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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第五章――「梟雄、天下を奪う」

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第3話(前編1)――「姚萇、親征を決す」

 387年10月上旬、関中西部。


 姚萇(ヤオ・チャン)の前に置かれた地図からは、後秦の旗を示す印がいくつも消えていた。長安を失って半年近く、取り戻せた城は1つもない。9月には涇水(ジンシュイ)の渡河地点を破られ、その先の3城まで秦王田朔(ティエン・シュオ)の手に落ちた。しかも、そのうち2城は攻められる前に降伏している。


「田朔の軍勢は、勝つたびに大きくなっておるな」


 姚萇は諸将に向かって言った。単に城が減っているだけではない。降伏した将兵が秦軍に迎え入れられ、かつて後秦の旗を守っていた将が、今は田朔から官職を与えられているという。取り立てられた旧臣の噂が広まれば、援軍を待つ城主たちまで心を変えるだろう。


「城へ籠もって田朔を待てばよいと申す者もおる。だが、城を守る兵が自ら門を開けるなら、どれほど高い壁も役に立たん。わしがここで勝たねば、冬の間にも諸城は離れていくぞ」


 将軍の1人が、兵を集めるより先に城壁を修理し、倉に穀物を蓄えればよいと進言した。姚萇はその意見にも耳を傾けた。守りを固めることは必要だ。しかし、その間にも秦王の使者が城へ入り、守将の心を動かしている。壁が残っても、その内側にいる者が味方とは限らない。


「今までわしに従ってきた者まで、田朔なら昔の罪を問わんと言い出しておる。今ここで軍を動かさねば、次は兵を集めよという命令そのものが届かなくなる」


 各城から兵を呼ぶには、守備隊を減らす危険もあった。姚萇は城ごとに残す最低限の兵数を決め、出せる兵だけを集めるよう命じた。後方を空にして東へ出れば、勝つ前に城を失いかねない。大軍を率いるには、刀槍の数を揃えるだけでは足りなかった。


 姚萇は自ら兵を率いて東へ進むと決めた。各地の守将に歩兵と騎兵の集結を命じ、兵糧と馬の飼葉も集めさせる。渡河地点を奪い返し、そのまま秦軍の主力を野戦で破るつもりだった。田朔さえ討てば、失った城主たちの態度も変えられると見ている。


 ただし、姚萇は相手を軽んじてはいなかった。先の敗戦では、後秦の騎兵が目先の敵を追い、歩兵から離れたところを包囲された。涇水でも正面を守っていた間に上流から回り込まれている。敵の誘いに乗れば、兵が多くても負けることはすでに証明されていた。


「今度は騎兵だけを先に出すな。歩兵と離れず、敵が退いても無闇に追うな。田朔は若いが、こちらの弱みを見つけるのがうまい。わしの前で同じ失敗をする将には、二度と兵を預けんぞ」


 将軍たちは命令を受け、守備隊と兵糧車の手配に散った。数日後、後秦軍の列が東へ動き始める。先頭の斥候、その後ろの歩兵と騎兵、さらに荷車を守る護衛兵。行軍中も各部隊が離れすぎないよう、指揮官たちは繰り返し間隔を確かめた。


 軍勢が動く前夜、姚萇は集まった兵糧の目録に目を通した。遠くの城から運ばれる穀物はまだ道半ばにあり、馬の飼葉も全部は届いていない。将は出発を遅らせる案を出したが、姚萇は先に動ける部隊から出し、遅れる荷車を後方で合流させるよう命じた。ただし、護衛を減らして速さを稼ぐことだけは禁じた。


 田朔が兵糧を運ぶ街道を気にかける男だという報告は、姚萇の耳にも入っていた。後方の荷車を奪われれば、たとえ前線で一度勝っても、長く戦うことができなくなる。姚萇は補給隊の将を呼び、戦場に近づいた時は道を塞ぐほど車を詰め込まず、警戒兵を周囲へ置くよう言い渡した。


