第10話(後編)――「長安の悪党、王となる」
387年4月下旬。
長安を陥落させた田朔は、宮城の広間に集まった将たちを前に、最初の命令を下した。
「官庫と武器庫を調べろ。城門には兵を置いて、勝手に出入りさせるな。それから、市中で略奪した奴は味方でも捕らえろ。俺たちは長安を取ったんだ。長安を焼きに来たわけじゃない」
趙嶽は中央軍を率いて宮城と官庫を押さえ、馮岳は市街の巡回と城門の警備を引き受けた。段烈には後秦の敗残兵が潜んでいないか調べさせ、賀蘭真と姚虎は城外へ出して姚萇の行方を探らせる。鄭達には攻城戦で傷んだ南門の修理を任せ、兵と職人を集めて昼夜交代で作業を進めさせた。
陸文昭は旧後秦の役人を集め、戸籍、田地、租税、倉庫の帳簿を提出させていた。長安は漢中の城とは比べものにならないほど大きく、官庫には各地から集められた銭や穀物、布帛が蓄えられている。もっとも、戦の前に運び出された品もあり、帳簿に記された数量がそのまま残っているわけではなかった。
田朔は陸文昭から最初の報告を受けると、官庫の穀物をすべて軍へ回すのではなく、市中へも放出するよう命じた。
「戦の間、商売が止まってただろ。米を買えない奴が出たら困る。値段を決めて売れ。金のない家には、しばらく食える分を渡してやれ」
陸文昭は頷いたが、兵糧の確保も必要であると念を押した。姚萇は逃げ延びており、後秦の軍が再び長安へ攻め寄せる可能性は残っている。
「分かってるよ。軍の分を残したうえで出せばいい。長安の住民に腹を空かせてまで、倉をいっぱいにしておく必要はないだろ」
田朔はさらに、降伏した後秦兵のうち武器を捨てた者には食事を与え、帰郷を望む者と田家軍への仕官を望む者を分けて調べさせた。将校や官吏についても、過去の職務を確かめてから処遇を決めることにした。
その日の午後、旧後秦の役人たちが宮城へ呼び出された。
田朔は広間の奥に座り、陸文昭を傍らに置いて1人ずつ話を聞いた。役人たちは新しい支配者の機嫌を損ねまいと、深々と頭を下げている。
その中の1人が、後秦への忠義を尽くした者まで処罰されるのかと恐る恐る尋ねた。田朔はその役人を見て、落ち着いた口調で答えた。
「姚萇に仕えていたからといって、全員を殺すつもりはない。昨日まで後秦の役人だった奴が、今日から俺の役人になっても構わん。ただし、俺の銭を盗んだり、勝手に税を取ったりしたら許さんぞ。帳簿をごまかしても分からないと思うなよ。俺は元々商人だからな。兵の数より銭の勘定の方が得意かもしれん」
広間の後ろに立っていた段烈が笑い出した。
「そいつは本当だ。こいつに銭を借りたら、利息まできっちり取られるぞ」
「お前にはまだ貸したことがないだろ。そもそも、何に使うつもりだ?」
「長安には旨い酒があると聞いてるんだ。王様になる男なら、部下に酒くらい奢ってくれてもいいだろ」
田朔が呆れた顔をすると、緊張していた役人たちの中にも笑みを浮かべる者がいた。
田朔は彼らに職務へ戻るよう命じ、当面の俸給を従来どおり支払うと約束した。役人が逃げ散れば、長安の行政は止まってしまう。新たに征服した都を治めるには、戦で勝つこととは別の仕事が必要だった。
◇ ◇ ◇
長安陥落から数日後、田朔は護衛を連れて城内へ出た。
宮城と官庫の警備は落ち着き、市場にも少しずつ人が戻っている。閉まっていた店の戸が開き、食糧や布を売る商人が通りへ品を並べ始めた。田家軍の兵が巡回しているため、住民たちはまだ警戒しているものの、戦が終わったことは分かっていた。
田朔は昔、自分が商売をしていた辺りへ馬を進めた。
