第9話(中編)――「後秦軍を破る」
387年3月中旬。
夜明け前、賀蘭真の部下が敵情を持ち帰った。北から近づいている第2陣は夜の途中で進軍を止め、田家軍の正面にいる後秦軍とはまだ合流していない。双方の間には半日ほどの行程が残っており、第2陣が夜明けとともに動き出しても、すぐに戦場へ到着する距離ではなかった。
さらに姚虎からは、西側の道に敵兵の動きがないとの報告が届いた。東へ回った斥候も別働隊や伏兵らしい集団を見つけておらず、前夜から集め続けた情報を地図へ重ねると、目の前の後秦軍だけが第2陣より先に突出していることが分かる。
田朔は朝食を取りながら一通りの報告を聞き終え、段烈と馮岳へ予定どおり動くよう伝令を出した。
「逃げる敵を追うより、第2陣の動きを見失わないことを優先する。賀蘭真は北、姚虎は西から回ってくれ。戦が始まっても戻る必要はないから、向こうが動いたら伝令だけ寄越せ」
「目の前の連中はお前たちに任せるよ。俺は後ろの客がどれだけ急いでるか見てくる。今日は飯も食ったから、落馬の心配までしてもらわなくて済むしな」
「そこまで言うなら絶対に落ちるなよ」
賀蘭真は笑って天幕を出ていった。
田朔も外へ出ると、朝靄の向こうに後秦軍の陣が見えた。すでに兵が動き始めており、敵も第2陣が近づいていることは知っているはずである。このまま待てば相手の兵が増える以上、合流する時間を与える理由はなかった。
趙嶽とともに中央軍の前へ出た田朔は、左右の部隊が動き出したとの知らせを待ってから兵へ命じた。
「今日はこっちから行く。段烈と馮岳が左右へ入るまでは無理に崩そうとしなくていい。まず中央を押して、向こうがどこへ兵を回すかを見る。動いたところを見てから、こっちも次を決めるぞ」
趙嶽は正面の敵陣を眺め、中央の歩兵を厚くしておくと答えた。後秦軍の主力は簡単に崩せる相手ではないが、左右から段烈と馮岳が圧力をかければ、敵将は中央だけに兵を置いておくことができない。
やがて田朔が馬へ乗り、旗を上げさせると軍鼓が鳴った。その音に合わせ、田家軍の中央が朝靄の中を進み始めた。
◇ ◇ ◇
後秦軍も田家軍を待ち受けていた。中央軍が近づくと敵の弓兵が前へ出て射撃を始め、その後ろでは槍兵が隊列を整える。田朔は盾兵を前へ出して矢を防がせ、弓兵にはその後ろから射返させたが、最初から敵陣へ突っ込ませることはしなかった。
矢が両軍の間を飛び交う中、後秦軍の騎兵が東側から大きく回り始めた。趙嶽が予備の兵を向けようとしたものの、田朔は中央を薄くしないよう止めた。ほどなく丘の向こうに馮岳の旗が現れ、東へ回ろうとしていた敵騎兵は進路を変えざるを得なくなり、その間に馮岳の歩兵が敵右翼へ近づいていった。
西でも段烈が軍鼓を響かせながら兵を押し出し、敵左翼へ正面から圧力をかけ始めた。後秦軍はそちらにも歩兵を回し、中央にいた部隊の一部が西へ移動していく。
敵陣を見ていた趙嶽が、中央から兵が抜けたことを田朔へ知らせた。
「まだ待たせろ。段烈は止めなくても前へ行くからな。向こうがもう少し西へ兵を出してからでいい」
「本人に聞かれたら、また文句を言われますな」
「聞こえないところで言ってるんだから問題ない」
その直後、西から大きな鬨の声が上がった。段烈の部隊が敵左翼とぶつかり、後秦軍はさらに兵を西へ回している。田朔はそこで中央軍を押し上げるよう趙嶽へ命じた。
盾兵が歩調を速め、その後ろから槍兵が続いた。弓を射ち合っていた距離はたちまち縮まり、両軍の歩兵が正面から激突する。
後秦軍は、これまで関中南部で戦ってきた城兵とは違った。田家軍に押されても前列が踏みとどまり、乱れた場所には後列から兵が入って隊列を立て直す。中央の厚みもまだ十分に残っており、田朔が正面から兵をぶつけただけで崩れる相手ではなかった。
それでも、敵は中央だけを守っているわけにはいかなかった。西では段烈が左翼を押し続け、東では馮岳が右翼へ迫っている。中央を支えれば左右が苦しくなり、左右へ兵を送れば田朔の正面が薄くなる。
そこへ姚虎から伝令が到着した。西側を回ろうとした敵騎兵がいたものの、姚虎の騎兵を見て本隊側へ戻り、そのさらに西には別の部隊も見つかっていないという。
「姚虎にはそのまま外を見させろ。敵騎兵を追いかけなくていい。こっちは俺たちでやる」
