入り、守将の心を動かしている。壁が残っても、その内側にいる者が味方とは限らない。
「今までわしに従ってきた者まで、田朔なら昔の罪を問わんと言い出しておる。今ここで軍を動かさねば、次は兵を集めよという命令そのものが届かなくなる」
各城から兵を呼ぶには、守備隊を減らす危険もあった。姚萇は城ごとに残す最低限の兵数を決め、出せる兵だけを集めるよう命じた。後方を空にして東へ出れば、勝つ前に城を失いかねない。大軍を率いるには、刀槍の数を揃えるだけでは足りなかった。
姚萇は自ら兵を率いて東へ進むと決めた。各地の守将に歩兵と騎兵の集結を命じ、兵糧と馬の飼葉も集めさせる。渡河地点を奪い返し、そのまま秦軍の主力を野戦で破るつもりだった。田朔さえ討てば、失った城主たちの態度も変えられると見ている。
ただし、姚萇は相手を軽んじてはいなかった。先の敗戦では、後秦の騎兵が目先の敵を追い、歩兵から離れたところを包囲された。涇水でも正面を守っていた間に上流から回り込まれている。敵の誘いに乗れば、兵が多くても負けることはすでに証明されていた。
「今度は騎兵だけを先に出すな。歩兵と離れず、敵が退いても無闇に追うな。田朔は若いが、こちらの弱みを見つけるのがうまい。わしの前で同じ失敗をする将には、二度と兵を預けんぞ」
将軍たちは命令を受け、守備隊と兵糧車の手配に散った。数日後、後秦軍の列が東へ動き始める。先頭の斥候、その後ろの歩兵と騎兵、さらに荷車を守る護衛兵。行軍中も各部隊が離れすぎないよう、指揮官たちは繰り返し間隔を確かめた。
軍勢が動く前夜、姚萇は集まった兵糧の目録に目を通した。遠くの城から運ばれる穀物はまだ道半ばにあり、馬の飼葉も全部は届いていない。将は出発を遅らせる案を出したが、姚萇は先に動ける部隊から出し、遅れる荷車を後方で合流させるよう命じた。ただし、護衛を減らして速さを稼ぐことだけは禁じた。
田朔が兵糧を運ぶ街道を気にかける男だという報告は、姚萇の耳にも入っていた。後方の荷車を奪われれば、たとえ前線で一度勝っても、長く戦うことができなくなる。姚萇は補給隊の将を呼び、戦場に近づいた時は道を塞ぐほど車を詰め込まず、警戒兵を周囲へ置くよう言い渡した。
長安を失った後秦にも、まだ兵と城が残っていた。姚萇はその残された力を、自らの手で戦場へ運ぼうとしていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、長安の宮城にも西方から急使が届いた。9月の遠征で得た城を守る裴慎の使いで、姚萇本人が大軍を率いて東進しているという。
「とうとう出てきたか」
報告を読んだ田朔は、陸文昭に将軍たちを呼ばせた。9月末には妻11人のうち8人が懐妊していると分かり、後宮では新しい命を迎える支度が進んでいた。だが、西方の城を奪われるわけにはいかない。
広間に地図が広げられると、趙嶽は裴慎の守る城を指した。
「殿下、あの城の兵だけでは姚萇の主力を受け止められません。裴慎には城外での決戦を避けさせ、我が軍の到着を待たせるべきです」
段烈は、先鋒を率いて迎え撃ちたいと願い出た。だが田朔は、すぐに戦場へ駆けつければよいとは考えていなかった。地図には味方の城だけでなく、兵糧を積んだ荷車が通れる街道も記されている。
「大軍が動けば、それだけ飯が要る。姚萇だって兵を集めた以上、毎日食わせなければならん。こちらは9月に取った城を使える。街道と倉を押さえておけば、長安から何もかも運ばずに済むはずだ」
かつて田朔は荷車を動かして商いをしていた。荷物が行き先へ届かなければ、いくらよい品でも銭にならない。兵も同じだった。飢えた兵を何万並べても、明日の戦には勝てない。
馮岳は、帰順した城の官倉と荷車を調べていると報告した。田朔は供出する兵糧の量を決めたうえで、村の穀物を勝手に持ち去らないよう念を押した。
「俺の旗を立てた途端に村が飢えたら、次の城主は誰も降らんぞ。必要な分は約束どおり集めろ。兵だけでなく、畑にいる者も食っていかなきゃならん」
陸文昭は、出陣中の長安の政務についても確認した。王宮には使者が続々と到着し、帰順を申し出た城主への返答を待つ者もいる。田朔は通常の任免と報告を陸文昭に任せ、軍の大きな動きだけを急使で知らせるようにした。
