↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第四章――「乱世を喰らう」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
106/143

第6話(前編)――「秦嶺を越えろ」

 386年12月上旬。


 漢中北部、秦嶺の南麓。


 田朔は馬上から、雪の残る山々を見上げていた。目の前には関中へ抜ける街道があり、その先には敵の守る関所がある。田家軍が北へ進んでいることはすでに知られており、関所では数日前から警戒が強まっていた。


 田朔はそれを隠そうとはしなかった。むしろ街道沿いに田家の旗を立て、荷車を次々と北へ運ばせ、段烈の兵も敵の斥候から見える場所へ進ませていた。


 隣にいた賀蘭真が山を指した。


「昨日、最後まで確かめました。あの谷から入って尾根を2つ越えれば北側へ抜けられます。荷車は通せませんが、人と馬なら進めます。途中の水場も2か所とも使えました」


 この数週間、賀蘭真と姚虎は秦嶺を走り続けていた。街道や関所だけでなく、山村へ通じる道、猟師が使う細道、水場、馬を休ませられる場所まで調べている。その報告の中から田朔が選んだのが、軍道として使われたことのない細い山道だった。


 田朔は山から目を離さず、兵糧は3日分だけを兵と馬に分けて持たせ、鍋などの余計な荷物を減らすよう命じた。馮岳は険しい山を見上げてから、本当に主力を入れるつもりなのか確かめた。


「入れる。俺も行く」


「では、私も参ります」


「お前には後ろを任せる。途中で隊列を詰まらせるなよ」


 馮岳が承知すると、田朔は馬首を返した。


 街道ではさらに荷車が北へ向かっていたが、その中には空のものもあれば、兵糧袋を積んだように見せただけのものもある。敵の斥候が遠くから田家の旗や荷車を数えていることも、賀蘭真の偵察で分かっていた。


 好きなだけ数えさせればよかった。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ、段烈が田朔の陣へやって来た。


 田朔は幕舎で地図を広げ、段烈が入ってくると、関所の南側を指した。


「明日の朝から、もっと派手に動いてくれ。旗を増やして兵も前へ出す。ただし、無理に攻める必要はない。向こうが南ばかり見るようにしてくれれば十分だ」


 段烈は地図の山側へ視線を移した。


「その間に、お前は主力を連れて山へ消えるわけか。俺が向こうの将なら、そんな所へ入った軍は追わんぞ」


「だからいいんだ。俺たちのことは南で待っていてもらおう」


 2人が笑ったところへ、幕舎の外から声がかかった。南鄭から来た伝令である。


 急報ではないというので中へ通すと、長旅の土をつけた若い兵が膝をつき、南鄭に異常はなく、玉容や玉蓮たちも郡府と屋敷を守っていることをまとめて報告した。そのうえで少し表情を緩めた。


「崔夫人から、もう一つ田様へお伝えするよう申しつかっております。お屋敷では、何人かの奥方に懐妊の兆しがあるとのことです」


 田朔は地図に置いていた手を止めた。


 横にいた段烈が顔をほころばせる。


「戦の最中に、ずいぶん景気のいい知らせが届いたな」


「うるさい」


 そう答えた田朔も笑っていた。


 誰が懐妊したのかまでは伝令も聞かされておらず、玉容がわざと名前を伏せたのかもしれない。田朔は伝令に食事を与えて十分に休ませるよう命じると、再び地図へ向き直った。


 長安から逃げた頃には、父の田順と生き延びるだけで精一杯だった。明日の飯をどうするかばかり考え、帰る場所も待っている家族もなかった。それが今では南鄭に妻たちがいて、さらに家族が増えようとしている。


「帰りたくなったか?」


 段烈がからかうと、田朔は関所の北側へ置いた木札を指で押さえた。


「逆だ。こんな所で止まっていられなくなった。今夜、予定どおり山へ入る。お前は明日の朝から関所の兵を全部南へ引きつけてくれ」


「任せろ。派手にやっておく」


 話を終えた田朔は幕舎の外へ出た。夕日に染まる秦嶺の向こうには、関中がある。


 ◇ ◇ ◇


 日が落ちる前から、田朔は主力を少しずつ陣から抜き始めた。一度に動かせば敵の斥候に気づかれるため、小隊ごとに時間をずらして山裾へ送り、賀蘭真の騎兵を先行させて要所ごとに案内役を残した。


