第2話(前編2)――「十一人の妻と二つの城」
7月10日の夕刻、田朔は政務を終えて王后崔玉容の部屋を訪れた。
昼の広間では武将の経歴書を読み続けていたが、後宮へ入ると真っ先に妻の顔色を確かめた。玉容は身重で、ゆったりした衣の下には、まだ大きくはない腹が見える。すでに嫡男を産んでいるとはいえ、無理をさせるつもりはなかった。
「今日は長く起きていなかっただろうな。後宮の仕事も人に任せてくれよ」
「ご心配なく。医者にも診ていただきましたし、今は落ち着いております。それより、阿若がまた馬を見たいと言い出して、皆で止めるのが大変でした」
玉容は呆れたように笑った。拓跋阿若は身重になっても馬から離れがたいらしい。
「困った奴だな。許玉蓮も蘇青蘭も、出産までまだ月日があるんだ。4人とも今から身体を大事にしてくれ。11月から12月には、きっと王宮が大騒ぎになるぞ」
玉容は夫の手を腹に重ね、穏やかに笑った。嫡男はすでに元気に育っている。今度生まれる子は男児でも女児でもよいと、田朔は繰り返し話していた。
「そういえば、まだ子を宿していない者たちが、殿下のお渡りを楽しみにしております。小玉など、赤子の衣を縫う玉蓮を見て、自分も早く母になりたいと話しておりました」
「俺も考えていたところだ。せっかく11人の女房がいるんだから、皆との子供が欲しい。戦は将軍たちに手伝ってもらえるが、そこまで人任せにするわけにはいかんからな」
あまりに大真面目な顔で言うため、玉容は声を上げて笑った。
「では、お身体を壊されない程度にお願いいたします。昼の政務を疎かにされては困りますから」
「昼は秦王、夜は夫だ。どちらも手を抜くつもりはないぞ」
◇ ◇ ◇
その夜、後宮の食卓には王后と10人の側室が集まった。羊肉を葱と煮込んだ椀や蒸し魚が運ばれ、久しぶりに全員がそろって食事を楽しむ。玉容は頃合いを見て、田朔がこれからは身重でない妻たちの部屋にも、できるだけ足を運びたいと考えていることを話した。
最初に顔を輝かせたのは何小玉だった。
「殿下、本当ですか。若様を抱かせていただくたび、いつか私にも子供が生まれたらと思っておりました。今夜は私の部屋へおいでいただけませんか」
李麗華も夫へ笑いかけた。
「小玉ばかりではずるいですよ。私のところにも、忘れずにお越しくださいませ」
杜月華は母の杜蘭英と目を合わせてから、自分も母になりたいと告げた。蘭英は娘の言葉を聞いて嬉しそうに笑い、同じ夫を持つ身として自分にも同じ望みがあると話した。蘇瑶、周春華、韓淑蘭も、それぞれの思いを伝えた。
「分かった。俺は誰か1人の願いだけ聞くつもりはない。皆のところへ行くさ。だが、今夜は先に頼んだ小玉の部屋だ。麗華も月華も、順番を待ってくれ」
側室たちが笑うと、玉蓮は腹に手を当てて夫をからかった。
「殿下、7人も待っておりますのよ。夜明けまでお休みになる暇がなくなるかもしれませんね」
「俺はまだ21歳だぞ。それくらいで参るようでは、天下取りなどできん」
田朔が胸を張ると、青蘭まで笑い出した。食事を終えた後、小玉は夫の腕を取って自室へ向かった。久しぶりに2人きりになれたことが嬉しく、夫が額に口づけると頬を赤くして笑った。
「今夜は朝まで一緒にいてくださいね」
「もちろんだ。お前が母親になりたいと思ってくれるなら、俺も嬉しいよ」
2人はその夜をともに過ごした。翌晩から田朔は麗華、蘇瑶、蘭英、月華、春華、淑蘭の部屋へも順に通い、政務の合間に妻たちと過ごす時間を作った。
父の田順は、そんな息子を食卓でからかった。
「朔よ、昼は国の仕事で忙しく、夜は女房たちが待っているそうだな。王様の暮らしも楽ではないのう」
「父上には孫を大勢抱いてもらうつもりなんだ。長生きしてもらわんと困るぞ」
田順は呆れながらも相好を崩した。
妻たちの部屋へ足を運ぶようになると、田朔にも思いがけない楽しみが増えた。昼間は兵の配置や官吏の任免に追われているが、夜になると蘭英は夫の疲れを気遣って背を揉み、月華は母と相談して用意した料理を並べる。春華は酒を酌み交わしながら戦場の話を聞きたがり、淑蘭はほかの誰もいない部屋で夫とゆっくり話せることを喜んだ。
妻たちは皆、子を望んでいた。だが、田朔は誰かが先に身重になったからといって、ほかの妻を急かすつもりはなかった。玉容も後宮で顔を合わせるたびに、身体を大切にしながら暮らすのが先だと伝えた。すでに子を宿した4人は体調に合わせて休み、まだ身重でない7人は、いつか自分の腕にも赤子を抱ける日が来ることを楽しみにしていた。
◇ ◇ ◇
7月下旬、西方から急報が届いた。渭水の西方で街道を押さえる2城が、秦王への帰順を申し出たのである。
城主たちは、姚萇から援軍を得られぬまま孤立することを恐れていた。長安の秦王が降伏した旧敵を登用していると知り、これ以上抵抗するよりも、自ら服属する道を選んだのだ。
田朔は趙嶽と段烈を呼び、使者の書状を示した。
「戦わずに城を得られるなら、こんな結構な話はない。ただし、城主の言葉だけで安心するな。現地の守備兵が本当に従うか確かめ、城門と兵糧庫を引き継いでくれ」
城主が差し出した書状には、何とか町を守りたいという切実さも滲んでいた。周囲の城が秦王に従う一方で自分たちだけが後秦の旗を掲げていれば、やがて戦場になる。城主とて家族を抱え、城内には商いを続けたい者も、収穫の時期を気にする農民もいる。田朔は使者に、降伏を受け入れた後も住民をむやみに動員しないよう伝えさせた。
「降った途端に兵糧を全部持っていかれたら、あいつらだって後悔する。これから先の城にも、俺が約束を守る男だと分かってもらいたいんだ」
趙嶽が受け入れに向かい、段烈は西方の後秦軍に備えた。数日後、2城の城壁には秦王の旗が掲げられ、帰順が正式に認められた。田朔は城主の地位を当面認め、守備兵を秦国の指揮下へ組み込むことにした。
「姚萇に従っていたことを責めていたら、いつまでも敵は減らん。俺のところへ来た以上、働いてもらう。だが、これからは秦国の軍だということを忘れさせるなよ」
田朔は西方の各城へ、新たな帰順の布告を出させた。兵を動かさずに2城を得たことは喜ばしかったが、姚萇が黙って見過ごすとは思えなかった。長安の宮城では武将が増え、後宮では妻たちが未来の子供の話をする。その賑わいの向こうで、西方の旗色も少しずつ変わり始めていた。




