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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第五章――「梟雄、天下を奪う」

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第1話(前編)――「長安の新しい支配者」

 387年5月上旬、長安。


 秦王となった田朔が長安を支配してから、半月余りが過ぎていた。攻城戦で損傷した南門は修理が進み、市中では閉じていた店が次々と営業を再開している。城門を通る荷車の数も増え、長安の住民たちは新しい支配者の下で暮らしを立て直し始めていた。


 もっとも、長安の城壁の外では、依然として後秦の残存勢力が活動している。姚萇は敗残兵を率いて逃げ延び、関中の諸城には田朔への服属を決めかねている城主も少なくなかった。田家軍が長安を占領したことと、関中全体を支配することは別であり、田朔もその違いを十分に理解していた。


 その朝、田朔は宮城の広間に重臣たちを集め、軍と政務の新しい体制を定めることにした。


 広間の中央には関中の地図が広げられ、長安を中心に主要な城と街道が記されている。趙嶽、段烈、馮岳、陸文昭らが席に着くと、田朔は立ち上がって地図の前へ進んだ。


「長安を取ったからといって、姚萇との戦が終わったわけじゃない。あいつは必ず戻ってくるし、関中の豪族たちも、どちらにつくか様子を見ている。今のうちに長安の守りを固め、周辺の城を従わせておく必要がある」


 田朔がそう告げると、趙嶽は中央軍の配置について報告した。宮城と主要な城門には精鋭を置き、鄭達が城壁の修理を進めている。馮岳は長安へ通じる街道に守備隊を配置し、物資を運ぶ荷車や商人を保護していたが、城外では後秦の敗残兵による襲撃が散発しており、警備を増強する必要があった。


 段烈は報告を聞き終えると、地図の西側を指して田朔に進言した。


「姚萇が兵を集めているなら、こちらから攻めた方が早いだろう。あいつに時間を与えれば、また厄介な軍勢を作り上げるぞ。俺に兵を預けてくれれば、奴の居場所を突き止めて攻め込んでやる」


 田朔は段烈の積極策を認めながらも、すぐに全軍を動かすことには反対した。長安の城内には旧後秦の官吏や兵士が残り、周辺の豪族たちも完全には服属していない。主力軍が西へ向かった隙に反乱が起きれば、せっかく奪った長安を再び戦場にすることになる。


「姚萇は必ず討つが、今は関中を固める方が先だ。長安を押さえた以上、周辺の城主たちには俺の命令に従ってもらう。従う者には所領を認め、兵を出す者には相応の地位を与える。ただし、姚萇と通じて反乱を起こす奴は容赦しない。俺に従うか、敵になるか、はっきり選ばせろ」


 陸文昭はその方針を受け、関中の城主と豪族へ秦王の布告を送ることを進言した。従来の所領を保証する代わりに、兵の数と武器の保有状況を届け出させ、秦王の許可なく軍を動かすことを禁じる。また、後秦の官吏であっても職務に問題のない者は引き続き登用し、行政を混乱させないようにするという。


 田朔はこれを認め、軍の指揮系統についても改めて命令を下した。


 趙嶽には中央軍の統率を任せ、宮城と長安の主要な城門を守らせる。段烈は西方の敵軍に備える部隊を率い、馮岳は長安周辺の守備と補給路の確保を担当する。賀蘭真と姚虎には騎兵を率いて敵情を探らせ、鄭達には城防の整備を任せることにした。陸文昭は官吏をまとめ、長安と漢中の政務を統括する。


 各将の任務が決まると、田朔は彼らを見渡した。


「お前たちには、それぞれ軍を任せる。小さなことまで俺の命令を待つ必要はないが、大きな戦を始める時は必ず報告しろ。俺が出るべき戦なら、俺自身が兵を率いる。王になったからといって、宮殿に籠もっているつもりはないからな」


 段烈は満足そうに笑い、王になった途端に戦場へ出なくなるのではないかと心配していた、と冗談を言った。田朔は、段烈だけに戦を任せたら勝手に敵の城を攻め始めるだろうと応じ、広間に笑い声が広がった。


