第8話(前編)――「長安から使者が来る」
387年2月上旬。
関中へ出てから、田朔の朝は早くなった。
まだ空が白み始めたばかりだというのに、城外では賀蘭真の騎兵が戻ってきている。泥の跳ねた馬を降りた兵から木札を受け取った賀蘭真は、そのまま城内へ入り、郡府として使っている建物へ向かった。
田朔はすでに起きていた。
卓上には関中の地図が広げられ、その周囲へ何枚もの木札が並べられている。城を1つ取るたびに地図の上で知っている道が増え、以前は長安と秦嶺くらいしか分からなかった関中が、少しずつ形を持ち始めていた。
賀蘭真は入ってくるなり、北へ延びる街道の脇へ木札を置いた。
「昨日見た兵は、この辺りから動いていない。街道を塞ぐほどの数じゃないし、北から援軍が下りてくる様子もなかった。姚虎は西へ回っているから、昼までには戻る」
田朔は木札の位置を確かめた。
「東は?」
「村を3つ見た。兵はいない。商人の荷車は通っている」
「なら街道は生きてるな。今日はもう少し北まで見てくれ。兵だけじゃなく、馬を替えられる場所と水場も頼む」
「任せろ」
賀蘭真は朝飯も食わずに出ていこうとした。
「食ってから行け」
田朔が呼び止めると、賀蘭真は振り返った。
「戻ってから食う」
「馬より先にお前が潰れたら困るんだよ」
「じゃあ餅を持っていく」
「最初からそうしろ」
賀蘭真は笑って部屋を出ていった。
関中へ入ってからも、田朔は斥候を止めていない。
城を取ったから、その先が安全になるわけではない。賀蘭真と姚虎は毎日のように騎兵を連れて走り、北へ向かう街道だけでなく、東西の村や渡河できる場所まで調べていた。
田朔自身も、報告を聞いて終わりにはしなかった。地図の上へ情報を書き足し、趙嶽や地元の者が知っている道と照らし合わせる。食い違えば翌日もう一度見に行かせた。
その積み重ねによって、田家軍が動ける範囲は少しずつ北へ広がっていた。
昼前、城門から早馬が入った。
知らせを受けた田朔が郡府へ戻ると、段烈が先に来ていた。
「客だぞ」
「誰だ」
「長安からだ」
田朔の足が止まった。
段烈は嬉しそうだった。
「ようやく向こうから来やがった」
◇ ◇ ◇
使者は1人ではなかった。
従者と護衛を連れ、後秦の使者であることを示して堂々と城門を通ってきた。
田朔はすぐには会わなかった。
長旅をしてきた客として食事と部屋を用意させ、その間に陸文昭と趙嶽を呼んだ。
趙嶽は使者の一行を遠目に見てから部屋へ入ってきた。
「長安から来た者で間違いないでしょう。護衛の装備も、こちらの田舎豪族が揃えられるものではありません」
陸文昭は使者が持参した書状へ目を通していた。
「喧嘩を売りに来た文章ではありません。田様を漢中の主として扱っています」
「秦嶺を越える前なら、そんな扱いはしなかっただろうな」
田朔が笑うと、段烈が横から口を挟んだ。
「城を取るたびに偉くなるなら、あと10個くらい取っておけ。長安へ着く頃には皇帝扱いされるぞ」
「お前は黙ってろ」
「俺だけ扱いが変わらんな」
段烈が不満そうな顔をしたので、趙嶽が吹き出した。
田朔も笑ったが、すぐに書状へ視線を戻した。
長安から使者が来た。
それ自体が重要だった。
姚萇が田朔個人の名を知っているかどうかは分からない。しかし少なくとも後秦の誰かが、秦嶺の南から現れた軍勢を調べ、使者を送るだけの価値があると判断したのである。
「待たせるのも悪い。会おう」
田朔が立ち上がった。
◇ ◇ ◇
使者は40歳ほどの男だった。
身なりは整っており、腰を下ろしてからも室内を無遠慮に見回すことはない。
田朔が席につくと、男は丁寧に礼をした。
「漢中を治める田殿にお目にかかれたこと、嬉しく存じます」
「わざわざ長安から来たんだ。堅い挨拶は抜きにしよう。酒も飯も用意した。話を聞かせてくれ」
使者はわずかに笑った。
「では、お言葉に甘えましょう。田殿が漢中から兵を率いて秦嶺を越え、すでに関中で幾つかの城を手中にされたことは、長安にも届いております」
「早いな」
「関中で軍勢を動かせば、隠し通せるものではございません」
使者の口調は穏やかだった。
だが、田朔は相手が何を見ているのか分かっていた。
自分の年齢、周囲の将、城内の兵、出される食事、役人たちの動き。話をしに来ただけではない。田家軍がどれほどの勢力なのか、自分の目でも確かめに来ている。
それならこちらも同じことをすればよい。
酒が運ばれてきた。
使者は杯へ口をつけてから本題に入った。