伝令を返して間もなく、東から馮岳の軍鼓が強く響いた。敵右翼が押され始め、西でも段烈が歩兵の隊列を崩さないまま前進を続けている。
田朔は左右の旗を確かめてから剣を抜いた。
「中央を上げるぞ!」
田家の旗が前へ動くと、田朔自身も馬を進めた。それを見た前列の兵が歩調を速め、後続も間隔を詰めていく。中央軍全体が押し出されると、後秦軍は正面へ兵を戻そうとしたが、西と東の戦線も苦しくなっており、十分な兵を回せなかった。
趙嶽は田朔の横で各隊へ指示を飛ばし、右を前へ出しながら、左には中央と歩調を合わせるよう命じた。田朔も突出する兵を抑えつつ敵の旗を見続けていると、敵将の旗がわずかに後方へ動き、それにつられるように中央の一部が下がり始めた。
ここを逃すつもりはなかった。
「今だ。押せ!」
田家軍の中央から鬨の声が上がり、敵の前列が数歩下がったところへ兵が押し込んだ。踏みとどまろうとする敵兵もいたが、後ろから退いてくる味方とぶつかり、整っていた隊列が崩れ始める。
同じ頃、西では段烈の旗が大きく前へ進み、東でも馮岳が敵右翼を後退させていた。三方から圧力を受けた後秦軍は左右を支えきれなくなり、その乱れが中央へ広がると、ついに北へ退き始めた。
◇ ◇ ◇
敵が崩れると段烈はそのまま追撃へ移ろうとしたが、田朔は伝令を走らせ、敵陣を越えて追わないよう命じた。段烈は不満そうな顔をしたものの、逃げる兵を追い回す代わりに放棄された陣へ兵を入れ、残された武器や荷車を押さえ始めた。
馮岳は最初から深追いせず、東側に残った敵兵を掃いながら隊列をまとめ、中央との間を詰めていった。かつて敵の退却を追って大勢の兵を失った男だけに、勝っている時ほど自分の隊を崩さなくなっていた。
田朔も中央軍を敵陣へ入れたところで止め、降伏する兵には武器を置かせ、負傷者は敵味方を問わず動ける者から手当てさせた。趙嶽には降伏兵をまとめさせ、兵糧を積んだ荷車や放棄された矢、槍についても勝手に持ち出す者が出ないよう見張りを置かせる。
田家軍の兵が勝利に沸く中、西から戻った段烈だけは、追撃を止められたことが気に入らないらしかった。
「せっかく崩したんだ。もう少し追えば、もっと捕まえられたぞ。第2陣が来てるのは分かってるが、俺なら追って戻るくらいできる」
「お前の言う『もう少し』が信用できないんだよ。放っておいたら長安まで追いかけていきそうだから止めた」
「そこまで行けたら手間が省けるじゃないか」
悪びれもしない段烈に、田朔は北の街道を指した。
「長安は逃げない。それより、次の連中が来る前にこっちを片づけるぞ。飯も自分たちの分を食え。敵の荷は中身を調べてからだ」
「勝った直後まで倉と飯の心配か。そこだけは南鄭で商売してた頃から変わらんな」
「腹が減った兵に戦わせるよりましだろ。文句があるならお前だけ昼飯抜きだ」
「それは困る。素直に働くことにする」
段烈は笑って部下のもとへ戻った。
昼を過ぎる頃には敵陣の整理が進み、田家軍の負傷者は後方へ送られ、降伏した後秦兵も武器を預けて一か所に集められていた。荷車や食糧、使える武器の確認も始まったが、田朔は兵をその場で緩ませなかった。
目の前の敵には勝ったものの、北から第2陣が近づいている。朝から戦って疲れた兵を休ませ、次に備える時間をどれだけ確保できるかが重要だった。
◇ ◇ ◇
午後になると賀蘭真が戻ってきた。朝に出た時より馬は汗まみれで、本人の顔にも疲れが浮かんでいたが、水を飲むとすぐ地面へ地図を広げ、第2陣の位置を示した。
「朝から南へ動いてる。途中でこっちの敗残兵とも会ってるから、先に来た軍が負けたことはもう知られてる。このままなら今日のうちに姿が見えるところまで来るが、敗残兵を拾い始めてから進み方が遅くなった。俺たちが逃げたんじゃなく、向こうが負けたって話を聞いてるんだろうな」
賀蘭真によれば、第2陣は騎兵を前へ出しているものの、本隊から大きく離してはいない。左右にも大規模な別働隊は見つからず、第1陣の敗北を知ってから明らかに慎重になっている。ほどなく戻った姚虎も、西側の街道に新たな敵部隊はいないと報告した。
