第1話(中編)――「父、長安へ帰る」
387年5月中旬、漢中郡南鄭。
田順は屋敷の広間で、長安から届いた息子の書状を何度も読み返していた。
田朔が長安を陥落させ、秦王となった知らせはすでに届いている。しかし、実際に息子の筆跡で書かれた手紙を読むと、田順は改めて驚かずにはいられなかった。
書状には長安の治安が落ち着き始めたこと、宮城に家族の住まいを用意していること、そして田順と妻たちを迎えるために護衛兵と馬車を送ることが記されていた。
「まったく、あいつはどこまで出世するつもりなんだ。長安を逃げ出した時には、無事に漢中へ着けるかどうかさえ分からなかったのにな」
田順はそう呟くと、向かいに座っている崔玉容へ書状を渡した。
玉容はすでに内容を知っていたが、義父が嬉しそうにしているので、改めて目を通した。田朔が秦王となったことで、玉容自身も王后の位を与えられることになっている。南鄭の屋敷を取り仕切っていた頃とは違い、これからは長安の後宮を統括しなければならない。
「お義父様、長安へ戻る支度は進めております。ただ、私を含めて4人が身重ですので、医者にも相談しながら日程を決めたいと思います。道中で何かあっては、殿下にもご心配をおかけしますから」
玉容は落ち着いた口調で説明した。
妊娠しているのは玉容のほか、昭儀となる許玉蓮、昭容となる蘇青蘭、昭媛となる拓跋阿若の4人である。出産は11月から12月にかけての予定で、いずれも今のところ体調に大きな問題はなかった。
医者は長旅を一度に進めることを避け、途中で十分な休息を取るよう勧めていた。秦嶺を越える道には険しい場所もあるため、田朔が送ってきた護衛兵と馬車だけでなく、道中の宿泊場所についても細かく確認する必要がある。
田順は玉容の話を聞き、急ぐ必要はないと答えた。
「朔も手紙に書いておる。長安はもう逃げたりしないから、ゆっくり来いとな。あいつがそう言うなら、わしも慌てることはない。お前たちの体が一番大事だ」
玉容は微笑み、義父に礼を述べた。
田順は書状をもう一度手に取り、長安の文字を眺めた。
かつて父子で暮らしていた町である。商売がうまくいかず、わずかな利益を頼りに生活していた頃もあった。やがて戦乱が激しくなり、田朔とともに長安を離れた時には、二度と戻れないかもしれないと思っていた。
それが今では、息子が長安を征服し、自分たちを王宮へ迎えようとしている。
「玉容、わしは長安へ戻ったら、昔の家を見に行きたい。あの辺りがどうなっているのか、気になっておるんだ」
「もちろんでございます。殿下も、お義父様が戻られるのを楽しみにしておられるでしょう。長安へ着きましたら、ご一緒に昔のお住まいを訪ねられてはいかがでしょうか」
田順は何度も頷き、久しぶりに故郷へ帰る日を楽しみにした。
◇ ◇ ◇
出発の準備は、それから数日をかけて進められた。
南鄭の屋敷では、長安へ運ぶ衣類や調度品がまとめられ、使用人たちが荷車へ積み込んでいた。すべての家財を持ち出すわけではなく、南鄭の屋敷にも管理する者を残すことになっている。漢中は田朔の重要な領地であり、長安へ都を移したからといって、南鄭の屋敷を閉じるつもりはなかった。
玉容は荷物の準備を監督しながら、側室たちの住まいと侍女の配置について相談していた。
新しい後宮では、玉容が秦王后となり、その下に昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛、婕妤の位が置かれる。田朔から正式な称号を与えられた女たちは、それぞれ長安での生活に期待を寄せていた。
許玉蓮は昭儀となり、側室の中では最も高い位を与えられた。かつて田家の商売を支えた経験を持つ玉蓮は、王宮へ移ってからも玉容を補佐するつもりでいた。
「王后様、長安へ着きましたら、後宮の侍女や使用人の数も増えるのでしょう。南鄭とは勝手が違いますから、最初のうちは何かと忙しくなりそうですね」
