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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第四章――「乱世を喰らう」

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第9話(後編)――「長安への道」

 387年3月下旬。


 後秦第2陣が現れた夜、田家軍の陣では早々に火を落とす場所が増えた。朝から戦っていた兵を休ませるためである。一方、北に陣を敷いた後秦軍では夜が更けても松明が動き、騎兵が何度も陣の外へ出入りしていた。


 田朔は天幕で賀蘭真と姚虎から届く報告を待った。第2陣は敗残兵を収容したものの、すぐに攻めかかる様子を見せず、東西へ斥候を出して田家軍だけでなく周囲の道まで探らせている。さらに北の街道を調べた賀蘭真の部下からは、第2陣の後ろに新たな大軍はいないとの知らせも届いていた。


 夜半を過ぎて戻った姚虎によれば、西へ出た敵騎兵の一隊は近くの村まで進んだ後、本隊へ引き返していた。東でも似た動きが見られ、第2陣は田家軍の左右を慎重に探っているものの、兵を大きく分けてはいない。


 陸文昭は地図に置かれた木札を見ながら、第2陣は朝の敗戦をかなり詳しく聞いているはずだと話した。


「第1陣は段烈殿と馮岳殿に左右を押され、そちらへ兵を割いたところを田様の中央に破られました。今度の敵は同じ形にされるのを嫌い、左右へ兵を離さず本隊を固めています。敗残兵を受け入れた甲斐はあったようですな」


「一度負けた話を聞いて、同じことをするほど馬鹿じゃないってことか。それでいい。長安から来た軍が毎回同じ負け方をしたら、こっちまで退屈する」


 田朔は笑いながらも、夜通し敵を見張らせるつもりはなかった。賀蘭真と姚虎の騎兵には交代で休息を取らせ、自軍の兵も夜襲に備える者を残して眠らせる。田朔自身も報告が一段落すると横になった。敵が目の前にいる時ほど、眠れるうちに眠らなければならない。南鄭で小さな商いをしていた頃なら自分一人が寝不足になるだけで済んだが、今では何千もの兵が自分の判断を待っているのである。


 夜明け前に賀蘭真が戻り、第2陣は夜の間に動かず、東西へ出していた騎兵も陣へ戻ったと知らせた。ただし敗残兵の一部を後方へ送り、北へも何騎か伝令を走らせている。


「長安まで行くかは分からんが、昨日の負けが北へ走ってるのは間違いない。今度の連中まで負けたら、もっと面白い話になるぞ」


「だったら、ちゃんと面白くしてやろう。朝飯を食ったら始めるぞ」


 田朔が立ち上がると、賀蘭真も笑って食事の置かれた方へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 朝日が昇る頃には、田家軍も後秦軍も陣の前へ兵を並べていた。昨日とは違い、後秦軍は左右を大きく広げず、歩兵を厚くまとめている。騎兵も両翼から離れず、第1陣を破った田家軍がどのように動くのかを待ち構えていた。


 丘の上から敵陣を眺めた田朔は段烈と馮岳を呼び、昨日と同じ戦い方を最初から繰り返さないよう命じた。


「向こうは俺たちの戦い方を聞いてる。段烈は西、馮岳は東へ出てもらうが、最初から食いつかなくていい。俺が中央を動かすまで、敵がどこへ兵を寄せるか見てくれ」


 段烈は敵陣を眺めながら、せっかく昨日顔を売ったのに用心されてしまったと笑った。田朔が「お前みたいなうるさい奴が西から来るって、敗残兵が教えてくれたんだろ」と返すと、段烈は今日は静かに近づいて驚かせると言い出した。


「お前が静かに戦えるなら、それだけで敵は驚くよ」


「言ったな。あとで覚えてろよ」


 2人のやり取りに馮岳もわずかに笑ったが、すぐ東側の地形へ目を戻した。昨日と同じく東を受け持ち、敵が退いても田朔の中央より先へ出ず、追撃の合図を待つという。田朔はそれ以上細かく指図せず、東は任せると答えた。


 賀蘭真と姚虎には戦列へ入らず、さらに外側を走らせる。敵の左右だけでなく北の街道も見張らせ、戦っている間に新たな軍勢が現れれば、戦況にかかわらず知らせるよう命じた。


