第1話(後編)――「秦王の威光」
387年6月上旬、長安。
田順と妻たちが長安へ到着した翌朝、田朔は父を連れて、かつて暮らしていた町へ向かった。
護衛には趙嶽が選んだ兵が付き従っていたが、田朔は大勢の兵を引き連れることを避け、必要な人数だけを残して宮城を出た。王となった息子とともに長安の町を歩く田順は、道の両側に並ぶ店や行き交う人々を眺めながら、昔の記憶をたどっていた。
長安を離れてから数年が過ぎ、町の様子は大きく変わっていた。戦乱で焼けた家屋が残る一方、修理された建物には新しい住人が入り、市場には各地から運ばれた品物が並んでいる。田朔が長安を占領した後、兵士による略奪を厳しく禁じたこともあり、住民たちは次第に外へ出るようになっていた。
「朔よ、あの角を覚えておるか。昔はあそこに小さな酒屋があったんだが、今は別の店になっておるな。わしらが暮らしていた家も、まだ残っているだろうか」
田順が懐かしそうに話すと、田朔は父の指す方角を眺め、幼い頃から歩き慣れた道を思い出した。あの頃は長安の城門を出ることさえ大きな出来事だったが、今では関中の軍を率い、長安の宮城を支配する立場になっている。
父子が昔の住まいの近くまで来ると、田順は足を止めた。かつて暮らしていた家は残っていたものの、門扉は新しくなり、壁も塗り直されている。別の家族が住んでいるらしく、庭先には洗濯物が干されていた。
「残っておったか。わしらが住んでいた頃より、ずいぶん立派になったものだな。あの頃は雨が降るたびに屋根を心配しておったのに」
田順は家を眺めながら、懐かしそうに笑った。
田朔も父と暮らしていた日々を思い返した。暮らしは決して楽ではなかったが、田順は息子を養うために働き続け、田朔も父を助けながら生きてきた。戦乱が激しくなって長安を離れる時、父子は持ち出せるだけの荷物をまとめ、漢中へ向かったのである。
「父上、あの家を取り戻したいか? 今なら俺が話をつけることもできるぞ」
田朔が尋ねると、田順は首を横に振り、今住んでいる者がいるならそのままでよいと答えた。昔の家がどうなったのか確かめたかっただけであり、今さら人の暮らしを邪魔するつもりはないという。
田朔は父の考えを尊重し、家の前を離れた。
父子が市場へ向かうと、通りにいた住民たちが田朔に気づき、次々と道を空け始めた。護衛兵の姿を見て慌てて頭を下げる者もいたが、田朔は立ち止まり、店先にいた人々へ普段どおり商売を続けるよう声をかけた。
田順はその様子を見て、息子が本当に長安の支配者となったことを実感した。
「朔よ、昔はお前が市場を歩いても、誰も振り向かなかったものだ。それが今では、皆がお前に頭を下げる。世の中というものは、分からんものだな」
田朔は笑いながら父の肩を叩いた。
「俺だって、あの頃は王になるなんて考えてなかったよ。ただ、いつまでも人に命令される側でいたくなかったんだ。今は俺が長安を治める立場になったが、まだやることは山ほどある。父上には、これからも元気でいてもらわんとな」
田順は息子の言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。父子はその後も市場を歩き、昔の店が残っている場所や新しく建てられた家々を眺めながら、久しぶりの長安を楽しんだ。
◇ ◇ ◇
6月中旬、長安の宮城。
田朔が父との外出から戻って数日後、関中西部から急報が届いた。秦王への服属を求める使者を送っていた城の1つが、田朔の命令を拒否したのである。
城主は姚萇への忠誠を表明し、周辺の豪族にも兵を集めるよう呼びかけていた。さらに、田朔が派遣した使者を拘束し、秦王の布告を破り捨てたという。