 軍議が終わる頃、陸文昭はもう1つの案件を持ち出した。


「田様、軍と官制については、ただいまのお命じになったとおりに整えます。ですが、王后と後宮の位についても、正式にお定めいただかなければなりません。南鄭からご家族をお迎えする前に、住まいと待遇を決めておく必要がございます」


 田朔は陸文昭から差し出された書類に目を通した。


 これまで田家の屋敷では、正妻の崔玉容が家政を取り仕切り、10人の側室たちもそれぞれの立場で暮らしていた。しかし、田朔が秦王となった以上、妻たちにも正式な称号を与え、王宮にふさわしい制度を整える必要がある。


 陸文昭は王后の下に昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛、婕妤の位を置く案を示した。古くから用いられてきた称号に加え、礼官が考案した位も取り入れ、秦王府独自の序列を定めるという。


 田朔は書類を読み終えると、しばらく考えてから口を開いた。


「玉容は正妻だから、王后とする。あいつは漢中にいた頃から家のことを任せてきたし、俺が戦に出ている間も、屋敷をよく守ってくれた。後宮のことは今までどおり玉容に任せる。ほかの女たちも、王后の指示に従わせればいい」


 田朔は続いて、10人の側室の称号を決めた。


 許玉蓮(シュイ・ユーリエン)には昭儀、蘇青蘭(スー・チンラン)には昭容、拓跋阿若(トゥオバー・アルオ)には昭媛、何小玉(ホー・シャオユー)には修儀の位を与える。


 さらに、李麗華(リー・リーホワ)を修容、蘇瑶(スー・ヤオ)を修媛、杜蘭英(ドゥー・ランイン)を充儀、杜月華(ドゥー・ユエホワ)を充容、周春華(ジョウ・チュンホワ)を充媛、韓淑蘭(ハン・シュウラン)を婕妤と定めた。


 陸文昭は田朔の命令を書き留め、後宮の制度として公布する準備を始めた。王后を後宮の長とし、その下に10人の側室を置く。位に応じて住まいと侍女を与え、日常の諸事は王后が統括することになる。


 田朔は称号についての話が終わると、南鄭にいる家族のことを尋ねた。


「父上たちは、いつ頃こちらへ来られそうだ? 玉容たちには無理をさせたくない。妊娠している4人は、これから腹も大きくなるだろうし、長旅で体を悪くしたら困る」


 崔玉容、許玉蓮、蘇青蘭、拓跋阿若の4人は、いずれも妊娠していた。出産はその年の11月から12月にかけてを予定しており、田朔は長安への移動に十分な配慮をするよう命じていた。


 陸文昭は、南鄭へ送った使者がすでに到着している頃であり、医者の判断を受けて出発の日が決まるはずだと答えた。道中の宿と護衛兵は手配を進めており、妊娠中の4人については体調を優先して移動させるという。


「父上にも、急いで来る必要はないと伝えてくれ。長安はもう逃げたりしないからな。せっかく帰ってくるんだ。今度は安心して暮らしてもらいたい」


 田朔はそう言って笑ったが、父と家族が長安へ到着する日を心待ちにしていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、長安の旧官吏と周辺の豪族たちが宮城へ呼び出された。


 広間の奥には秦王の座が設けられ、田朔がその上に座っている。左右には趙嶽と段烈が控え、陸文昭は豪族たちの名簿を手にしていた。


 集められた豪族たちは、新しい支配者の前で緊張していた。田朔が漢中から軍を率いて攻め上がり、後秦軍を破って長安を奪ったことは誰もが知っている。しかし、その人物が今後どのように関中を治めるのか、まだ見極められずにいた。


 最初に進み出たのは、長安の東に広い田地を持つ豪族だった。


 男は深く頭を下げ、秦王への忠誠を誓った。田朔は従来の所領を認める代わりに、定められた税と兵糧を納め、秦王の命令があれば兵を出すよう命じた。


「俺に従うなら、今までどおり土地を治めて構わん。だが、姚萇の軍が来た時に、そっちへ兵糧を渡すような真似はするなよ。俺は一度従った者を疑ってばかりいるつもりはないが、裏切った者を許すほど甘くもない」


