第10話(前編)――「長安へ帰る」
387年4月上旬。
後秦軍を2度にわたって破った田家軍は、関中を北へ向かって進軍していた。3月末に降伏した城には守備兵を残し、兵糧を運び込ませている。周囲の村からは田家軍へ食糧を売りたいという商人も現れ、後秦軍の敗北は長安へ続く街道を行き交う者たちの間にも広まっていた。
田朔は新たに手に入れた城を本陣とし、毎朝、賀蘭真と姚虎から敵情を聞いていた。後秦軍の敗残兵は北へ退き、途中の城へ逃げ込んだ者もいれば、そのまま長安へ向かった者もいる。一方、長安の南にはまだ相当数の兵が残っており、各地から集められた部隊が新たな軍を編成しているという。
賀蘭真は地図の上に木札を置き、長安から南へ延びる街道を指した。
「昨日までに確かめた限り、向こうは長安の南側で兵を集めている。負けた連中だけじゃないぞ。別の城から来た兵もいるし、馬もかなり増えた。旗の数だけなら、3月に戦った連中より多い」
姚虎も西側を調べており、敵の騎兵が街道沿いの村へ出入りしていると報告した。後秦軍は兵糧を集めながら、田家軍がどの道を通って北上するか探っているらしい。
陸文昭は2人の報告を聞き終えると、長安の南に置かれた敵軍の位置を確かめた。
「姚萇は田様を長安へ近づける前に止めるつもりでしょう。城に籠もるだけなら、周囲の城から兵を集める必要はありません。こちらが北上すれば、長安の手前で野戦を挑んでくると考えるべきです」
「なら、そこで戦えばいい。向こうが出てくるなら、城壁を登る手間が省ける」
田朔は敵軍の位置を見ながら答えた。ただし、相手が大軍を集めているという理由だけで急いで進むつもりはなかった。長安の南にある川や水路、丘陵の位置を確かめ、騎兵が動ける場所と歩兵が隊列を組める場所を調べさせる。敵軍がどこに陣を敷いているかだけでなく、どこから兵糧を運び、敗れた場合にはどの道へ逃げるのかまで知る必要があった。
賀蘭真は田朔の注文を聞きながら笑った。
「長安が近づいたら、もう少し急ぐかと思ったんだがな。お前、昔住んでいた家を見に行きたくないのか?」
「見たいさ。だが、急いで行って城門を閉められたら面倒だろ。せっかく帰るんだから、今度は堂々と門から入りたい」
「だったら、向こうに門を開けさせるところまで俺たちが調べてやるよ。ついでに昔のお前を知ってる奴がいたら、長安にいた頃からこんなに偉そうだったのか聞いておこうか」
「やめろ。余計なことまで聞いてきそうだからな」
賀蘭真は声を上げて笑い、姚虎を連れて偵察へ戻っていった。
田朔はその後も陸文昭と地図を調べ、兵糧の輸送と各隊の配置を決めた。3月の連勝で兵の士気は高く、段烈などは早く長安へ向かわせろと毎日のように言っている。しかし田朔は、長安を守る軍との戦いだからこそ、敵の配置を十分に確かめてから進むつもりだった。
その日の午後、南鄭から田家の使者が到着した。
◇ ◇ ◇
使者は田順と崔玉容からの書状を持参していた。漢中では大きな問題は起きておらず、田家の屋敷も以前と変わらず賑やかだという。ただし、今回の書状には田朔を驚かせる知らせが記されていた。
正妻の崔玉容が再び懐妊したのである。さらに側室の許玉蓮、蘇青蘭、拓跋阿若の3人も医者から懐妊を告げられていた。
正妻を含め、4人が子を宿している。
田朔は書状を読み返し、思わず声を上げて笑った。
「4人ともか。父上は何と言ってる?」
使者によれば、田順は最初こそ驚いたものの、すぐに機嫌をよくし、屋敷の者たちへ妊婦の世話を怠らないよう命じたという。玉容はすでに嫡男を産んでいるため落ち着いているが、初めて子を宿した側室たちは、それぞれ違った様子を見せていた。
玉蓮は帳場の仕事を減らすよう玉容から言われても、座ってできる仕事なら構わないと譲らない。青蘭は体調を気にしながらも、生まれてくる子の衣服を考え始めている。阿若は医者に馬へ乗るのを控えるよう注意され、ひどく不満そうだったという。
田朔は阿若の話を聞いて、また笑った。