玉蓮がそう話すと、玉容は頷いた。
「そうでしょうね。ただ、長安にはすでに陸文昭様が人を手配してくださっています。私たちは到着してから、それぞれの役目を決めればよいでしょう。玉蓮にも手伝ってもらいますから、よろしくお願いします」
玉蓮は笑顔で承知した。
蘇青蘭は新しい衣装の準備を進めていたが、長旅で疲れないよう、普段着に近い服を多めに用意していた。拓跋阿若は馬車での移動を窮屈に感じているらしく、体調がよければ馬に乗りたいと言い出したものの、玉容から出産までは無理をしないよう諭されていた。
阿若は少し不満そうな顔をしたが、腹の子供に何かあっては困ると考え直し、馬車に乗ることを承知した。
修儀となった何小玉は、妊娠している4人の身の回りを気遣い、道中で必要になる薬や衣類を確認していた。
ほかの側室たちも、それぞれ準備を進めている。修容の李麗華、修媛の蘇瑶、充儀の杜蘭英、充容の杜月華、充媛の周春華、婕妤の韓淑蘭も、長安での新しい暮らしを楽しみにしていた。
玉容は女たちの様子を見ながら、王后として後宮をまとめていく責任を感じていた。
田朔が戦場で軍を率いる間、家族の暮らしを守ることは自分の役目である。王宮へ移れば、これまで以上に多くの人々が出入りすることになるだろう。側室たちの待遇だけでなく、侍女や使用人の管理も必要になる。
玉容は長安へ到着したら、まず後宮の規則を整え、女たちが安心して暮らせるようにしようと考えた。
◇ ◇ ◇
5月下旬、田順と玉容たちは南鄭を出発した。
田朔が送った護衛兵が行列の前後を守り、馬車と荷車が街道を進んでいく。妊娠している4人のためには揺れの少ない馬車が用意され、道中では何度も休息を取ることになっていた。
田順は馬車の窓から南鄭の町を眺め、しばらく黙っていた。
漢中へ逃れてきた時、父子には頼れる者も少なく、これからどうやって暮らしていくのか分からなかった。田朔は商売を始め、やがて人を集め、軍を作り、ついには長安を奪うまでになった。
田順は息子の歩みを思い返し、感慨深げに呟いた。
「朔の奴、よくここまでやったものだ。あいつが王になるなんて、長安にいた頃には夢にも思わなかったな」
護衛兵たちは田順の言葉を聞き、微笑んだ。
行列は秦嶺へ向かい、山道に入ると速度を落とした。険しい場所では馬車を慎重に進め、妊娠中の女たちが疲れないよう休息を取った。
途中の宿では、田朔が手配した兵が周囲を警備していた。後秦の残党が山道に潜んでいる可能性もあるため、護衛隊は夜間も交代で見張りを続けた。
玉容は道中、ほかの3人の体調を確かめながら、自分も無理をしないようにしていた。
数日かけて山道を越え、関中の平野が見えてくると、田順は馬車の窓から外を眺めた。
遠くには広い田地が続き、その先に長安へ向かう街道が延びている。
「ようやく帰ってきたか」
田順は小さく呟き、目を細めた。
◇ ◇ ◇
387年6月上旬、長安。
田朔は宮城で軍議を終えたところだった。
関中の豪族たちへの服属勧告は進み、すでにいくつかの城が秦王への忠誠を誓っている。しかし、姚萇に従う勢力も残っており、田朔は賀蘭真と姚虎から届く偵察報告を待っていた。
その時、趙嶽が広間へ入ってきた。
「秦王殿下、南鄭からのご一行が長安の南門へ到着しました。田順様と王后様をはじめ、皆様ご無事とのことです」
田朔はすぐに立ち上がった。
「父上たちが着いたのか! よし、迎えに行こう。宮城の門を開けさせろ」
趙嶽は、王が自ら出迎える必要はないのではないかと遠慮がちに述べた。しかし田朔は笑い、父と妻たちが長旅を終えて到着したのだから、自分が迎えに行くのは当然だと答えた。
田朔は護衛を伴って宮城を出ると、南門へ向かった。
城門の近くには馬車と荷車が並び、護衛兵たちが周囲を警備している。田順は馬車から降り、長安の町を眺めていた。
