第7話(後編)――「関中を震わせる」
(387年1月下旬、関中)
夜半を過ぎた頃、賀蘭真が城へ戻った。
服にも馬にも泥がついていた。途中で馬を替えながら北方を走り、先に出していた斥候と合流して敵軍の動きを確かめてきたのである。
田朔は役所の一室に段烈、馮岳、趙嶽、姚虎を集め、灯火の下に地図を広げた。
賀蘭真が見てきた敵軍はすでに南下を始めていた。歩兵を中心に騎兵を伴い、後方には荷駄が続いている。別の斥候を東西へ回して周辺も調べたが、近くにもう一軍が続いている様子はなく、進路も田家軍が確保した城へ向かう街道と見てよかった。
「敵の斥候も前へ出ています。こちらの斥候とは何度か互いに姿を見ていますから、田家軍が城にいることは向こうも承知しているでしょう」
田朔は地図上の敵軍と自軍の位置を確かめた。
「夜明けに出る。段烈は左、馮岳は右、趙嶽は俺と中央だ。賀蘭真と姚虎は先へ出て、敵の左右と後ろを見続けてくれ。別の軍が近づけば、戦が始まっていても知らせろ」
段烈は城外へ向かう道を見て笑った。
「向こうから来るなら、城で待ってもいいんだぞ」
「それじゃ、せっかく来た客に失礼だろ」
「分かった。迎えに行こう」
諸将が持ち場へ戻り、城内では夜のうちに出陣の支度が始まった。賀蘭真には食事を取らせ、先行している斥候との連絡は姚虎が引き継いだ。
◇ ◇ ◇
夜明け前、田家軍は城門を出た。
空が白み始める頃には、田朔の中央軍を挟んで段烈と馮岳の軍も街道を北へ進んでいた。さらに前方では賀蘭真と姚虎の騎兵が広く散り、田家軍と敵軍の間を往復しながら情報を送り続けている。
朝になって最初の報告が届いた。
敵は予定どおり南下しており、こちらが城を出たことにも気づいている。だが進軍を止める様子はなく、騎兵を街道の左右へ出しながら近づいていた。
田朔も進軍を続けた。
昼前になると、街道の先に敵軍の旗が見え始めた。歩兵の列が横へ広がり、その左右には騎兵がいる。敵も田家軍を認めると前進を止め、戦列を整え始めた。
田朔は弓の届かない距離で兵を止め、食事と水を取らせた。その間にも賀蘭真と姚虎の斥候は走り続け、敵の東西に大きな別働隊はなく、北から別の軍勢も近づいていないことを確かめて戻ってきた。
田朔は最後の報告まで聞いてから馬へ乗った。
「段烈は左、馮岳は右から進め。俺と趙嶽が中央を押す。左右は中央から離れすぎるな」
太鼓が鳴り、三軍が前進した。
敵も歩兵を中央へ出し、騎兵を左右へ広げる。田朔は中央軍の前方に自分の旗を置き、その近くを馬で進んだ。
両軍の距離が縮まると矢が飛び始め、やがて趙嶽の歩兵と敵の中央が正面からぶつかった。盾と槍が押し合う間にも、段烈と馮岳の軍は左右から距離を詰めていく。
敵は中央を破ろうと兵を寄せ始めた。
趙嶽の前では敵兵が厚くなったが、その分だけ左右の戦列が伸びている。田朔は敵の旗と兵の流れを見ながら、右の馮岳へ伝令を走らせた。
「前へ出ろと伝えろ。段烈はまだ今の位置を保たせる」
馮岳の軍が前へ出ると、敵は中央に集めた兵の一部を右へ戻そうとした。
その頃、敵騎兵も馮岳の側面へ回ろうとしていたが、外側を走っていた姚虎が進路へ入り、簡単には近づかせなかった。
敵が右へ兵を動かすのを見届けた田朔は、今度は段烈にも前進を命じた。
左右から圧力を受けた敵軍では、中央と両翼の間を兵が行き来するようになった。田朔はすぐには本隊を動かさず、趙嶽の兵に正面を支えさせながら、その動きを見続けた。
やがて敵中央から右へ、まとまった兵が移動し始めた。
田朔は刀を抜いた。
「趙嶽、中央を押すぞ」
「承知!」
中央軍の太鼓が激しく鳴った。
趙嶽の歩兵が一斉に踏み込み、田朔も馬を進めた。大将の旗が前列へ近づくのを見た兵たちが声を上げ、その声に押されるように後続も前へ出る。
正面で耐えていた敵兵が後退し、その後ろの隊列へぶつかった。田家軍は間を空けずに押し込み、崩れた場所へさらに兵を入れていく。
敵は旗を動かして立て直そうとしたが、右では馮岳、左では段烈がすでに攻勢へ移っていた。中央へ兵を戻そうにも左右を空けられず、後退する兵と前へ出ようとする兵が入り交じって隊列が乱れていく。
「止まるな。前へ押せ!」
田朔が中央軍をさらに進ませると、敵の後方では荷駄を動かそうとする者が現れ、騎兵の一部も北へ向きを変えた。