陸文昭から報告を受けた田朔は、すぐに趙嶽、段烈、馮岳らを集めた。
「俺の使者を捕らえた上に、布告まで破り捨てたそうだな。ずいぶん威勢のいい城主じゃないか。姚萇が戻ってくるまで時間を稼ぐつもりなんだろうが、俺を甘く見すぎている」
段烈は報告を聞くなり、兵を率いて討伐することを申し出た。周辺の城主たちが田朔への服属を決めかねている今、命令に逆らった者を放置すれば、ほかの城も同じ態度を取る可能性がある。
趙嶽も討伐には賛成したが、敵が城に籠もっている以上、無理に攻めれば損害が大きくなると指摘した。城主は周辺の豪族から兵を集めており、城外にも部隊を配置しているという。
田朔は地図を広げ、問題の城と周辺の街道を確かめた。
「城主は姚萇を頼りにしているんだろう。だったら、援軍が来る前に片づける。段烈、お前には先鋒を任せるが、城を力攻めする必要はない。まず城外の兵を叩き、城主が頼りにしている連中を離反させる」
田朔は馮岳へ長安の守備を任せ、趙嶽には中央軍の一部を率いて出陣する準備を命じた。
陸文昭は、秦王自身が出陣すれば長安の政務に支障が出るのではないかと懸念した。しかし田朔は、今こそ自分が兵を率いる必要があると考えていた。
「長安を取ったばかりの今、俺が宮殿に籠もって命令するだけじゃ、関中の連中は本気で従わん。秦王が自ら軍を率い、逆らう城主を討つところを見せてやる。俺の命令を無視すればどうなるか、関中中に知らせるんだ」
趙嶽と段烈は田朔の方針に賛成し、出陣の準備を始めた。
田朔はその日のうちに王后の崔玉容へ出陣を伝えた。玉容は妊娠中であり、長安へ到着してからまだ日も浅かったが、夫が戦場へ向かうことに驚かなかった。田朔が秦王となった以上、関中の反乱を鎮めることも王の務めであると理解していた。
「殿下、どうかお気をつけてお出かけください。長安の後宮は私が守っておりますので、こちらのことはご心配なさらず、戦に専念なさってください」
田朔は玉容の手を取り、無理をしないよう言い聞かせた。
「今回は遠くまで行くわけじゃない。城主を懲らしめたら戻ってくる。玉容は体を大事にしてくれ。父上のことも頼むぞ」
玉容は夫の言葉に頷き、出陣に必要な支度を整えるよう侍女たちへ命じた。
◇ ◇ ◇
数日後、田朔は軍を率いて長安を出発した。
先鋒には段烈の部隊を置き、田朔は趙嶽とともに主力軍を率いた。騎兵は街道の両側を警戒し、後続の部隊が兵糧と武器を運んでいる。
敵の城に近づくと、段烈から城外に布陣する敵兵を発見したとの報告が届いた。
城主は城壁の内側に籠もるだけでなく、周辺の豪族から集めた兵を城外へ出し、田家軍を迎え撃とうとしていた。しかし、集められた兵の多くは十分な訓練を受けておらず、装備も統一されていなかった。
田朔は前方の丘へ馬を進め、敵陣を眺めた。敵兵は街道を塞ぐように並んでいたが、左右の守りは薄く、後方には城へ続く道が残されている。
田朔は敵の配置を確かめた後、段烈と趙嶽を呼び寄せた。
「敵は俺たちが正面から攻めてくると思っている。段烈、お前は中央から攻めかかれ。ただし、敵を深追いするな。趙嶽には右側から回り込ませる。俺は騎兵を率いて左へ回るから、敵が崩れたところを一気に叩く」
段烈は正面の敵を引き受けると答え、趙嶽も右側から敵の側面を攻撃する準備を進めた。田朔はそれぞれの部隊が所定の位置に着くのを確かめると、攻撃開始を命じた。
段烈の率いる兵が前進を始めると、敵軍も太鼓を鳴らし、槍を構えて迎え撃とうとした。しかし、段烈の部隊が近づくにつれて隊列が乱れ始めた。戦場に慣れていない兵たちは、田家軍の整った陣形と勢いに圧倒されていたのである。