「あいつならそう言うだろうな。だが、今は馬より腹の子を大事にしてもらわんと困る。玉容に任せておけば大丈夫だろうが、無茶をしないよう伝えてくれ」
陸文昭も書状の内容を聞き、田家にとって大きな慶事だと祝った。
「嫡男がお生まれになったばかりだというのに、さらに4人ですか。田様が長安をお取りになれば、田家の勢いはますます盛んになりますな」
「長安を取る前に、家の方が先に大きくなってるよ。父上も大変だろうな。俺が戻る頃には屋敷の部屋が足りなくなってるかもしれん」
田朔は上機嫌で返書を書かせた。玉容には身体を大事にするよう伝え、玉蓮、青蘭、阿若にも無理をさせないよう頼む。父には必要な費用を惜しまず使ってほしいと書き添え、屋敷の者たちにも祝いの品を配るよう命じた。
使者が帰った後も田朔の機嫌はよく、話を聞きつけた段烈が本陣へ顔を出すと、肩を叩かれながら大笑いされた。
「お前、戦に出てる間に4人も子ができるのか。長安を取ったら祝いがいくつ重なるんだ?」
「俺だって驚いてるよ。帰ったら玉容に何を言われるか分からん」
「怒られるのか?」
「怒られはしないだろうが、あいつは俺が浮かれてるとすぐに見抜くからな。まず無事に帰ってこいって言われるよ」
段烈はひとしきり笑った後、長安を早く取って家族を呼び寄せればいいと勧めた。
田朔もそのつもりだった。漢中は田家が勢力を築いた土地であり、南鄭には父も妻たちも暮らしている。しかし長安を手に入れれば、そこを新たな本拠地にできる。かつて貧しい暮らしを送った都へ、今度は父と妻子を迎え入れるのである。
田朔は段烈に翌朝の出発準備を命じた。
「長安を取ったら、父上たちを呼ぶ。お前にも城を守ってもらうことになるから、今のうちに遊んでおけ」
「長安を取った後まで働かせる気か。俺はしばらく酒を飲んで寝ていたいんだが」
「その分の酒くらいは用意してやる。まずは勝ってからだ」
段烈は笑いながら承知し、部下を集めに戻っていった。
◇ ◇ ◇
数日後、賀蘭真と姚虎が詳しい偵察結果を持ち帰った。
後秦軍は長安の南に広がる平地へ陣を敷き、街道を挟んで歩兵を並べている。騎兵は西側に多く、東側には水路や畑が続いているため、大きな騎兵部隊を自由に動かすには向いていない。
賀蘭真は自分で走って確かめた場所を地図へ書き込み、敵陣の後ろにある街道も示した。
「西は馬を走らせやすい。向こうもそれを分かってるから、騎兵を集めてるんだろう。東は畑の間に水路が何本もあって、馬で大きく回るには面倒だ。ただし歩兵なら進める場所がある。馮岳には使えると思うぞ」
姚虎はさらに西側を回り、敵騎兵が陣の外へ出る時に使っている道を確かめていた。後秦軍はその道から田家軍の側面へ出ようとする可能性があり、放置すれば中央軍が戦っている間に背後を脅かされかねない。
田朔は2人の報告を聞き、将たちを集めた。
趙嶽は中央軍を率いて田朔とともに敵の正面を受け持ち、段烈は西へ出て敵騎兵を押さえる。馮岳には東側の歩兵を任せ、水路を越えられる場所を利用して敵右翼へ迫らせる。賀蘭真と姚虎は戦場の外側を走り、敵騎兵の動きと長安からの増援を監視することになった。
陸文昭は敵軍の配置を確認したうえで、長安に近い戦場であることを忘れてはならないと進言した。
「こちらが勝てば、敗れた敵は長安へ退くでしょう。しかし追撃が乱れれば、城から出てきた別の部隊に横を突かれる恐れがあります。勝った後の進軍まで考えておく必要があります」
「そこは分かってる。敵を破ったら、逃げる兵だけじゃなく城門まで見る。せっかく長安の近くで勝つんだから、そこで足を止めたくない」
田朔はそう答え、各隊へ翌朝の出発を命じた。
兵糧を積んだ荷車が動き始め、歩兵は隊列を整え、騎兵は先行して街道の安全を確かめた。田家軍は長安へ向かって北上し、後秦軍が待ち受ける平地へ近づいていく。
途中の村では、田家軍の旗を見て家の戸を閉ざす者もいれば、街道脇へ出て兵の数を数える者もいた。長安から来た軍を2度破ったという噂を聞いているのだろう。田朔は兵に略奪を禁じ、食糧や水が必要な場合には代金を払わせた。