 趙嶽が中央の配置を整え終えると、田朔は馬へ乗った。


「昨日勝ったから今日も勝てるとは限らん。ただ、昨日より俺たちの方が敵を知ってる。行くぞ」


 田家の旗が上がり、軍鼓に合わせて中央軍が進み始める。段烈と馮岳も左右へ広がったが、後秦軍は第1陣のようにすぐ兵を動かさず、田朔の中央が近づいても陣形を保っていた。


 やがて弓の届く距離まで近づくと、両軍の間を矢が飛び交い始めた。田朔は盾兵を前へ出し、趙嶽とともに昨日より厚くした中央を押し進める一方、段烈と馮岳にはまだ本格的な攻撃を命じない。後秦軍も中央へ厚い歩兵を置き、田朔が正面から来ると分かった上で受け止める構えを見せていた。


 趙嶽は敵の槍列を見ながら、昨日のように中央から兵を抜くつもりはなさそうだと告げた。


「だったら、抜いてもらえばいい。段烈と馮岳に始めさせろ」


 伝令が左右へ走り、西で段烈の軍鼓が鳴った。ほとんど同時に、東でも馮岳の旗が前へ進んだ。


 ◇ ◇ ◇


 後秦軍は田家軍の両翼が動いても、すぐには中央から兵を出さなかった。左右に置いていた部隊だけで段烈と馮岳を受け止め、田朔の正面には厚い歩兵を残している。昨日の敗北を踏まえた布陣だけあって、簡単に同じ形へ引き込まれるつもりはないらしい。


 田朔も急がず、中央の兵を交代させながら圧力をかけ続けた。西では段烈が敵左翼と激しくぶつかり、東では馮岳が隊列を保ったまま右翼を押しているものの、どちらもまだ敵陣を破るには至らない。その間にも賀蘭真から伝令が戻り、北の街道に新しい軍勢はなく、敵後方から戦場へ近づく部隊も見えないと報告した。姚虎が調べた西の外側にも、伏兵や別働隊はいなかった。


 周囲に新たな敵がいないと分かると、田朔は中央の予備から一部を抜いて西へ送った。趙嶽がその意図を察して段烈に押させるのかと尋ねると、田朔は敵も自分が昨日と同じように中央を破りに来ると考えているはずだと答えた。


「だったら今日は、先に段烈を暴れさせる。あいつも朝から我慢させられてるから、そろそろ限界だろ」


 増援を受けた段烈は待っていたように攻撃を強めた。敵左翼が押され始めると、後秦軍はついに中央から西へ兵を動かしたが、田朔はまだ中央を進ませず、送り出された兵が段烈とぶつかるところまで待った。


 そこへ東の馮岳も前進する。西へ兵を回したばかりの後秦軍は東側まで押され、今度はそちらへも中央から兵を送らなければならなくなった。昨日と同じ形を避けようとして中央を厚くしていたはずが、左右から圧力を受け続ければ、結局どこかを支えるために兵を割くしかない。


 趙嶽は敵中央の旗を見ながら、昨日より粘ったものの同じところへ戻ってきたと笑った。


「昨日と同じじゃない。今日は向こうが自分で選んで戻ってきたんだ。中央、行くぞ!」


 田朔が剣を抜くと軍鼓が激しく鳴り、中央軍が一斉に前へ出た。盾兵が矢を受けながら距離を詰め、その後ろから槍兵が続く。後秦軍も踏みとどまって迎え撃ったが、すでに中央の一部を左右へ回した後であり、昨日ほどの厚みは残っていなかった。


 両軍の前列がぶつかると、田朔は馬上から正面だけでなく左右の旗も見続けた。西では段烈が敵左翼を押し、東の馮岳も着実に右翼を下げさせている。後秦軍は中央へ後列の兵を送り込んで耐えていたが、そのたびに予備を失い、次第に戦列の奥行きがなくなっていった。


 敵将も田朔の狙いに気づいたらしく、西へ送った兵の一部を中央へ戻そうとした。しかし段烈はその動きを見逃さず、鬨の声とともにさらに前へ出る。敵左翼は兵を中央へ返すどころか、自分たちが崩れないために踏みとどまるしかなくなった。東でも馮岳が歩兵を押し進め、田朔の正面にいる部隊は左右から切り離されるような形になっていく。


「趙嶽、右を前へ出せ。左は段烈の方へ寄らなくていい。正面だけ押すぞ!」


 中央軍の右側が一段前へ出ると、後秦軍はそこへ兵を向けた。田朔はその動きを見て中央そのものをさらに押し上げる。敵の前列が下がって後列とぶつかり、昨日ほど簡単には崩れなかったものの、一度生じた乱れは次々と後ろへ伝わった。


