第9話(前編)――「長安が兵を出す」
387年3月上旬。
賀蘭真が北から戻ってきたのは、日が暮れてしばらく経ってからだった。
田朔たちは夕食を終え、翌日からさらに北へ斥候を出す相談をしていた。そこへ城門から早馬が入ったとの知らせが届き、間もなく賀蘭真が土埃をかぶった姿で部屋へ入ってきた。いつものように軽口を叩くこともなく、田朔が空けた卓へ地図を広げると、北へ続く街道の上に木札を置いた。
「今までの連中とは違う。北からまとまった軍が下りてきてる。旗は部隊ごとに揃ってるし、歩兵の前後には騎兵がいる。荷駄まで連れてるから、近所の城主が慌てて兵を集めたような軍じゃないぞ」
段烈が酒杯を置き、身を乗り出した。
「ようやく大物が来たか。それで、どこまで見た?」
「朝に見つけた時は先頭しか見えなかったから、部下を東西へ回して後ろまで調べさせた。昼を過ぎても兵が続いて、夕方になってようやく荷駄の後ろまで見えた。村では食糧を集めて馬に水を飲ませていたが、手当たり次第に奪ってる様子はない。動きも揃ってる」
賀蘭真は説明しながら、街道沿いへさらに2枚の木札を置いた。趙嶽はその位置を確かめると、騎兵の馬具や兵の装備について尋ねた。
「そこも見てきた。騎兵は先頭だけじゃなく後ろにもいる。弓を持った兵も多かったし、旗も揃っていた。俺が関中へ入ってから見た中じゃ、一番まともな軍だ」
趙嶽はしばらく木札の並びを見ていたが、やがて田朔へ顔を向けた。
「後秦と見てよいでしょう。少なくとも、この辺りの豪族が勝手に集められる軍ではありません。長安側から動いてきた可能性が高い」
2月まで田家軍が戦ってきた相手は、関中南部に残る城兵や周辺勢力が中心だった。勝てば降伏兵を吸収し、城と倉を押さえ、その戦果を足場にして北へ進んできたが、今度は長安側からまとまった軍勢が南下してきたのである。
段烈は杯に残っていた酒を飲み干し、むしろ楽しそうに笑った。
「この前は使者を寄越して、一緒にやろうって話だった。それが今度は兵とは、ずいぶん気が短い連中だな。まあ、向こうからすれば官職までちらつかせたのに、返事の代わりに城を取られたんだから腹も立つか」
「俺たちが返事もせず北へ進んでるんだ。いつまでも酒を持った使者だけ寄越すわけにもいかんだろ」
田朔がそう返すと、陸文昭は賀蘭真が置いた木札の北側へ指を滑らせた。
「長安へ戻った使者の報告を受けて動いたのでしょう。ただし、軍を出した目的まではまだ分かりません。田家軍を討つつもりなのか、北への進出を止めたいだけなのか、それによって向こうの動きも変わります。まずは後方と周囲まで調べるべきでしょうな」
田朔も同意し、賀蘭真には今夜しっかり休んだ上で、翌朝もう一度北へ出るよう命じた。今度は敵本隊へ近づくより、その後方に別の軍が続いていないか、周辺のどの城と連絡しているかを調べさせる。姚虎には西側から回らせることにすると、賀蘭真は自分が東の丘伝いに進むと言い、その場で2人の担当を決めた。
話が終わってようやく腰を下ろした賀蘭真は、卓に残っていた餅を取った。
「明日はちゃんと食ってから出る。前みたいに餅を持って走りながら食うのはやめだ」
「3月になって少し賢くなったな。これなら年末には人並みになってるかもしれん」
「お前にだけは言われたくない。字を覚えるのに何年かかったと思ってる」
「そこを出すなよ」
段烈が吹き出し、趙嶽も口元を緩めた。長安から軍勢が近づいていると分かっても、相手の正体を掴んでしまえば、軍議の空気はむしろ落ち着いていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、城門が開くと同時に賀蘭真と姚虎の騎兵が別々の方角へ出ていった。賀蘭真は東へ大きく回り、姚虎は西の村道から北へ向かう。街道そのものには近づかず、高所から敵軍の動きを見ながら、その後方と周辺の道まで探る手筈である。
田朔は2人を送り出しても兵を城外へ出さず、段烈と馮岳にはいつでも動けるよう支度だけ整えさせた。敵が来たというだけで飛び出せば、こちらから相手の望む戦場へ入ることになる。まず周囲を調べ、敵が何を連れてきたのかを知ってから動けばよかった。