「俺が城を離れるたび、皆が命令待ちで止まっていたら困る。前に決めた方針で処理できることは、お前たちで進めてくれ。ただし、民からの取り立てを増やす話と、大軍を新しく出す話だけは俺にも知らせろ」
これまで田朔自身が出向かなければ決まらなかった仕事を、ほかの者に預ける。将軍を増やしたのは、戦場のためだけではなかった。
軍議の最後に、田朔は将軍たちへ任務を割り振った。段烈は先鋒、趙嶽は歩兵の主力、賀蘭真と姚虎は左右からの偵察。裴慎には城を守って合流を待たせ、馮岳は長安と前線を結ぶ補給路を預かる。
「姚萇が自分の軍を動かしてきたなら、俺も出よう。だが、敵が決めた場所で慌てて戦う気はない。まず前衛を見て、あいつの本隊がどこにいるか確かめる。それから勝負だ」
段烈は待ちかねたように笑った。
「今度こそ本人と戦えるな。俺に姚萇の旗を取らせてくれ」
「旗だけでなく本人まで連れてこられたら、もっと褒めてやるさ。もっとも、そう簡単に捕まる男でもないだろうがな」
将軍たちが退出した後も、田朔はしばらく地図を見ていた。西へ延びる道の先では、姚萇の大軍がすでに動いている。今度の相手は、負けた将に責めを負わせて済ませる男ではなかった。
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『長安の悪党、乱世を喰らう』
第五章「梟雄、天下を奪う」
第3話(前編2)――「妻子への約束と敵の前衛」
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10月上旬の夕刻、秦王田朔は王后崔玉容の部屋へ向かった。出陣の準備が始まったことは、すでに後宮にも伝わっていた。玉容は赤子の衣を畳む侍女たちに仕事を任せ、夫を迎えた。
「姚萇本人が兵を率いてくるそうですね。今度は、これまでより大きな戦になるのでしょう」
「そうだ。放っておけば、せっかく従った城がまた襲われる。俺が主力を連れて西へ行く。あいつの軍をここで叩いておけば、来年も戦いやすくなるからな」
玉容はすでに腹が大きくなり、長く立っているのもつらい時期に入っていた。許玉蓮、蘇青蘭、拓跋阿若も年内に出産を迎える予定である。
「殿下が戦へ赴かれるのを止めるつもりはございません。ただ、11月には私のお産がございます。どうか、それまでにお戻りくださいませ」
田朔は妻の手を包んだ。
「もちろんだ。子供が生まれたと聞いて、何日も後から顔を見るのは嫌だからな。姚萇との勝負をつけ、11月には戻る。戦の後始末は段烈たちにも任せられるさ」
玉容はほっとした顔で、すでに侍女や産婆の手配を進めていると伝えた。田朔は妻の腹にそっと手を当てた。昨年6月に生まれた嫡男は、もう歩き始めているという。父親が戦場を駆け回っている間にも、子供は大きくなっていた。
その夜、父の田順も田朔を訪ねた。
「朔よ、姚萇本人を相手にするのか。わしには相手の兵がどれほど多いか分からんが、今度ばかりは無茶をするでないぞ。女房たちが待っておる」
「分かってる。今の俺には将軍が大勢いる。自分だけで全部の兵を動かす必要はない。父上は、俺が戻るまで玉容たちを頼むよ」
後宮にはすでに小玉と麗華、蘇瑶、春華の懐妊が伝わり、玉容たち4人と合わせて身重の妻は8人になっていた。田朔は出陣前にほかの妻たちの様子も確かめた。蘇瑶は、戻ったら戦の話を聞かせてほしいと頼み、春華は夫の好きな料理を用意すると約束した。
まだ子を宿していない蘭英、月華、淑蘭も、ほかの妻と同じように出陣を見送った。田朔は誰の腹に子がいるかで扱いを変えるつもりはない。長安へ戻ったら、また皆で食事をする。それが彼の口にしたもう1つの約束だった。
田順はその言葉を聞いても、息子が前線に立ちたがる性格をよく知っていた。それでも、以前より頼れる家臣が増えたことは確かだった。
「孫の顔を見たければ、生きて帰ることじゃ。それだけは忘れるなよ」
田朔は笑って約束した。
◇ ◇ ◇
数日後、秦軍は長安を出発した。段烈の先鋒が西へ進み、その後ろを田朔と趙嶽の主力が続いた。賀蘭真と姚虎の斥候は街道から外れた道を走り、敵の騎兵と荷車の位置を調べている。