「長安では、田殿の働きを高く評価する者がおります。漢中をまとめただけでなく、山を越えて関中へ兵を進められた。これほどの働きができる方ならば、相応の地位をもって遇するべきであろう、と」
田朔は笑った。
「ずいぶん褒めるな。俺に何をさせたい?」
使者は表情を崩さなかった。
「田殿ほどの兵を持つ方が、いつまでも独りで戦う必要はございません。朝廷へ忠節を示していただけるなら、これまで得られた土地についても、悪いようにはならないでしょう」
田朔は杯を置いた。
「俺が自分で取った土地を、俺にくれるのか?」
段烈が横で酒を噴きそうになった。
使者の眉がわずかに動いた。
「田殿」
「怒るなよ。長安の言い分も分かる。俺みたいなのが勝手に城を取って北へ上がってきたら、何者だと思うのが普通だ」
使者はしばらく田朔を見ていたが、やがて口元を緩めた。
「田殿は、聞いていたより話しやすい方です」
「誰から何を聞いた?」
「商人はどこへでも参ります」
「それなら、俺が元商人なのも知ってるな」
「もちろん」
「だったら話が早い。商人に、品物を見ないで買えと言っても無理だ」
使者の笑みが消えた。
田朔は酒を注がせながら、そのまま話を続けた。
「長安が俺に何をしてほしいのか。従えば何を任せるのか。それと、俺の北にいる連中を長安がどうするつもりなのか。その辺りが分からないうちから返事はできん。俺は字を覚えるのは遅かったが、証文に名前を書く前には中身を読む癖がある」
陸文昭は何も言わなかった。
使者も即答しなかった。
その沈黙だけで十分だった。
後秦は田朔を取り込みたい。
だが、まだ田朔へ大軍を差し向けて従わせるほどには、この男を危険視していない。
ならば急いで頭を下げる理由はなかった。
「今日は飲もう。返事は帰るまでにする」
田朔が杯を上げると、使者も今度は素直に杯を取った。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は陸文昭、段烈、趙嶽と同じ卓を囲んだ。
昼間の使者は別室で休ませている。
陸文昭は長安から持ち込まれた書状をもう一度広げた。
「すぐに返事を求めなかったところを見ると、向こうも田様の出方を見たいのでしょう」
趙嶽は書状ではなく地図を見ていた。
「長安が本気でこちらを討つつもりなら、使者より先に兵が来ます。今は他へ回したい兵まで田家へ向ける気はないのでしょう」
「なら、その間に増やすだけだな」
段烈が言った。
「俺はそっちの方が分かりやすい。長安の役人と酒を飲むより、城を取る方が性に合う」
「誰もお前に使者の相手をしろとは言ってない」
「昼からずっと横に座らされてたぞ」
「酒を飲んでただけじゃねえか」
「大事な役目だ」
趙嶽がまた笑った。
陸文昭は2人を放っておき、地図の北側へ指を置いた。
「後秦が動かないうちに、こちらはこの辺りまで調べておくべきです。賀蘭真たちの報告が揃えば、兵を進められる場所も増えます」
「そうしてくれ。長安の返事はその後だ」
田朔がそう言ったところで、廊下から足音が近づいた。
戸口に兵が現れた。
「田様。南西の街道から使者が参りました」
「またか?」
段烈が先に反応した。
兵は頷いた。
「前秦の者と名乗っております」
部屋の空気が変わった。
田朔は一瞬黙った後、段烈を見た。
段烈は堪えきれずに笑っている。
「お前、人気者だな」
「笑ってる場合か」
「長安から客が来た日に、今度は前秦だぞ。次は誰が来るんだ?」
陸文昭はすでに書状を片づけ始めていた。
「会いましょう。これほど都合よく両方から来てくれたのです。追い返す理由がありません」
田朔も立ち上がった。
「長安の客とは別の部屋へ入れろ。飯と酒を出してやれ。今夜は休ませて、明日会う」
兵が出ていった。
田朔は地図へ戻り、長安と前秦残存勢力の間にある土地を眺めた。
2年前、この関中から逃げ出した時には、誰も田朔の名前など知らなかった。
いまは違う。
秦嶺を越えてまだそれほど日も経っていないのに、長安からも、その敵からも使者が来た。
段烈が隣へ来た。
「それで、どっちにつく?」
田朔は地図から顔を上げた。
「なんで選ばなきゃならん」
段烈の笑いが止まった。
田朔は長安から届いた書状と、いま運び込まれたばかりの前秦の書状を見比べた。
「俺は誰かの将になるために秦嶺を越えたんじゃない」
陸文昭の口元に笑みが浮かんだ。
その夜、田家軍の城には2組の使者が泊まった。
互いが同じ城にいることを、まだ知らなかった。