昼前に届いた最初の報告では、敵の先頭は前日より南へ進んでいたものの、行軍を急いではいなかった。街道沿いの村で水と食糧を集めながら一定の速さを保ち、先行する騎兵には周辺の集落や道を調べさせている。午後には姚虎の部下も戻り、西側に大きな別働隊がいないことと、近くの城から敵本隊へ食糧を運ぶ荷車が出ていることを知らせた。
夕方になると賀蘭真自身が戻り、新しい木札を地図へ置いた。
「今日は後ろまで見た。荷駄の後ろには護衛がいるが、そのまま続いてくる別の本隊は見つからなかった。ただ、北へ戻る騎兵が何度か出てるから、どこかと連絡は取ってる。それと昼頃から、こっちを探る騎兵も増えた。丘の上で何度か鉢合わせしそうになったから、姿だけ見せて引いてきた」
敵の後方に大軍はなく、東西にも大きな別働隊は見つかっていない。周辺の城から食糧を集めているところを見ると、この一帯へ腰を据える準備は始めているものの、まだ田家軍の前で十分な陣を築いたわけでもなかった。
段烈は地図を覗き込みながら鼻を鳴らした。
「わざわざ長安の方からここまで歩いてきたんだ。俺たちを秦嶺まで送り返してくれるつもりかもしれんな。ずいぶん親切じゃないか」
「悪いが、俺たちは北へ行く。道を空けてくれるなら礼くらい言ってやるよ」
「空けなかったら?」
「その時は段烈、お前の仕事だろ」
「それなら話が早い」
段烈が笑う横で、陸文昭も地図を見ながら口元を緩めた。
「先方が道を譲るとは思えませんから、段将軍の出番はありそうですな」
趙嶽は冗談には加わらず、これまで賀蘭真たちが調べた周辺の道や地形と、敵軍の現在地を見比べていた。
「向こうは田家軍より先にこの一帯を押さえ、南への道を固めたいのでしょう。こちらが城に籠もれば、その間に周辺から兵と食糧を集められます。今ならまだ敵の後ろに大軍はおらず、東西にも別働隊は見つかっていません。野戦へ出るなら、今の方がよいと思います」
田朔にも異論はなかった。そこで翌朝の出陣を決め、段烈を西、馮岳を東へ進ませ、自分は趙嶽と中央を率いることにした。賀蘭真と姚虎には夜間も交代で敵を見張らせ、敵が移動した場合にはその報告を受けて配置を変える。
段烈は待ちかねたように肩を回した。
「関中へ来てから城兵ばかり相手にしてきたが、ようやく長安の軍と戦えるわけだ。少しは歯応えがあるといいな」
「相手が誰だろうが、お前は戦えればいいんだろ」
趙嶽が呆れたように言うと、段烈は笑って認めた。
「お前も俺の扱いが分かってきたじゃないか。最初の頃よりずっと話が早くなった」
「分かりやすいだけです」
2人のやり取りを横で聞いていた馮岳は、東側の道を指でなぞった。
「私はここから回ります。敵が退いても中央より先へは出ません。追撃が必要なら合図を待ちます」
馮岳には、かつて敵の偽りの退却を追って80人以上を失った経験がある。田家へ加わってから勝利を重ねても、その失敗まで忘れたわけではなかった。
「それでいい。まず目の前の軍を崩す。逃げた先は賀蘭真たちに見させればいい。お前は東を任せた」
馮岳が頷き、それぞれが翌朝の準備へ散った。
◇ ◇ ◇
翌朝、田家軍は城を出た。先頭では賀蘭真と姚虎の騎兵が周囲を探り、その後ろを田朔と趙嶽の中央軍が進む。途中から段烈が西、馮岳が東へ分かれ、敵軍を三方から見られる位置を目指した。
馬上の田朔が振り返ると、街道には長い兵列が続いていた。秦嶺を越えたばかりの頃より明らかに人数が増えており、漢中から連れてきた兵だけでなく、関中で降った者、前秦の旧兵として加わった者、田家の旗を頼って自ら来た者までいる。趙嶽たちが隊を組み直したことで、今では出身の違う兵が同じ隊列の中を歩いていた。
西へ分かれる前の段烈も同じものを見ていたらしく、馬を寄せて後ろを振り返った。
「南鄭を出た頃なら、ここから荷車まで見えたんだがな。今じゃ最後がどこにいるのか分からん。俺たちの軍も長くなったもんだ」
「お前の腹も一緒に大きくなってないか?」
「珍しくいい話をしてやったのに、返す言葉がそれか。戦が終わったら酒を奢らせるから覚えてろよ」
「勝ったら考えてやる」
段烈は笑いながら手を上げ、そのまま西へ馬を走らせていった。