兵が西へ進むにつれ、街道には長い荷車の列ができた。車の車輪がぬかるみに取られると、後ろの車も止まってしまう。田朔は斥候だけでなく、荷車を引く者からも道の状態を聞いた。戦場へ先に着く兵がいても、食糧が届かねば陣を維持できない。
「段烈が張り切って先へ行くのはいいが、飯の車を置いていったら困るぞ。先鋒の速さばかり自慢されても、あとから来る兵は腹を空かせるからな」
趙嶽は荷車の遅れをまとめた報告を見て、川を越えたばかりの街道には修理が必要な場所もあると伝えた。田朔は兵を割いて路面を整え、物資が滞らないようにした。
行軍の途中、田朔は官倉に立ち寄り、兵糧の残りを確かめさせた。道端には収穫を終えた畑が広がり、村の者は軍旗を見ると家の中へ退いた。田朔は勝手な徴発を許さず、必要な飼葉や水は決められた手順で調達させた。勝つために村を荒らしては、支配する土地そのものが痩せてしまう。
やがて一行は、裴慎が守る西方の城に到着した。城主たちは先月秦国へ降ったばかりで、秦王の軍を見て安堵した様子だった。
裴慎は門外で田朔を迎え、敵情を報告した。姚萇の軍はすでに東へ向かっている。だが今回の後秦軍は、斥候の騎兵が秦軍を見つけても不用意には追わず、確認を終えると歩兵のいる本隊へ戻っていた。
「以前とは戦い方が違うな」
田朔が言うと、裴慎が答えた。
「はい。騎兵と歩兵を離さず、各隊の間隔もよく保っております。姚萇は、これまでの敗戦を調べているのでしょう」
段烈が腕を組んだ。
「追ってこないなら、こちらから攻めるしかあるまい」
「そうだな。だが、敵の前衛を破ったからといって追いすぎるなよ。姚萇が後ろで待っているなら、先にその位置を知りたい」
裴慎が持参した図には、敵の前衛が目撃された場所がいくつも記されていた。どれも街道の要所で、農地から外れて軍勢が広がれる地点に近い。田朔は、敵が少しずつ下がりながら秦軍を本隊の陣地へ導こうとしている可能性を疑った。
「追う側は目の前の旗ばかり見てしまうが、逃げる側には逃げたい道がある。敵がどこへ下がりたがるのかも確かめてくれ。俺たちが好きな場所へ連れていかれるのは御免だ」
賀蘭真と姚虎はその命令を受け、街道の先だけでなく、左右の丘から敵の退路も見張ることになった。
田朔は裴慎の部隊を合流させ、趙嶽には先鋒の後ろに援護の兵を付けさせた。裴慎は前回の遠征で独立した兵を預けられたばかりだ。田朔は、敵が別の道から回ってきた場合に備え、主力の後方を警戒させることにした。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、斥候が敵の前衛を発見した。低い丘の向こうに後秦の旗が並び、街道を塞ぐように歩兵が陣を敷いている。騎兵はその左右で待ち、槍兵から離れすぎぬ位置を守っていた。
田朔は段烈、趙嶽とともに高みへ上り、敵の陣形を確かめた。
「なるほど、きちんと守っているじゃないか。今までなら、俺たちの騎兵を見るだけで向こうも出てきたものだがな」
敵の歩兵は盾と槍を揃え、弓兵がその後ろに並んでいる。中央を崩さなければ左右の騎兵にも回り込めない。田朔は、敵が初めから決戦を急がないことに気づいた。
「前衛をここへ置いたのは、俺たちを止めている間に本隊が準備するためだろう。だったら、こっちはあいつらを破ったうえで、戦う場所まで自分で選ぶぞ」
段烈は馬を下り、槍兵の並び方を眺めた。
「正面は俺に任せろ。押しても動かぬなら、どこまで踏みとどまれるか試してやる」
「いいぞ。ただし、後退する敵に釣られて向こうの丘まで行くな。今回は俺が合図を出すまで追撃を止めろ」
段烈は承知し、先鋒の列へ戻った。両軍の間の距離が縮まり、後秦の陣地から太鼓が聞こえ始める。田朔は予備兵を手元に残し、趙嶽を段烈の後方へ置いた。
敵が隙を見せれば攻める。しかし向こうに隙がないなら、まず戦わせてみる。姚萇と真正面からぶつかる前に、敵軍がどれほど変わったのか確かめるつもりだった。
段烈が槍を掲げると、秦軍の前列もそれに応じた。秋の風に両軍の旗が膨らみ、先鋒同士の戦いが始まった。