段烈は先頭に立って兵を励まし、敵の中央へ攻め込んだ。
激しい戦いが始まると、敵軍は中央へ兵を集め、段烈の進撃を食い止めようとした。その間に趙嶽の部隊が右側から接近し、敵の側面へ攻撃を仕掛けた。
敵兵が慌てて右へ向きを変えた時、田朔は左翼の騎兵を率いて動き始めた。
「今だ! 俺に続け!」
田朔は馬を駆り、敵の左側へ回り込んだ。騎兵たちは田朔の後に続き、敵陣の側面へ突入した。突然現れた騎兵に敵兵は動揺し、槍を構える間もなく隊列を崩した。
田朔は馬上から剣を振るい、前方の敵兵を斬り倒した。護衛の騎兵たちも左右から敵を押し込み、逃げようとする兵を追い立てる。
敵軍の中央では段烈が攻撃を強め、趙嶽の部隊も側面から圧力をかけ続けていた。やがて敵の指揮官が退却を命じると、兵たちは一斉に城へ向かって逃げ始めた。
しかし、田朔はあらかじめ城へ続く道を押さえるよう命じており、退却する敵兵は行く手を塞がれてしまった。
田朔は逃げ場を失った敵兵へ向かい、大声で呼びかけた。
「武器を捨てろ! 降伏する者は殺さん! 俺が討つのは、兵を集めて反乱を起こした城主だ。命令されて戦っている兵まで殺すつもりはない!」
敵兵たちは互いの顔を見合わせ、次々と武器を捨て始めた。田朔は降伏した兵を拘束させ、抵抗を続ける者だけを討つよう命じた。戦場には多くの武器が残され、城外の敵軍は短時間で壊滅した。
段烈が馬を寄せ、満足そうに笑った。
「見事だったな、田様。敵の奴ら、あっという間に逃げ出したぞ。あとは城を攻め落とすだけだ」
田朔は城壁を眺め、すぐに攻城戦を始めるつもりはないと答えた。
「城外の兵は片づいた。あとは城主がどう出るかだ。城の中には住民もいる。無理に攻めれば、こっちも損害を出すし、町も荒れる。まず降伏を勧めてやろう」
田朔は捕らえた敵兵の中から使者を選び、城主へ降伏を求める書状を持たせた。
書状には、ただちに城門を開き、秦王へ服属するなら、城内の兵と住民の命を保証すると記されていた。ただし、使者を拘束して秦王の命令に逆らった城主については、責任を問うと明記されている。
◇ ◇ ◇
翌朝、城内から使者が現れた。
城主は田家軍に勝てないことを悟り、降伏を申し出てきたのである。城外の軍が敗れ、周辺の豪族たちも田朔への服属を決め始めたため、これ以上抵抗しても援軍を期待できなかった。
田朔は城主が自ら城門を開き、武器を置いて出てくることを条件に降伏を認めた。
昼過ぎ、城門が開かれ、城主とその家臣たちが田朔の前へ進み出た。城主は地面に膝をつき、命だけは助けてほしいと願い出たが、田朔はすぐには答えず、捕らえられていた秦王の使者を呼び寄せた。
使者は無事だったものの、城内で拘束されていた間、食事を十分に与えられず、何度も脅されていたという。
田朔は城主を見下ろし、静かな声で告げた。
「俺は最初から、お前の所領を取り上げるつもりはなかった。秦王に従うなら、今までどおり城を治めさせてやるつもりだったんだ。それなのに、お前は俺の使者を捕らえ、姚萇のために兵を集めた。挙げ句の果てに、城外で大勢の兵を死なせたわけだ」
城主は額を地面につけ、許しを請い続けた。しかし、田朔はその言葉に耳を貸さず、趙嶽へ命令を下した。
「こいつは処刑する。使者を捕らえて俺の命令を拒み、兵を集めて戦を仕掛けた責任を取らせろ。ただし、家臣や兵の中で降伏した者は、罪を調べた上で許してやれ。城内の住民にも手を出すな」
城主は顔色を失い、必死に助命を訴えたが、田朔は命令を変えなかった。
処刑はその日のうちに行われ、城主の首は城門の前に掲げられた。