荷車を引いて通った道には、見覚えのある店が残っている。建物が建て替えられた場所もあったが、道の曲がり方や市場の位置は以前と変わっていなかった。
田朔は馬を下り、通りに並ぶ店を眺めた。
その時、1軒の店から出てきた年配の商人が、田朔の顔を見て足を止めた。
「……田朔か?」
田朔も男の顔を見て、しばらく考えた。
「おや、まだここで商売してたのか。元気そうじゃないか」
男は田朔の後ろに並ぶ護衛兵と、馬に掲げられた旗を見比べた。
「お前、本当にあの田朔なのか。長安を取った軍の大将が田朔だと聞いて、まさかとは思っていたが……」
「俺だよ。父上も元気だ。今は漢中にいるけど、じきに長安へ呼ぶつもりだ」
商人は口を開けたまま田朔を見つめていた。
田朔はその様子がおかしくなり、笑いながら店先へ近づいた。
「そんなに驚くことか? 昔だって商売はしてただろ」
「商売と長安を取るのは違うだろうが!」
男の声が通りへ響き、近くの店からも人が顔を出した。田朔を知る者が何人か集まり、かつて荷車を引いていた若者が長安の支配者になったと知って騒ぎ始める。
田朔は彼らとしばらく話し、商売の様子を尋ねた。戦が始まってからは城門の出入りが厳しくなり、外から品物が入らなくなっていたという。商人たちは長安を取った新しい軍がどんな税を課すのか心配しており、田朔にもその話をした。
「今までどおり商売していい。税は勝手に増やさせない。俺だって商売をやってたんだから、儲けが出ないうちから銭を取られる嫌さは分かるよ」
田朔はそう答え、困ったことがあれば役所へ申し出るよう伝えた。
店を離れる時、年配の商人がもう一度声をかけてきた。
「田朔、お前の親父さんは本当に戻ってくるのか?」
「ああ。今度は逃げなくていいからな。父上にも昔の知り合いと酒を飲んでもらうつもりだ」
男は何度も頷き、田順が戻ったらぜひ店へ寄ってほしいと頼んだ。
田朔は笑って約束し、護衛とともに通りを後にした。
その日の夕方、田朔は宮城へ戻ると、南鄭へ送る使者を呼んだ。
「父上に長安を取ったと伝えろ。それから玉容たちにも、こっちへ来る支度を始めてもらえ。だが、妊娠してる4人には無理をさせるな。道中の宿と馬車はこっちで用意する。急がなくていいから、安全に来るよう伝えてくれ」
使者は命令を受け、翌朝、南鄭へ向けて出発した。
◇ ◇ ◇
長安を手に入れた田朔のもとには、各地から使者が訪れるようになった。
後秦に従っていた周辺の城からは、今後の扱いを尋ねる書状が届いた。すでに田家軍へ降伏を申し出る者もおり、陸文昭はその対応に追われていた。
田朔は降伏する城には従来の役人を残し、一定数の守備兵を置く方針を決めた。城を取るたびに役人をすべて入れ替えていては、行政が立ち行かなくなる。田家軍へ従うことを認めた者には職務を続けさせ、税と兵糧の納入を命じた。
一方、姚萇の行方を追っていた賀蘭真と姚虎からは、後秦の残存勢力が長安の外で兵を集め直しているとの知らせが届いた。
田朔は陸文昭と将たちを集め、今後の方針を話し合った。
「姚萇はまだ生きてる。長安を取ったからって、後秦がなくなったわけじゃない。向こうもそのうち取り返しに来るだろうな」
趙嶽は長安の守備を固めるべきだと進言し、馮岳も城門と城壁の修理を急ぐ必要があると述べた。段烈は敵が攻めてくるなら迎え撃てばいいと笑ったが、田朔はまず城内を落ち着かせることを優先した。
「長安を取ったばかりで、また全軍を外へ出すわけにはいかん。姚萇の動きは賀蘭真と姚虎に見張らせる。こっちは兵を休ませて、次の戦に備えよう」