 やがて敵将の旗が後方へ動いた。


「敵の旗が下がったぞ! 押し切れ!」


 田家軍から鬨の声が上がり、中央の後秦兵が後退し始めた。西では段烈が左翼を押し込み、東でも馮岳が右翼を崩している。三方で同時に戦列を維持できなくなった後秦軍は、昨日の第1陣より長く耐えたものの、ついに北へ向かって崩れ始めた。


 ◇ ◇ ◇


 敵が退き始めても、田朔は勢いだけで全軍を追わせず、まず賀蘭真へ北の街道を確認させた。ほどなく戻った騎兵から、新たな軍勢は見えず、退却する後秦兵の先にもまとまった部隊はいないとの報告が届く。


 そこで田朔は追撃を許し、賀蘭真と姚虎を先へ出した。段烈には西、馮岳には東から敵を追わせ、自分と趙嶽は中央から進む。ただし隊列を崩さず、周囲の分からない場所まで入り込まないことだけは全軍へ徹底させた。


 朝から追撃を待っていた段烈は、今度こそ止められないと分かると嬉しそうに声を上げた。


「最初からそう言えばいいんだ。昨日の分まで働いてくるぞ!」


「だから昨日の分まで追うなって言ってるんだ。お前の『少し先まで』は信用してないからな!」


「もう聞こえん!」


「絶対に聞こえてるだろ!」


 段烈は笑いながら部下を率いて走り去り、田朔も中央軍を進めた。


 後秦軍は敗残兵をまとめながら北へ退こうとしたが、賀蘭真と姚虎の騎兵が外側を走って脇道へ散る部隊を追い立て、段烈と馮岳も左右から圧力をかけたため、退却は次第に乱れていった。田朔は敵が十分に崩れたところで追撃を止め、知らない土地へ勢いのまま踏み込むことを避けた。


 日が傾く前には敵が放棄した陣と荷駄を押さえ、第1陣に続いて第2陣の兵糧、武器、馬、荷車まで田家軍の手に入った。朝から戦い続けた兵たちは疲れていたが、長安側から送られてきた後秦軍を2つ続けて破ったという事実は、誰の目にも明らかだった。


 鎧を土埃だらけにして戻った段烈も、今度は追撃を止められたことに文句を言わず、満足そうに馬から降りた。


「今日は文句ないぞ。ちゃんと追わせてもらったからな。あとは敵の酒でも残ってれば最高なんだが」


「お前が文句を言わないなんて珍しいと思ったら、結局そこかよ。敵の荷は調べてからだ。勝った日に腹を壊して寝込んだら笑ってやるぞ」


「じゃあ自分たちの酒を飲む。今日はそれくらいいいだろ」


「夜番が決まってからにしろ」


 段烈が笑い、近くにいた兵たちもつられて笑った。


 趙嶽はその間に降伏兵の整理を始め、馮岳は東側の警戒へ兵を回した。賀蘭真と姚虎も疲れ切った馬を替え、別の騎兵を北へ送り出している。勝った直後から次の敵を探す田家軍の動きは、もはや特別な命令を出さなくても各隊が自然に始めるようになっていた。


 田朔は敵陣の中央から北へ続く街道を眺めた。道そのものは昨日までと何も変わらない。それでも、そこに立ちはだかっていた後秦軍を2つ退けた今、長安へ続く道は昨日より確かに近くなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 後秦軍を続けて破った知らせは、田家軍の兵より早く周囲へ広がった。翌日には近隣の村から使いが現れ、その次の日には北にある小さな城からも人が来る。噂は道を進むたびに膨らみ、長安から来た大軍を壊滅させたとも、後秦の将を何人も討ち取ったとも語られていた。


 田朔はわざわざ訂正させなかった。


「俺たちが何人倒したかまで教えてやる必要はない。勝手に怖がってくれるなら、その方が楽だ」


 陸文昭もそれには同意したが、今回の勝利はこれまで関中南部の城を落としてきたのとは意味が違うと見ていた。地方の城が田家軍に奪われるだけなら長安にとっては遠くの騒ぎで済むが、自分たちが送り出した軍勢が続けて敗れれば、もはや無視はできない。


「次はこれまでより大きな軍を出してくるかもしれませんし、逆に別の条件を持たせて使者を寄越すことも考えられます。どちらにせよ、長安は田様を南の小勢力として扱えなくなりました」