田朔は敵の現在地を確かめると、すぐに第2陣へ向かうのではなく、まず全軍へ食事と休息を命じた。朝から戦ってきた兵を疲れたまま次の敵へぶつける必要はない。敵第1陣から奪った兵糧にはまだ手をつけず、自軍の兵糧を配り、水を運ばせ、負傷していない兵にも武器を置いて座らせた。
敵陣の中で飯を受け取った段烈は、北を気にしながらも機嫌がよかった。
「敵が近づいてる横で昼飯とは、向こうから見たら随分と余裕がある軍に見えるだろうな。俺は構わんが、食ってる途中で来たら飯を置いて戦うことになるぞ」
「その時は口に入ってる分だけ飲み込んでから行け。朝から働いた兵に飯も食わせず、次の戦へ連れていく方が嫌だ」
「酒もつけてくれるなら文句はない」
「それは戦が終わってからだ」
近くにいた兵たちが笑った。
東から戻った馮岳はその笑いには加わらず、自軍に大きく崩れた隊はなく、負傷者を後方へ送れば再び動けると報告した。趙嶽も中央軍の隊列を組み直しており、十分に休ませれば次の戦にも耐えられる。
田朔は皆の報告を聞きながら食事を済ませた。最初の後秦軍を破ったことで、第2陣と戦う前に兵を休ませる時間も手に入ったのである。
◇ ◇ ◇
夕方が近づいた頃、北を見張っていた騎兵が戻り、第2陣の旗が見えたと知らせた。
田朔は段烈、馮岳、趙嶽とともに低い丘へ上がった。北の街道には土埃が立ち、その中から騎兵が姿を現し、さらに後ろから歩兵の列と複数の旗が続いている。
朝に戦った軍とは違い、第2陣は田家軍との距離を十分に残したところで進軍を止めた。敗残兵を受け入れながら隊列を整え、斥候らしい騎兵を前へ出しているところを見ると、第1陣がどのように敗れたのかを聞いた上で動いているらしい。
段烈は腰に手を当て、遠くの軍列を眺めながら笑った。
「本当に来たな。朝の連中を片づけたばかりなのに、今日は客が多い。しかも今度の連中は、俺たちが何をしたか聞いてから来てるんだろ?」
「だから朝の連中より面倒なんだよ。お前みたいに喜ぶところじゃない」
「強い方が勝った時に気分がいいだろ」
「お前と話してると、戦の相談をしてるのか喧嘩の相談をしてるのか分からなくなるな」
段烈が笑う横で、趙嶽と馮岳は敵陣を見続けていた。
「今日は来ないでしょう」
趙嶽は敵騎兵の動きを目で追いながら続けた。
「敗残兵から田家軍の戦い方を聞いたばかりです。朝の軍と同じように、そのまま前へ出てくるとは思えません。こちらも一戦した後ですから、今夜は互いに探り合うことになるでしょう」
馮岳もそれに同意し、日没までに無理に戦うより、敵が夜の間にどこへ兵を動かすのか見てから決めるべきだと述べた。
田朔はしばらく北を眺めた後、段烈を西、馮岳を東に置き、自分と趙嶽が中央を守るよう命じた。賀蘭真と姚虎にはもう一度だけ外へ出てもらい、第2陣の後方だけでなく、東西へ別働隊を出す動きがないかも調べさせる。
朝から走り続けていた賀蘭真は、自分より先に馬を休ませてくれと訴えた。
「こいつは俺を乗せて朝から走ってるんだ。さすがにもう勘弁してやってくれ。俺もついでに、もっと若くて丈夫なのと替えてくれるならありがたいけどな」
「馬は替えてやる。お前まで若いのと替えたら、そいつにまた一から道を教えなきゃならんだろ。面倒だからそのままでいい」
「人の扱いが馬より雑じゃないか?」
「お前は自分で飯を食えるからな」
賀蘭真は笑いながら新しい馬を用意させに向かった。
田朔は丘の上に残り、北の後秦軍を眺めた。朝まで正面にいた第1陣はすでになく、その陣も兵糧も武器も田家軍が押さえている。代わって現れた第2陣は、敗残兵を受け入れながら慎重に陣を作り、こちらの動きを探っていた。
長安は田朔を止めるために軍を送り、その最初の1軍は合流するはずだった味方を待つこともできずに敗れた。それでも新たな軍勢が目の前にいる以上、戦はまだ半分しか終わっていない。
田朔は丘を下りると、各隊へ夕食を取らせ、夜番を決めて休むよう命じた。
「今日は勝った。明日も勝てばいい。腹いっぱい食って寝ろ」
段烈も今度は軽口を返さず、自分の隊へ戻っていった。
日が沈む頃には、田家軍の陣にも後秦軍の陣にも火が並んだ。北からは時折軍鼓の音が届き、夕闇の向こうには第2陣の旗がまだ見えている。
田朔はその旗を見届けてから、自分の天幕へ戻った。
次は、今日の敗北を知っている後秦軍が相手である。