陸文昭はその方針を聞き、さらに重要な話を持ち出した。
「田様、長安を治める以上、いつまでも田家軍の大将という立場だけでは済みません。漢中と長安を支配する者として、正式な地位を定める必要があります」
田朔は陸文昭の顔を見た。
「地位って、俺はもう長安の主だろ。それじゃ足りないのか?」
「軍を率いるだけなら足ります。しかし、役人を任命し、税を定め、各地の城主に命令を出すとなれば、諸侯としての名分が必要です。田様には王を称していただきたい」
広間にいた将たちが顔を上げた。
段烈は最初に笑い、田朔の肩を叩いた。
「王か! いいじゃないか。長安を取ったんだ。それくらい名乗っても誰も文句は言えんだろ」
趙嶽も賛成した。田家軍の将兵は漢中から田朔に従い、幾度も戦ってきた。長安を取った今、田朔が王となれば、将兵の地位も明確になり、周辺の城へ命令を出すうえでも都合がよい。
馮岳は実務面から、王を称するなら官職や軍の指揮系統を整理する必要があると述べた。賀蘭真はその話を聞いて笑い、田朔が王になったら自分たちも立派な官職をもらえるのかと尋ねた。
田朔はしばらく考えていたが、やがて笑った。
「王ねえ。長安で草鞋を売ってた頃には、そんなものになるとは思わなかったな」
陸文昭は真顔で頷いた。
「田様がどこから始められたかは存じております。しかし今は、漢中と長安を治めるだけの兵と土地をお持ちです。王を称するに足る実力がございます」
「分かった。だったら王になろう。ただし、王になったからって、急に偉そうなことを言い始めるつもりはないぞ。俺は今までどおりだ」
段烈はそれを聞いて大笑いした。
「お前は今でも十分偉そうだよ!」
田朔も笑い、陸文昭に即位の準備を命じた。
国号については、長安と漢中を本拠とする新しい国として「秦」を用いることになった。後秦の姚萇も秦を称しているが、田朔はそれを承知のうえで同じ名を選んだ。
「長安を取ったのは俺たちだ。秦の名まで向こうに遠慮する必要はないだろ」
陸文昭はその言葉を聞き、国号を秦とする詔書の草案を作り始めた。
◇ ◇ ◇
4月下旬、長安の宮城で田朔の即位式が行われた。
広間には田家軍の将たちが並び、長安の旧役人や周辺の城から来た使者も参列していた。宮城の外では兵が警備に当たり、市中には新たな王が立つことを知らせる布告が出されている。
田朔は用意された衣冠を身につけ、広間へ入った。
陸文昭が詔書を読み上げ、田朔が長安と漢中を治める王となったことを宣言した。将たちは一斉に膝をつき、臣下として礼を取る。
田朔は広間の奥へ進み、王の座に腰を下ろした。
目の前には段烈、趙嶽、馮岳、賀蘭真、姚虎、鄭達、陸文昭らが並んでいる。漢中で兵を集め始めた頃には、これほど多くの将を従えることになるとは考えていなかった。
田朔はしばらく彼らを眺めた後、笑いながら口を開いた。
「みんな、よくここまでついてきてくれたな。俺は長安で草鞋を売ってた男だ。それが漢中へ逃げて、商売をして、兵を集めて、とうとう長安を取った。これからは秦王として、お前たちと一緒にこの国を大きくしていくつもりだ」
将たちは一斉に頭を下げ、田朔の即位を祝った。
段烈は礼を終えると、待ちきれない様子で顔を上げた。
「王様になったんだから、祝いの酒はたっぷり出るんだろうな?」
田朔は笑いながら答えた。
「もちろんだ。だが、お前は飲みすぎるなよ。明日も仕事があるんだからな」
「王様になっても俺を働かせるのか!」
広間に笑い声が広がった。
即位式の後、田朔は将たちに官職を与えた。