 豪族は何度も頭を下げ、秦王の命令に従うと約束した。


 続いて長安の西に所領を持つ豪族が進み出た。この男は後秦の役人とも深い関係を持ち、複数の村を支配していた。田朔に忠誠を誓いながらも、従来の特権をそのまま認めてほしいと願い出たのである。


 田朔は陸文昭から渡された報告を確かめ、男の顔を見た。


「お前の家では、村から税を取るだけじゃなく、兵まで集めているそうだな。家を守るための兵だと言うなら、その数を役所へ届けろ。武器も調べさせる。俺に黙って軍を作ることは認めん」


 豪族は家を守るために必要な兵であり、秦王に逆らうつもりはないと弁明した。しかし、田朔はその説明を聞いても命令を変えなかった。


「家を守ることまで禁じるつもりはない。だが、関中で勝手に軍を動かすことは許さん。お前が本当に俺に従うつもりなら、兵の数を届けるくらい何でもないだろう」


 男は不満そうな顔をしたものの、趙嶽と段烈が左右に控えているのを見て、深く頭を下げた。


 田朔は広間に並ぶ豪族たちを見渡した。


「俺は、お前たちの土地を片っ端から取り上げるつもりはない。関中を治めるには、お前たちの力も必要だ。だが、俺が王になった以上、勝手に戦を始めたり、兵を集めたりするのは認めん。従う者には地位を与えるし、功績があればさらに取り立てる。逆らう者には軍を送る。それだけだ」


 豪族たちは一斉に頭を下げた。


 その後、陸文昭は長安の旧官吏たちを紹介した。


 田朔は彼らの経歴を聞き、職務に問題のない者はそのまま役所へ戻した。後秦に仕えていたという理由だけで処罰するつもりはなく、長安の行政を知る官吏たちを使った方が、新しい政権を早く安定させられると考えていた。


 最後の官吏が退出しようとした時、広間の外から兵が入ってきた。


 兵は趙嶽の耳元で何かを告げ、趙嶽はすぐに田朔の前へ進み出た。


「秦王殿下、南門の守備兵が不審な使者を捕らえました。後秦の印が付いた書状を持っており、城内の豪族の屋敷へ向かっていたとのことです。宛先はまだ確認中ですが、使者は取り調べを受けております」


 田朔は顔を上げ、広間に残っている豪族たちを見渡した。


「面白いな。俺の前で忠誠を誓いながら、裏では姚萇と手紙のやり取りか。誰が相手なのか知らんが、ずいぶん度胸のある奴だ」


 豪族たちは互いの顔を見合わせたが、誰も口を開かなかった。


 田朔はその様子を眺め、ゆっくりと笑った。


「心当たりのある奴は、今のうちに申し出てもいいぞ。正直に話せば、事情くらいは聞いてやる。ただし、後から証拠が出てきた時には、言い訳を聞くつもりはない」


 広間は静まり返った。


 田朔はそれ以上追及せず、豪族たちを下がらせた。誰が内通しているのか分からないうちに騒ぎ立てても、相手に逃げる機会を与えるだけである。使者と書状を調べ、確かな証拠をつかんでから動けばよいと考えていた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、趙嶽が調査の結果を持ってきた。


 捕らえた使者が持っていた書状は、前日に兵の数を尋ねた豪族へ宛てられたものだった。姚萇が兵を集め直しており、近いうちに長安を奪還するつもりであることが記されていた。さらに、長安の城門を守る兵の配置を調べ、後秦軍が接近した際には内側から協力するよう求めていた。