「軍なら来る前に見つけて、勝てるところまで調べてから戦う。使者なら話くらいは聞くよ。前よりいい物を持ってくるなら、飯も少し豪華にしてやる」


「条件次第では酒もつけますか?」


「向こう持ちならな」


 陸文昭が笑い、田朔も地図へ目を戻した。そこには賀蘭真と姚虎が集めた新しい情報が書き加えられ、北へ続く街道だけでなく、その途中にある城、兵が通れる脇道、食糧を集められる集落、川や水場まで記されている。少し前まで空白だった場所が、田家軍の進軍とともに埋まりつつあった。


 さらに数日が過ぎると、後秦第2陣の敗北を知った北側の城の1つが、戦う前に使者を寄越した。城門を閉ざして抗戦する意思はなく、田家軍が住民や倉を荒らさないなら従うという。


 田朔は条件を受け入れた。戦わずに取れる城をわざわざ壊す理由はなく、段烈だけが少し物足りなそうな顔をしたものの、「壊してから直すのは面倒だぞ」と言われると、さすがに城攻めを求めることはなかった。


 新しい城が加わったことで、田家軍の支配地はさらに北へ伸びた。降伏した城兵の中から使える者を趙嶽が選び、役人や書記については陸文昭が調べる。兵糧を置ける場所も増え、秦嶺を越えて続いてきた補給路は、田朔の進軍に合わせて関中の内側へ延びていった。


 月末には南鄭からも使者が到着した。田順も玉容たちも無事であり、漢中では大きな問題は起きていない。田朔が後秦軍を続けて破った知らせはすでに南にも届き、南鄭では田家軍がいよいよ長安へ向かっているとの噂まで広がっているという。


 田朔は父への返書を書記に任せ、自分は元気であり、関中で着実に道を作っていると伝えさせた。玉容たちにも無事を知らせるよう付け加えたところで、陸文昭が「長安へ急いで突っ込むつもりはない、とも書いておきますか」と笑った。


「それは書くな。父上が読んだら、『そんなことをわざわざ書くのは、突っ込む気があるからだ』って余計に心配する」


 書記が笑いをこらえながら筆を動かし、陸文昭もそれ以上はからかわなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、田朔は段烈、馮岳、趙嶽、陸文昭、賀蘭真、姚虎を集め、3月最後の軍議を開いた。


 卓上の地図では、1か月前より田家の支配する範囲が北へ伸び、長安までの空白も少しずつ狭くなっている。後秦が軍を出してきたことで、田朔の相手は関中南部の城兵から、長安を本拠とする勢力そのものへ変わった。その軍を2つ続けて破り、さらに北の城を戦わず従わせた以上、田家軍は秦嶺の南へ追い返せば済む相手ではなくなっていた。


 賀蘭真は北側で新たに調べた道と、その先にある複数の城について説明した。姚虎も西へ抜ける道や水場を確認しており、東では馮岳の斥候が調査を始めている。田朔は一通りの報告を聞いてから、長安へ続く街道を指でなぞった。


「4月も北へ行く。後秦がまた軍を出すなら、来る前に見つける。城が降るなら受け入れるし、戦うなら倒す。そうやって長安まで道をつなげるぞ」


 段烈は酒杯を持ち上げ、ようやく話が簡単になったと笑った。


「つまり北へ行けばいいんだろ。だったら早く次を決めてくれ。俺は待ってる時間が一番嫌いだ」


「お前に『北へ行け』だけ言ったら、本当に真っすぐ長安まで走りそうだから駄目だ。道は俺が決める」


「俺だって途中で飯くらいは食うぞ」


「そこは心配してない」


 軍議の席に笑いが起こった。


 田朔も杯を手に取ったが、視線は地図の上に残したままだった。


 2年前、父とともに長安を逃げ出した時には、秦嶺を越えた先で生き延びられるかどうかさえ分からず、持っている銭と明日の飯ばかり考えていた。それが今では、南に漢中を持ち、秦嶺を越える道を押さえ、関中にも田家の旗を掲げる城が増えている。段烈や馮岳が軍を率い、趙嶽が兵をまとめ、賀蘭真と姚虎の騎兵が何日も先の敵を探るようになった。


 長安から田朔を止めるために送り出された軍も、2つ続けて退けた。


 田朔は杯を置くと、地図に記された長安へ指を置いた。


「待ってろ。今度は俺がそっちへ行く」


 387年3月が終わった。

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