田朔は城内の官吏たちを集め、秦王への服属を誓わせた。従来の役人で職務に問題のない者は引き続き登用し、田家軍から派遣した兵を守備隊として配置することにした。
また、降伏した兵の中から希望する者を田家軍へ編入し、故郷へ戻りたい者には武器を返さず帰郷を認めた。戦場で敵だった者も、降伏した以上は無用に殺す必要がないと考えていた。
田朔は城内の広場で兵と住民を前にし、秦王としての方針を告げた。
「俺に従う者は、これまでどおり暮らして構わん。後秦に仕えていたからといって、それだけで罪にはしない。だが、俺の命令に逆らって兵を集め、反乱を起こす者は必ず討つ。今日のことを関中の城主たちに伝えておけ」
城内の官吏と住民たちは一斉に頭を下げた。
田朔は趙嶽に守備隊の配置を任せ、段烈には周辺の豪族たちへ秦王の勝利を知らせるよう命じた。今回の討伐によって、関中の城主たちは田朔の軍事力を改めて思い知ることになった。長安を奪った若き秦王は、宮城で命令を出すだけの支配者ではなく、自ら軍を率いて戦場に立つ人物だったのである。
◇ ◇ ◇
6月下旬、田朔は長安へ凱旋した。
宮城では田順と王后の玉容が帰還を待っており、田朔が無事に戻ったことを喜んだ。
田順は息子の顔を見るなり、呆れたように笑った。
「朔よ、お前は王になっても戦に出るのか。せっかく長安へ帰ってきたと思ったら、また出陣するんだから、わしも落ち着かんぞ」
田朔は父の隣に座り、笑いながら答えた。
「父上、俺が戦に出なきゃ、関中の連中はいつまでも従わんよ。王になったからって、何もしなくていいわけじゃない。むしろ、これからの方が忙しくなるだろうな」
田順は息子の言葉を聞き、しばらく考えてから頷いた。
「そうかもしれんな。ただし、無茶だけはするなよ。お前には妻も子供もいるし、これから生まれてくる子供たちもおる。お前が死んだら、皆が困るんだからな」
田朔は父の言葉を真剣に受け止め、無事に帰ってくることを約束した。
その日の夕方、田朔は再び重臣たちを集め、関中の情勢について報告を受けた。
今回の討伐を知った周辺の城主たちは、次々と秦王への服属を申し出ていた。兵を率いて抵抗する者がどうなるか、実際に見せつけられたためである。
陸文昭は服属した城の一覧を示し、関中の支配が着実に広がっていることを報告した。一方、賀蘭真と姚虎からは、姚萇が西方で兵を集めているとの知らせが届いていた。
田朔は報告を読み、地図の西側へ目を向けた。
「姚萇の奴、やはり諦めていないか。長安を取られたまま、おとなしくしているとは思わなかったがな」
趙嶽は、後秦の残存勢力がまとまれば再び大軍となる可能性があると指摘した。田朔はその意見を聞き、関中の支配をさらに固める一方、姚萇の動きを詳しく探るよう命じた。
「関中の城主たちが従い始めた今が大事だ。兵を整え、食糧を蓄え、いつでも出陣できるようにしておけ。姚萇が攻めてくるなら迎え撃つし、向こうが動かないなら、俺から攻め込んでやる」
田朔は地図を眺めながら、次の戦を考えていた。長安を奪い、秦王となり、父と妻たちを宮城へ迎え入れた。関中の豪族たちも次第に服属し始めているが、それだけで満足するつもりはなかった。
姚萇を討ち、関中を完全に支配した後には、さらに広い土地へ軍を進めるつもりでいた。
田朔は重臣たちを見渡し、笑みを浮かべた。
「俺たちは、まだ長安を取っただけだ。これからもっと大きな戦をすることになるぞ。お前たちも覚悟しておけよ」
段烈は声を上げて笑い、趙嶽も力強く頷いた。
長安を手に入れた若き秦王は、すでに次の征服を見据えていた。関中の支配を固めた田朔と、長安奪還を狙う姚萇の戦いは、やがて避けられないものとなっていくのである。




