第2話(中編1)――「降った城を守り抜け」
387年7月下旬、長安。
西方の2城が秦王田朔へ帰順してから、まだ幾日も経たぬうちに、急使が宮城へ駆け込んだ。姚萇が討伐軍を送り、2城の城主へ秦国の旗を降ろすよう迫っているという。
新たに従った城を守れなければ、ほかの城主たちも秦王の言葉を信じなくなる。田朔は求賢のために集めていた武将たちを呼び寄せ、卓上に西方の地図を広げさせた。
「こちらへ降ったから罰するというわけか。姚萇も必死だな。だが、2城を見捨てれば、今度は俺の方が笑い者になる。援軍は出すぞ。それも、後秦軍に二度と同じことをさせぬようにだ」
段烈は先鋒を願い出た。趙嶽も出陣には賛成したが、敵の騎兵が多ければ、平地で不用意に追撃するのは危険だと指摘した。
そこで田朔は、登用したばかりの裴慎を軍議へ呼んだ。
「お前は後秦の軍を知っているだろう。姚萇が城主を懲らしめるために兵を送ったとなれば、相手はどんな動きをすると思う」
裴慎は地図を眺め、慎重に答えた。
「羌族の騎兵は動きが早く、敵が退いたと見れば追ってまいります。ただ、歩兵とともに進む時には、騎兵が先へ出すぎることもございます。今回の軍が同じ戦い方をするとは限りませんが、帰順した2城を急いで奪い返そうとしているなら、攻撃を焦る可能性はございましょう」
「なら、段烈には正面からぶつかってもらおう。ただし、最初から勝負を決めるな。敵が追ってくるなら、俺たちの用意した場所まで連れてくるんだ」
田朔は段烈に前衛を預け、賀蘭真と姚虎には騎兵を率いて敵の位置と進路を探らせた。趙嶽と裴慎は別の道から敵歩兵の側面へ回り、田朔自身は予備兵を率いて中央に控える。各部隊が離れすぎぬよう、伝令の通る道も確かめさせた。
初めて大きな役目を与えられた裴慎は、軍議が終わっても地図の前に残っていた。後秦にいた頃の知識が、いまやかつての味方と戦うために使われる。田朔はその様子に気づいた。
「気が進まんか」
「いいえ、殿下。ただ、昔の同僚が敵軍の中にいるかもしれぬと思いまして」
「いるだろうな。だが、降った兵は助けるつもりだ。無駄に殺すより、俺の軍に来てもらった方がいい。お前もそのために働いてくれ」
裴慎は表情を引き締め、改めて忠誠を誓った。
帰順した2城の城主たちにも、秦軍が動いたことは知らせてあった。田朔は、城門を閉ざして持ちこたえるよう指示し、独断で出撃して敵へ追いすがらないよう念を押した。新たに服属した城主が手柄を焦れば、迎えに来た秦軍とかえって連絡が取れなくなる。
馮岳は長安へ残り、後続の兵糧車が通る道を確保した。西へ進む軍勢が速くても、穀物を積んだ車が遅れれば行軍は止まる。田朔は出発前、運ぶ兵糧と馬の飼葉を確認し、帰還する時に捕虜が増える可能性も見込んで、余分な食糧を用意させた。
◇ ◇ ◇
数日後、秦軍は長安を出た。段烈の先鋒が西方の街道を進む間、賀蘭真と姚虎は先に走り、敵の前衛と歩兵主力の距離を調べた。
後秦の指揮官は秦王自らが出てきたと知り、2城への圧力をいったん緩めて迎撃の態勢を整えた。田朔が長安を奪った男であることは承知している。それでも騎兵の数では負けぬと思い、広い平地での決戦を望んでいた。
最初の衝突は、段烈の前衛と後秦の騎兵の間で起きた。
段烈は槍兵を前に置き、騎兵をその後ろに控えさせて敵を受け止めた。しばらく矢を射かけ合った後、田朔の命令どおり、隊列を保ったまま東へ兵を退かせる。敗走に見せるために背を向けて逃げ出したわけではない。追ってくる敵を見張りながら、ゆっくりと戦場を移したのだ。
敵将は段烈の部隊が下がり始めたと聞き、騎兵へ追撃を命じた。先頭の兵は馬を速め、秦軍に矢を射かけて進む。だが、歩兵は同じ速さではついてこられない。丘の陰へ差しかかる頃には、後秦の騎兵と歩兵の間が大きく開いていた。
賀蘭真の伝令が、田朔の本営へ駆け込んだ。
「殿下、敵の騎兵が段烈将軍を追っております。後続の歩兵は遅れ、間に広い空きができました。趙嶽将軍の部隊も予定の道へ進んでおります」
田朔は自ら馬に乗り、戦場へ目を向けた。土埃の向こうで後秦の騎兵の旗が揺れ、段烈の部隊が約束の場所へ近づいている。
「よし、段烈には反転の合図を送れ。趙嶽と裴慎は敵の歩兵を押さえろ。俺は中央軍を動かして、騎兵が戻る道を塞ぐ。今なら、別々になった敵を各個に相手にできる」
太鼓と旗の合図が伝わった。
段烈の歩兵がその場で向きを変え、槍を並べた。追撃していた後秦の騎兵は、下がっていたはずの秦軍が突然足を止めたため、勢いを殺しきれずに迫ってくる。槍の列から矢が飛び、先頭の馬が横へそれた。
その頃、後秦の歩兵は別の方向から現れた趙嶽の軍を見て、慌てて盾を揃えていた。裴慎は旧知の旗の位置を見分け、指揮官の周辺へ圧力をかけるよう兵を動かした。兵たちは整列する暇もなく応戦したが、趙嶽の歩兵が側面から押し寄せると、前へ進むこともできなくなった。
後秦軍の指揮官は、騎兵を呼び戻そうとした。しかし伝令が前へ出た時には、すでにその退路へ秦王の旗が進んでいた。
田朔は中央軍を横に広げ、槍兵と弓兵を配置した。東へ退こうとする敵騎兵は段烈に押さえられ、後方へ戻ろうとしても秦王の軍が道を塞いでいる。さらに賀蘭真と姚虎の騎兵が左右から迫ると、後秦の列は次第に崩れた。
「武器を捨てた者には手を出すな! まだ戦う奴だけを相手にしろ!」
田朔の命令が前線へ伝えられた。逃げ場を失った後秦兵の中から槍を投げ捨てる者が現れ、それを見た仲間たちも次々と戦意を失っていく。
後秦の指揮官は残った兵と抵抗したが、歩兵の援護も届かない。やがて使者を立て、降伏を申し出た。田朔は将兵の命を保証し、武器を納めるよう命じた。
戦場では捕らえられた兵の武器が集められ、負傷者を見分ける作業が始まった。段烈の部下にも傷を負った者がいる。田朔は勝ち鬨を上げる兵たちへ、降伏した者を殴ったり、逃げ遅れた者から金品を奪ったりすることのないよう命じた。
裴慎は捕虜の列の中に、以前見知った顔を見つけた。相手は一瞬身を固くしたが、裴慎が負傷者に水を配るよう兵へ指示すると、ようやく顔を上げた。昨日まで後秦の旗を守った者も、明日には秦国のために働くかもしれない。裴慎は、田朔の言った『無駄に殺すより仲間にする』という言葉の重さを実感した。
帰順した城主たちには、秦軍の勝利を伝える使者が送られた。恐怖で服属を取り消す必要は、もうなくなった。
2城を罰するために来た軍勢は、ついにその城門を見ることなく敗れたのである。