 田朔は書状を読み終えると、趙嶽へ向き直った。


「昨日の男か。あれだけ兵の数を届けるのを嫌がっていたから、何か隠しているとは思ったが、姚萇と通じていたとはな。屋敷は調べたのか?」


 趙嶽はすでに兵を派遣しており、後秦の将と交わした別の書状も見つかったと報告した。使者も取り調べを受け、以前から同じ豪族へ連絡を運んでいたことを認めているという。


 田朔は豪族を宮城へ連れてくるよう命じた。


 男が広間へ引き出されると、田朔は書状を見せ、姚萇の軍が来た時に長安の門を開けるつもりだったのかと問いただした。


 豪族は顔色を変え、書状など知らないと訴えた。しかし、使者の証言と屋敷から押収された書状を突きつけられると、もはや弁明することができなくなった。


 田朔はしばらく男を見下ろしていたが、やがて静かな声で告げた。


「昨日、俺の前で忠誠を誓ったばかりだろう。お前が姚萇に仕えていたことを責めるつもりはなかったし、所領も認めてやるつもりだった。それなのに、俺が長安を守れるかどうか試していたわけだ」


 豪族は床に額をつけ、命だけは助けてほしいと懇願した。


 田朔は趙嶽へ向き直った。


「こいつを牢へ入れろ。屋敷にいる兵は武装を解かせ、所領は没収する。内通に関わった者を調べ、罪のない家人や農民まで巻き込まないようにしろ。首謀者については、取り調べが終わってから処分を決める」


 豪族は助命を叫びながら連行された。


 陸文昭はその様子を見届けると、ほかにも姚萇と通じている豪族がいる可能性を指摘した。田朔は調査を進めるよう命じたが、証拠のない者まで捕らえることは禁じた。長安を取ったばかりの今、豪族たちを必要以上に追い詰めれば、かえって反乱を招くことになる。


「裏切る奴は許さんが、疑わしいというだけで殺して回るつもりもない。俺に従う者まで敵にする必要はないからな。ただし、内通が明らかになった奴には、二度と同じ真似ができないようにしてやる」


 田朔は続いて、没収する所領へ兵を派遣するよう命じた。武装した者が抵抗すれば制圧するが、村を焼いたり、農民を殺したりすることは禁じる。田朔が必要としているのは、これから秦国を支える土地と住民であり、無人の荒れ地ではなかった。


 趙嶽が兵を集めるため退出すると、田朔は陸文昭とともに地図を広げた。


 長安の西には、姚萇に従う城がいくつも残っている。後秦の残存勢力がどこに集結しているのか、正確な兵力はまだ分からなかったが、姚萇が長安奪還を諦めていないことは明らかだった。


 田朔は地図を見つめながら、陸文昭に命じた。


「賀蘭真と姚虎からの報告を急がせろ。姚萇がどこにいるのか、どれだけ兵を集めているのか知りたい。関中の豪族を従わせ、長安の守りが固まったら、今度は俺が軍を率いて攻める。あいつを生かしておけば、いつまでも後秦の名を掲げる奴が出てくるからな」


 陸文昭は深く頭を下げ、周辺の城主へ服属を求める使者を急がせると答えた。


 田朔はしばらく地図を眺めていたが、やがて顔を上げた。


「陸文昭、俺は長安を取り返すために兵を集めた。だが、王になった以上、もう長安だけで満足するつもりはない。関中を手に入れたら、その先へ進む。姚萇を討ったところで、俺の戦が終わるわけじゃないんだ」


 陸文昭は田朔の言葉を聞き、改めて頭を下げた。


「秦王殿下のお考え、承知いたしました。関中を治めるための政務は、私どもにお任せください。殿下には、さらに大きな国をお築きいただきたく存じます」


 田朔は満足そうに頷き、地図の西にある後秦の勢力圏を指で押さえた。


「まずは姚萇だ。長安を奪われた恨みを忘れているとは思えん。あいつが兵を集めるなら、俺も軍を整える。次に戦場で会った時には、二度と逃がさんぞ」


 387年5月、秦王田朔は長安の統治を整え、関中の豪族たちを従わせる一方、後秦との決戦に備え始めた。


 長安を奪った若き秦王の野心は、すでに関中の外へ向かっていた。

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