第2話(後編1)――「涇水を越える策」
387年9月上旬、長安。
涼州や河東から仕官を求める者が訪れる一方で、西方の姚萇も、失った兵を集め直していた。秦王田朔は関中の地図を広げさせ、涇水の流域に残る後秦の城を指した。
「今度は俺たちの方から攻める。長安の周りで敵が来るのを待っていたら、姚萇が立て直す時間を与えるだけだ。川を越え、城を取って、あいつの勢力を西から削ってやろう」
偵察の報告では、後秦軍が涇水の渡河地点を守り、北岸に弓兵と歩兵を置いている。周辺3城にも援軍を集める命令が出ていたが、城主たちの間には秦王へ降った方がよいという声もあるらしい。
段烈は喜んで先鋒を願い出た。
「川向こうの連中を追い払えば済む話だ。俺に兵を預けてくれ。先に渡って道を開く」
「川へ入った兵は足を取られる。そこへ弓を射かけられれば、いくら段烈でも簡単には進めん」
趙嶽の言葉に、後方の守備を任される馮岳も同意した。川の幅や水深、舟を着けられる岸を詳しく調べなければ、兵を一度に失う恐れがある。
田朔は、先の戦で功績を立てた裴慎へ顔を向けた。
「西方の道を知っているお前なら、別の渡り方も分かるだろう。敵が守る正面ばかり相手にする必要はない」
裴慎は地図を確かめ、敵の陣地より上流にある浅瀬を示した。大軍が一斉に進めるほど広くはないが、部隊を分けて渡れば北岸へ出られるという。ただし、川沿いの道が狭く、途中で敵に見つかれば退くことも難しい。
「殿下、正面から大軍が渡ると見せていただければ、敵の目はこちらへ集まります。その間に私が上流から兵を渡し、後方へ進みます。敵がこちらへ備えて兵を動かせば、正面の守りが薄くなるはずでございます」
「いい策だ。ただし、浅瀬を渡った後にも歩かねばならん。遅れることもあるだろうから、俺たちは急いで正面から渡らず、裴慎の報告を待つ」
田朔は段烈を正面に置いて敵の注意を引かせ、趙嶽には主力の渡河を担当させた。裴慎は独立した部隊を率いて上流へ向かう。賀蘭真と姚虎は双方の動きを探り、使者が通れる道を確かめる。陸文昭は兵糧を、馮岳は後方の街道警備を、鄭達は船と資材の準備を任された。
「川を取れば、それで終わりではないぞ。向こうの3城まで進むつもりだ。降る者は迎え入れる。抵抗する城は攻めるが、住民への略奪は認めん。取った土地を荒らせば、こちらへ降る城が減るからな」
将軍たちは命令を受け、出陣の支度を始めた。
◇ ◇ ◇
9月上旬、秦軍は長安を出発した。段烈が先行して渡河地点の南岸へ進み、田朔と趙嶽の軍がその後に続く。川向こうでは後秦の旗がいくつも翻り、弓兵が岸を見張っていた。
田朔は南岸の高い場所から川を眺めた。流れの速い場所には水面が白く波立ち、浅い場所でも馬の腹に届きそうな水深がある。船を漕ぎ出せば、兵は盾を掲げて応戦することも難しくなる。川の中で敵と戦うのが、どれほど不利かは明らかだった。
「段烈、船を見せて渡る支度をさせろ。ただし、今は漕ぎ出すな。敵が俺たちばかり気にしている間に、裴慎には上流へ回ってもらう」
秦軍が船を岸へ並べると、後秦の指揮官は正面へ弓兵を集めた。向こう岸では盾を持った歩兵も並び、いざ渡ってきた秦軍を水際で押し戻そうとしている。川を挟んで矢が飛んだが、田朔は兵を射程の外へ置き、本格的な攻撃を避けた。
その夜、裴慎は選んだ歩兵と騎兵を率いて上流へ向かった。道の途中には狭い曲がり角があり、暗闇で馬が足を滑らせれば後ろの兵も進めない。裴慎は隊列を長く伸ばしすぎぬよう小刻みに止め、道を確かめながら進んだ。
夜明け前、浅瀬へ着いた兵たちは水の流れを調べた。冷たい川へ先に入った騎兵が対岸の様子を確かめ、歩兵がその後に続く。水に足を取られた者を隣の兵が支え、盾や矛を濡らしながら北岸へ登った。部隊の大半が渡り終えたのは昼前だった。
裴慎は兵を少し休ませると、正面の渡河地点を守る後秦軍の後方へ進んだ。
◇ ◇ ◇
南岸で田朔が待っていると、賀蘭真の斥候が駆け込んだ。裴慎の部隊は北岸へ渡り終え、敵陣の背後へ向かっているという。
やがて川向こうの後秦軍に異変が起きた。後方から土埃が上がり、見張りの兵が何かを叫びながら走っている。北岸に並んでいた弓兵の一部が振り返り、歩兵も指揮官の命令を受けて後ろへ移動し始めた。
「裴慎が動いたな。だが、まだ岸の兵は残っている。趙嶽、先に弓兵を進め、船を守れ。相手がさらに兵を引いたら、一気に渡ろう」
間もなく、後秦の陣の奥から戦いの声が届いた。裴慎が敵の後方へ攻めかかり、守備隊が正面と背後のどちらを守るべきか迷い始めたのである。
田朔はようやく馬を進めた。
「今だ、船を出せ! 趙嶽は中央から渡れ。段烈は下流側の敵を押さえろ。俺も続く。川の中では隊列を乱すなよ!」
趙嶽は舟を出す順番にも気を配った。先に渡る兵が対岸で足場を確保するまでは、後続を岸へ詰め込めない。流れに押されて舟の間隔が開けば、一部の兵だけが敵に囲まれる恐れもある。指揮官たちは旗を掲げ、川を越えた兵がどの場所へ集まるかを確かめながら進んだ。
段烈は下流側へ向かい、敵が岸に残した兵の動きを押さえた。後秦兵が彼の部隊へ対応しようとした時には、すでに趙嶽の舟が川の中央を進んでいた。
太鼓が鳴り、船が次々と岸を離れた。後秦の弓兵は矢を放ったが、背後の裴慎も気になり、狙いが定まらない。趙嶽の歩兵は盾を掲げながら北岸へ上がり、後秦の先頭を押し返し始めた。
田朔は護衛とともに川を渡り、岸の高い場所へ進んだ。上流から来た裴慎の旗が敵の背後に見える。段烈の兵は下流側を押し、趙嶽は中央を広げていた。
「もう向こうの陣をまとめ直させるな。前にいる兵は趙嶽が押さえ、退こうとする奴は段烈が止めろ。裴慎には後ろを頼む!」
挟まれた後秦軍は、やがて部隊ごとに退き始めた。指揮官が兵を集め直そうとしても、前へ出れば趙嶽が迫り、後ろを守ろうとすれば裴慎の兵とぶつかる。将旗が倒れると命令が通じなくなり、逃げる兵が増えた。
田朔は追撃を認めたが、武器を捨てる者を殺さないよう厳命した。後秦の指揮官もついに降伏を申し出て、将兵は武装を解いた。
涇水の渡河地点には秦王の旗が掲げられた。田朔は濡れた靴を脱ぐ間も惜しみ、対岸に集めた将軍たちへ告げた。
「川は越えた。今度はこの先の城だ。今日の勝ちに浮かれて、守りの準備を怠るなよ」