翌日の午後、先行していた賀蘭真から敵軍を確認したとの知らせが届いた。
田朔は丘へ上がり、北の平地を見渡した。遠くに後秦軍の旗が並び、その後ろには長安へ続く街道が延びている。敵の歩兵は中央に厚く集まり、西には騎兵が展開していた。田家軍が近づいたことを知っているらしく、敵陣からも騎兵が出てこちらを探っている。
段烈は敵軍を見て満足そうに笑った。
「ようやく長安の連中が本気で集まったな。これだけ並んでるなら、倒し甲斐がある」
趙嶽は敵の中央を見ながら、これまでの後秦軍より歩兵の隊列が厚く、簡単には崩れそうにないと話した。馮岳も東側の地形を確かめ、歩兵を進められる道筋を確認している。
田朔はしばらく敵陣を眺めた後、賀蘭真へ向き直った。
「向こうの将がどこにいるか、もう一度調べてくれ。旗が多いからって全部本隊とは限らん。姚虎は西の騎兵を見ておけ。あいつらがどこまで回れるか知りたい」
2人が馬を走らせると、田朔は中央軍の陣を置く場所を決め、段烈と馮岳にもそれぞれの位置へ兵を進めさせた。
その夜、田家軍と後秦軍は互いの陣の火が見える距離で向かい合った。
◇ ◇ ◇
夜半を過ぎる頃、賀蘭真が本陣へ戻った。
敵将の旗は中央の後方にあり、その周囲には予備の歩兵が置かれている。西の騎兵は数こそ多いものの、すべてが自由に動けるわけではなく、街道から離れた場所には起伏があって隊列を保ちにくいという。
姚虎も戻り、敵騎兵が西側から田家軍の側面へ回る可能性はあるものの、その道を通るなら途中で必ず見つけられると報告した。
田朔は地図を広げ、趙嶽、段烈、馮岳、陸文昭とともに最後の軍議を開いた。
「西の騎兵は段烈と姚虎で押さえる。東は馮岳に任せるが、無理に敵の後ろまで回らなくていい。俺と趙嶽は中央を押す。向こうが西へ騎兵を出してきても、中央の兵を勝手に動かすな。敵の旗と予備兵の動きを見てから、どこを破るか決める」
趙嶽は中央軍の歩兵を厚くし、予備を後方に残すことを提案した。敵も田朔が中央から攻めると考えているはずであり、最初から全軍をぶつければ、後秦側の予備兵に押し返される恐れがある。
田朔はそれを認め、攻撃を始める時刻と各隊の動きを決めた。
段烈は軍議が終わると酒杯を置き、田朔へ声をかけた。
「明日は長安の手前で大戦だな。勝ったらそのまま城へ行くんだろ?」
「行けるなら行く。向こうが門を開けてくれるかもしれんしな」
「そんな親切な奴がいると思うか?」
「いなきゃ開けさせるさ。どっちにしても、ここまで来て南へ帰る気はない」
段烈は満足そうに頷き、部下のところへ戻っていった。
軍議を終えた田朔は天幕の外へ出た。北には後秦軍の陣火が広がり、そのさらに向こうに長安がある。
2年前、田朔は父の田順とともに長安を逃げ出した。あの頃は荷車1台をどう動かすか、明日の飯をどう手に入れるかで精いっぱいだった。秦嶺を越え、漢中で商売を始め、兵を集めて城を取り、気がつけば数多くの将兵を従えるようになっている。
南鄭には玉容と息子が待ち、さらに4人の女が子を宿している。長安を取れば、父も妻たちも呼び寄せることができる。昔のように逃げるためではなく、自分たちが暮らす都として戻ってくるのである。
田朔は北の陣火を見ながら笑った。
「長安の連中も、俺がこんな格好で帰ってくるとは思わなかっただろうな」
翌朝、田家軍は夜明けとともに動き始めた。
段烈の軍が西へ進み、馮岳の歩兵が東側の水路に沿って展開する。趙嶽は中央の兵を整え、田朔も馬に乗って旗の下へ出た。
後秦軍も軍鼓を鳴らし、中央の歩兵を前へ押し出してきた。西では騎兵が動き始め、敵将の旗も陣の後方から前へ進んでいる。
田朔は左右の配置を確かめ、中央軍へ前進を命じた。
「行くぞ。長安への道を開ける!」
田家軍の軍鼓が鳴り響き、歩兵が一斉に動き出した。後秦軍も正面から進み、両軍の間に残された平地が少しずつ狭まっていく。
長安を守る後秦主力と、長安へ帰ろうとする田朔の軍が、ついに正面からぶつかろうとしていた。