外側を見ていた賀蘭真が騎兵を動かし、敵本隊の側面へ回った。北へ逃げる者を遠くまで追うのではなく、崩れ始めた本隊が街道へまとまって退くのを妨げる。
段烈の正面でも敵兵が下がり始め、馮岳の前では武器を捨てる者が現れた。
田朔は追撃に出す兵と、降伏した者を集める兵を分けた。
「遠くまで追うな! まだ旗の下にいる敵を崩せ!」
命令が各隊へ伝わり、田家軍はまとまった敵を優先して押した。やがて敵の旗が次々と倒れ、周囲では槍や剣を地面へ置く兵が増えていった。
午後には抵抗する部隊もわずかとなり、田朔は追撃を打ち切らせた。
◇ ◇ ◇
敵が残した陣には、荷車と兵糧、武器や矢が残されていた。
趙嶽が降伏兵をまとめる一方、段烈と馮岳は周囲へ兵を出し、逃げた敵が近くで再び集まらないよう警戒している。
賀蘭真も戻り、敗兵が何組にも分かれて北へ逃げたことを報告した。さらに先には斥候を残しているが、新たな軍勢は見えていない。
田朔は敵陣をそのまま利用することにした。
「今日はここで休む。兵には敵の兵糧も使って食わせてくれ。賀蘭真と姚虎も斥候を交代させたら寝ろ」
段烈が荷車の中を覗き、袋を一つ叩いた。
「山を越えてから、食う物まで敵に運ばせるようになったな」
「置いていった奴が悪い」
「そういうところは昔から変わらんな」
「兵糧を見て喜ばなくなったら、俺じゃないだろ」
近くにいた趙嶽が吹き出し、段烈も声を上げて笑った。
田朔も笑いながら、兵たちが火を起こし始めた陣を見た。
昼まで敵軍が並んでいた場所で、その夜は田家軍の兵が飯を食った。
◇ ◇ ◇
翌日、最初に訪れたのは近隣の集落からの使者だった。
田家軍に敵対する意思はないと申し出る者が続き、食糧を持ってくる村も現れた。前秦の旧兵もまとまって訪れるようになり、趙嶽が経歴と腕を確かめると、実戦を経験した者だけでなく、兵を率いた経験を持つ者まで混じっていた。
数日後には、別の城から使者がやって来た。
使者は田朔の前で頭を下げ、城門を開いて田家軍を受け入れると申し出た。
田朔は兵の武器をまとめて管理することと、城内で田家軍に抵抗しないことを確かめた上で降伏を受け入れ、馮岳に兵を預けて向かわせた。
翌日、馮岳から城を受け取ったとの知らせが届いた。
さらに別の集落からも使者が続いた。
関所を奪われても様子を見ていた者たちが、城の陥落と今回の野戦を知って動き始めたのである。田朔のもとには兵だけでなく、周辺の道や城についての情報も集まるようになった。
賀蘭真と姚虎が持ち帰った情報に、前秦の旧兵や商人から聞いた話が加わり、役所に広げられた地図には新しい書き込みが増えていった。
南には秦嶺があり、その向こうには漢中と南鄭がある。
田家軍の旗は、そこから関所を越えて関中へ入り、北へ伸び始めていた。
◇ ◇ ◇
1月の終わり、田朔は諸将を集めた。
広間の中央には関中の地図が広げられ、段烈と馮岳が新たに確保した土地の守りを報告した。趙嶽のもとには前秦の旧兵が集まり続けており、経験のある者から順に組み直しと訓練を始めている。
賀蘭真と姚虎が調べた街道も、以前より北へ延びていた。
田朔は2人が書き加えた道をたどり、その先へ目を移した。
長安がある。
「2月はここから先を調べる。賀蘭真と姚虎は長安へ続く街道を見てくれ。途中の城と兵の動き、それから兵糧が集まる場所も知りたい。趙嶽は前秦の兵を引き続き見てくれ。段烈と馮岳は、いつでも出られるよう兵を整えておいてくれ」
それぞれが命令を受け、広間を出ていった。
田朔は南鄭へ戻る使者を呼び、父の田順への書状を渡した。
「父上には、また勝ったと伝えてくれ。関中で俺たちの城も増えたとな。玉容たちには元気にしていると伝えてくれればいい」
使者が頭を下げると、田朔は少し考えてから呼び止めた。
「それと、まだ南鄭にいてくれと伝えてくれ」
長安を取れば、今度は自分が家族を迎える。
それまでは南鄭にいてもらう方がよかった。
使者を送り出した田朔は城壁へ上がった。
冬の関中を貫く街道を、賀蘭真の騎兵が北へ走っている。反対側からは荷車が城へ入り、その後ろには田家軍へ加わるために来た兵たちの姿も見えた。
田朔は北へ目を向けた。
長安の城壁はまだ見えない。
だが、そこへ続く街道には、もう田朔の斥候が走っていた。
「待ってろよ、長安」
2年前に逃げ出した男は、今度は軍勢を率いて北から迎えに行くつもりだった。
387年1月が終わった。