 長安を失った後秦にも、まだ兵と城が残っていた。姚萇はその残された力を、自らの手で戦場へ運ぼうとしていた。


 ◇ ◇ ◇


 同じ頃、長安の宮城にも西方から急使が届いた。9月の遠征で得た城を守る裴慎(ペイ・シェン)の使いで、姚萇本人が大軍を率いて東進しているという。


「とうとう出てきたか」


 報告を読んだ田朔は、陸文昭(ルー・ウェンジャオ)に将軍たちを呼ばせた。9月末には妻11人のうち8人が懐妊していると分かり、後宮では新しい命を迎える支度が進んでいた。だが、西方の城を奪われるわけにはいかない。


 広間に地図が広げられると、趙嶽(ジャオ・ユエ)は裴慎の守る城を指した。


「殿下、あの城の兵だけでは姚萇の主力を受け止められません。裴慎には城外での決戦を避けさせ、我が軍の到着を待たせるべきです」


 段烈(ドゥアン・リエ)は、先鋒を率いて迎え撃ちたいと願い出た。だが田朔は、すぐに戦場へ駆けつければよいとは考えていなかった。地図には味方の城だけでなく、兵糧を積んだ荷車が通れる街道も記されている。


「大軍が動けば、それだけ飯が要る。姚萇だって兵を集めた以上、毎日食わせなければならん。こちらは9月に取った城を使える。街道と倉を押さえておけば、長安から何もかも運ばずに済むはずだ」


 かつて田朔は荷車を動かして商いをしていた。荷物が行き先へ届かなければ、いくらよい品でも銭にならない。兵も同じだった。飢えた兵を何万並べても、明日の戦には勝てない。


 馮岳(フォン・ユエ)は、帰順した城の官倉と荷車を調べていると報告した。田朔は供出する兵糧の量を決めたうえで、村の穀物を勝手に持ち去らないよう念を押した。


「俺の旗を立てた途端に村が飢えたら、次の城主は誰も降らんぞ。必要な分は約束どおり集めろ。兵だけでなく、畑にいる者も食っていかなきゃならん」


 陸文昭は、出陣中の長安の政務についても確認した。王宮には使者が続々と到着し、帰順を申し出た城主への返答を待つ者もいる。田朔は通常の任免と報告を陸文昭に任せ、軍の大きな動きだけを急使で知らせるようにした。


「俺が城を離れるたび、皆が命令待ちで止まっていたら困る。前に決めた方針で処理できることは、お前たちで進めてくれ。ただし、民からの取り立てを増やす話と、大軍を新しく出す話だけは俺にも知らせろ」


 これまで田朔自身が出向かなければ決まらなかった仕事を、ほかの者に預ける。将軍を増やしたのは、戦場のためだけではなかった。


 軍議の最後に、田朔は将軍たちへ任務を割り振った。段烈は先鋒、趙嶽は歩兵の主力、賀蘭真(ホーラン・ジェン)と姚虎(ヤオ・フー)は左右からの偵察。裴慎には城を守って合流を待たせ、馮岳は長安と前線を結ぶ補給路を預かる。


「姚萇が自分の軍を動かしてきたなら、俺も出よう。だが、敵が決めた場所で慌てて戦う気はない。まず前衛を見て、あいつの本隊がどこにいるか確かめる。それから勝負だ」


 段烈は待ちかねたように笑った。


「今度こそ本人と戦えるな。俺に姚萇の旗を取らせてくれ」


「旗だけでなく本人まで連れてこられたら、もっと褒めてやるさ。もっとも、そう簡単に捕まる男でもないだろうがな」


 将軍たちが退出した後も、田朔はしばらく地図を見ていた。西へ延びる道の先では、姚萇の大軍がすでに動いている。今度の相手は、負けた将に責めを負わせて済ませる男ではなかった。

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