田朔の姿を見つけると、田順は嬉しそうに手を上げた。
「朔! お前、本当に長安の王様になったんだな!」
田朔は馬を下り、父の前へ歩み寄った。
「父上、よく戻ってきてくれた。道中は大丈夫だったか? 山道もあるから、ずいぶん疲れただろう」
田順は息子の肩を叩き、元気そうに笑った。
「わしは何ともない。それより、お前の方こそ大丈夫なのか。長安を取って王になったと聞いた時には、驚いて腰を抜かしそうになったぞ」
田朔は父の言葉に笑い、久しぶりの再会を喜んだ。
続いて玉容が馬車から降りてきた。
田朔は妻の姿を見ると、すぐに近づいた。玉容は王后として礼を取ろうとしたが、田朔はその手を取って止めた。
「そんなことはいい。長旅で疲れただろう。体は大丈夫か?」
「はい、殿下。おかげさまで無事に到着いたしました。道中も十分に休ませていただきましたので、心配はございません」
玉容は微笑み、田朔の顔を見つめた。
「長安をお取りになったと聞いた時には、本当に嬉しゅうございました。殿下がご無事で何よりでございます」
田朔は玉容の手を握り、しばらく妻の顔を眺めていた。
その後、玉蓮、青蘭、阿若、小玉らも馬車から降り、田朔の前へ集まった。田朔は1人ずつ声をかけ、道中の様子や体調を尋ねた。
妊娠している4人はいずれも無事であり、長旅による大きな疲れも見られなかった。
田朔は安堵し、家族を宮城へ案内するよう命じた。
◇ ◇ ◇
宮城へ入った田順は、広い建物と庭園を見て何度も驚いた。
田朔が用意させた住まいには、家族が暮らすための部屋が整えられ、侍女や使用人たちが待っていた。玉容には王后としての居所が与えられ、10人の側室たちにも、それぞれの位に応じた住まいが用意されている。
田順は案内された部屋を見回し、呆れたように笑った。
「朔よ、こんなに広い部屋で何をするんだ。わしは寝る場所があれば十分なんだがな」
田朔は父の隣に座り、笑いながら答えた。
「父上は好きに暮らしてくれ。長安には昔の知り合いもいるだろう。会いに行きたければ護衛をつけるし、酒を飲みたければ用意させる。もう生活の心配をする必要はないんだからな」
田順は息子の顔を見て、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「そうだな。お前がここまでやってくれたんだ。わしも少しは楽をさせてもらおう。ただし、偉くなったからといって、父親にまで気を遣わせるんじゃないぞ」
田朔は声を上げて笑った。
「分かってるよ。父上は今までどおりでいい。俺が王になったからって、父上まで変わる必要はないさ」
その日の夕方、宮城では家族の帰還を祝う食事が用意された。
田順を中心に玉容と側室たちが集まり、田朔も久しぶりに家族と食卓を囲んだ。南鄭での暮らしや長安までの道中の話が続き、広間には笑い声が絶えなかった。
田朔は父と妻たちの顔を眺めながら、長安を取り返した喜びを改めて感じていた。
かつて父とともに逃げ出した町へ、今度は家族を迎え入れることができたのである。
食事が終わる頃、田順は息子に声をかけた。
「朔よ、明日は昔の家を見に行かんか。あの辺りがどうなっているのか、わしはずっと気になっておったんだ」
田朔はすぐに頷いた。
「もちろんだ。俺も父上と一緒に行きたいと思ってた。昔の知り合いにも会えるかもしれんしな」
田順は嬉しそうに笑い、杯を持ち上げた。
田朔も杯を取り、父と酒を酌み交わした。
長安の宮城には、田家の家族が揃っていた。
しかし、関中の外では姚萇がなお兵を集めている。田朔が家族との再会を喜んでいる間にも、後秦の残存勢力は長安奪還の機会をうかがっていた。
田朔は翌日から、再び秦王としての仕事に戻ることになる。
父と妻たちを長安へ迎えたことで、田朔には新たに守るべきものができていた。