昼を過ぎた頃、先行する賀蘭真から、敵軍が街道の先にある低い丘の周辺で進軍を止めたとの報告が届いた。田家軍が城を出たことも知られており、敵の騎兵が何度も南へ出てこちらの動きを探っているという。
田朔は敵までまだ距離があるうちに兵へ食事と水を取らせ、十分に休ませてから進軍を再開した。その間にも姚虎から西側に敵の大部隊はいないとの知らせが届き、賀蘭真からも東の道に大きな動きはないと伝えられた。
夕方近くになって丘へ上がると、田朔にも敵軍の全容が見えた。
低い丘の向こうにいくつもの旗が並び、その下では歩兵が隊列を作っている。左右には騎兵、後方には荷車が置かれ、田家軍の旗が見えても慌てて動き回る者はいない。今まで戦ってきた周辺勢力とは、兵の立ち方から違っていた。
趙嶽はしばらく敵陣を眺めた後、確信を持って告げた。
「間違いありません。後秦軍です。こちらを待っていたのでしょうが、向こうも田家軍の兵数と配置を見ています。今から無理に仕掛けてくることはないと思います」
「なら今日はこっちも動かない。段烈と馮岳を予定の位置まで進めたら兵を休ませろ。賀蘭真と姚虎には交代で敵の後ろまで見てもらう。明日の朝までに分かるだけ分かればいい」
田朔は敵から見える場所に田家の旗を立てさせ、その後ろへ中央軍を置いた。相手が後秦軍だと分かった以上、こちらも姿を隠す必要はない。敵が田家軍を見ているのと同じように、田朔も相手を一晩かけて調べるつもりだった。
◇ ◇ ◇
日が落ちてからも斥候の往来は続き、敵本隊が丘の北側で宿営に入ったことや、騎兵を周囲へ出していることが次々と伝えられた。東西には依然として大きな軍は見つからず、後方の街道にも新しい本隊は確認されていない。
田朔は焚き火のそばで夕食を取りながら、届いた報告を地図の上へ重ねていった。段烈と馮岳も予定の位置へ入り、翌朝には中央と歩調を合わせて動ける。趙嶽が各隊の配置を確認しに出ると、陸文昭が田朔の向かいへ座った。
「長安も、いよいよ田様を放っておけなくなりましたな。使者で味方にできなければ、今度は軍を出して止める。分かりやすい話になってきました」
「向こうから来てくれたなら、こっちは探しに行く手間が省ける。わざわざ長安の兵が歩いてきてくれたんだ。追い返されるわけにはいかんな」
「その言い方を敵将には聞かせない方がよろしいでしょう」
「明日、顔を合わせても教えてやらんよ」
陸文昭が笑ったところで、外から馬の音が近づいた。
間もなく賀蘭真が夜露に濡れた上着のまま天幕へ入り、敵本隊よりさらに北へ新しい木札を置いた。その顔を見て、田朔は食事の手を止めた。
「夕方まで見えなかった連中がいる。日が落ちてから北の街道に火が増えたんで、最初は村かと思った。部下を回して確かめたら、兵が南へ動いてた。全部はまだ見えてないから何人いるかは分からんが、目の前の軍の荷駄や護衛じゃない。別の旗もあった」
陸文昭も地図へ身を寄せた。昼間に見た後秦本隊と、新たに見つかった軍との間にはまだ距離があるものの、そのまま南下を続ければ、やがて合流することになる。
田朔は賀蘭真が残してきた斥候との連絡を絶やさず、第2陣の位置と進む速さを明け方まで調べるよう命じた。
「無理に近づいて数まで数えなくていい。今夜どこまで来るのか、途中で止まるのか、それだけは見失わないでくれ。目の前の軍と合流する時刻が分かれば、こっちの動きも決められる」
「部下を残してあるから、俺も少し食ったら戻る。今度は餅1枚で済ませないから安心しろ」
「やっと分かったか。腹を減らして落馬されたら、敵より先に俺が困る」
「戦の前まで人の飯を気にする奴も珍しいぞ」
「昔から腹が減るのだけは嫌いなんだよ」
賀蘭真は呆れながらも椀を受け取り、急いで食事を始めた。
田朔はその横で、もう一度地図へ目を落とした。
南には自分たちが越えてきた秦嶺があり、北には後秦の本隊、そのさらに後方から別の軍が近づいている。このまま待てば2つの軍は合流するが、まだ距離がある。
逃げる理由はなかった。
明日の朝までに第2陣の動きを掴み、合流する前に目の前の後秦軍を叩けばよい。
387年3月上旬、田家軍と後秦軍は互いの旗が見えるところまで近づき、その北ではもう1つの軍勢が南へ向かっていた。