 街道側には焚き火を残し、段烈の陣にも田家の旗が並んでいる。遠くから眺める限り、田家軍は今夜も関所の南で攻撃の準備を続けているように見える。


 暗くなるのを待って田朔も山へ入った。


 山道はすぐに細くなり、兵は横に並べなくなった。馬を下りなければ越えられない場所もあり、兵たちは凍った土を踏みしめながら、前を行く者の足跡を頼りに進んだ。田朔も途中で馬を下り、自分で手綱を引いて歩いた。


 後ろから追いついた趙嶽が、それを見て苦笑した。


「田様が転べば全軍が止まります。馬は兵に引かせてください」


「それは困るな。任せる」


 田朔が素直に手綱を渡すと、趙嶽は少し意外そうな顔をした。


「昔より聞き分けがよくなられましたな」


「俺だって少しは成長する」


 近くを歩いていた兵たちから笑いが漏れたが、それも長くは続かなかった。山道はさらに険しくなり、隊列は黙々と北へ進んでいった。


 夜半を過ぎた頃、先頭から賀蘭真の使者が戻ってきた。前方の水場までは異常がなく、人影も見つかっていない。賀蘭真自身はさらに先へ進み、北側へ抜ける道をもう一度確かめているという。


「分かった。このまま進む。賀蘭真が戻ったら、先の様子をまとめて報告させろ」


 田朔の命令が後方へ伝わり、長い隊列は止まることなく暗い秦嶺を登っていった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、関所の南では段烈が田家の旗を一斉に前へ出した。


 太鼓が鳴り、兵が動き、弓兵まで前進する。昨日より田家軍の旗が増え、街道には荷車も並んでいたため、関所を守る敵兵は田家軍がいよいよ正面攻撃を始めるものと見て、城壁と南門へ兵を集めた。


 その頃、田朔の主力はまだ秦嶺の山中を進んでいた。


 昼近くになって、先行していた賀蘭真が泥だらけの姿で戻ってきた。田朔の前まで来ると、ついに北側へ抜けたことを告げた。


「この先は下りです。麓に小さな村がありますが兵はいません。北へ続く道も見てきましたが、まとまった軍勢は見当たりませんでした」


 田朔は賀蘭真の報告を聞き終えると、周囲の兵を見渡した。夜通し歩き続けたため疲労の色は濃かったが、北側へ抜けたと知った兵たちの顔は明るい。


「ここまで来たんだ。山を下りるぞ」


 田朔が馬へ乗ると、長い隊列も再び動き始めた。歓声を上げる余力はなくとも、関中が目前にあると知った兵たちの足取りは、登ってきた時より明らかに軽かった。


 ◇ ◇ ◇


 午後、秦嶺北側の山裾で薪を背負って歩いていた男が、山道から現れた騎兵を見て足を止めた。


 1騎ではなかった。騎兵の後ろから歩兵が姿を現し、そのさらに後ろからも人馬が途切れることなく下りてくる。男は背負っていた薪を落とし、山から現れる軍勢を呆然と見つめた。


 先頭の賀蘭真は麓へ出ると、すぐに騎兵を周囲へ散らした。


 田朔は主力が山を下りきったところで兵を休ませ、賀蘭真を北へ、姚虎を西へ走らせた。敵の関所が背後にあるからといって、ここで急いで攻めるつもりはない。まず周辺に大部隊がいないことを確かめ、関所から北へ延びる道にも援軍が向かっていないことを調べさせた。


 夕刻前には騎兵が次々と戻り、周辺に敵の大軍はなく、北から南下する援軍も見つからないとの報告がそろった。


 田朔はそこで馮岳を呼んだ。


「兵に飯を食わせたら出る。今夜、俺たちは北から関所へ向かう。段烈には予定どおり南から攻めさせろ」


「朝まで待たれませんか」


「段烈をいつまでも待たせるのも悪いだろう」


 馮岳は田朔の顔を見て笑った。


「それなら急いで食わせましょう」


 命令が伝わると、休んでいた兵たちが動き始めた。食事を終えた者から武器を確かめ、馬には鞍が置かれていく。


 田朔は腰の剣を確かめながら、昼に聞いた南鄭からの知らせを思い出した。長安から逃げた時には父と2人だった自分にも、今では待っている家族があり、その家族はさらに増えようとしている。


 ここで足を止める理由はなかった。


「行くぞ。段烈が南から動いたら、俺たちは北から入る」


 伝令が山道へ向かって走り、田朔も馬へ乗った。


 やがて秦嶺の北側で田家軍の旗が開いた。


 関所を守る敵兵は南の段烈軍ばかりを警戒しており、山を越えた田朔の主力がすでに自分たちの背後へ回っていることを、まだ誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。