趙嶽には中央軍の統率を任せ、段烈と馮岳にはそれぞれ軍を率いる地位を与えた。賀蘭真と姚虎は騎兵と偵察を引き続き担当し、鄭達には長安の城防を任せる。陸文昭は政務を統括し、長安と漢中の行政を整えることになった。
田朔はさらに、南鄭から家族が到着したら宮城の一角を住まいとして使えるよう準備させた。玉容を王后とし、側室たちにもそれぞれの地位を与える方針である。
その日の夜、宮城では即位を祝う宴が開かれた。
段烈は大杯を手にして上機嫌で飲み、賀蘭真は姚虎を相手に長安の戦いで誰が最も働いたかを言い合っていた。趙嶽と馮岳は酒を飲みながらも、城の守備や兵の配置について話し合っている。
田朔は彼らの様子を眺め、満足そうに酒杯を持ち上げた。
長安を逃げ出した時、田朔の手元にはわずかな銭しかなかった。父とともに秦嶺を越え、漢中で商売を始めた頃も、目の前の利益をどう増やすかで精いっぱいだった。それが今では、長安の宮城で将たちと酒を飲み、自分の国を持つまでになっている。
田朔は杯を置き、傍らの陸文昭へ声をかけた。
「父上たちは、いつ頃こっちへ来られそうだ?」
「南鄭からの返事はまだ届いておりません。ただ、道中の警備と宿の手配は進めております。ご懐妊中の方々もいらっしゃいますから、急がずお迎えするのがよろしいでしょう」
「そうだな。玉容たちに無理をさせるわけにはいかん。父上も年を取ったし、ゆっくり来てもらおう」
田朔はそう答え、家族が到着する日を楽しみに待つことにした。
◇ ◇ ◇
即位から数日後、南鄭から返書が届いた。
田順は息子が長安を取ったことを喜び、すぐにでも帰りたいと書いていた。しかし玉容は、妊娠している4人が長旅をするには体調を見ながら進む必要があると考え、医者と相談して出発の日を決めるつもりだという。
田朔は書状を読みながら笑った。
「父上は相変わらずだな。玉容の方がよほど落ち着いてるよ」
田朔は家族を迎える準備をさらに進め、宮城の住まいを整えさせた。玉容たちが到着するまでの間、長安の政務と軍の整備を進めることにしたのである。
その日の夕方、田朔は宮城の高い場所へ上がり、長安の町を見渡した。
城壁の内側には家々が並び、通りには人や荷車が行き交っている。市場からは商人たちの声が聞こえ、遠くには田家軍の旗が翻っていた。
田朔はしばらく町を眺めていた。
かつて自分は、この長安で草鞋を売っていた。元手の銭を数え、売れ残りを抱えて帰り、父とともに明日の商売を考えていたのである。漢中へ逃げることになった時には、長安を捨てるしかないと思っていた。
それが今では、長安そのものを手に入れている。
田朔は城壁の向こうへ目を向けた。
姚萇はまだ生きており、後秦の残存勢力も各地に残っている。関中の外には、さらに大きな土地と多くの国があった。長安を取ったからといって、天下が田朔のものになったわけではない。
しかし、今の田朔には兵があり、将があり、銭と土地がある。南鄭には父と妻たちが待ち、これから生まれてくる子供たちもいる。
田朔は長安の町を見下ろしながら笑った。
「父上、俺たち、とうとうここまで来たぞ」
その言葉を聞く者はいなかった。
田朔はしばらく城壁の向こうを眺めた後、宮城へ戻ろうとした。しかし途中で足を止め、もう一度、長安の町を振り返った。
「さて、次はどこを取ろうかな」
387年4月、長安を征服した田朔は秦王となった。
かつて長安の片隅で草鞋を売っていた若者は、今や漢中と長安を治める一国の王である。
だが、田朔の成り上がりは、まだ終わらない。




