第4話(前編)――「払う相手を変える」
384年4月上旬。
長安城外では畑仕事が始まり、冬の間は家にこもっていた農家も朝早くから動くようになった。
田朔の商売も、1月の頃とは違っていた。
宿屋や飯屋を回って先に注文を取る。数量と値段を札に書き、相手の印をもらう。その後で城外へ戻り、必要な品を農家から集める。
1日に扱う品は多くない。
薪、炭、豆、卵、縄、干し肉など、父の田順が引く荷車に載る範囲だった。
それでも田朔を名前で呼ぶ客は増えた。
「田朔、明後日までに薪を20束頼む」
「値は前と同じか」
「同じでいい」
「なら札に印を押してくれ」
「またそれか」
「嫌ならほかへ頼め」
宿屋の主人が顔をしかめた。
「お前は注文を取りに来たのか、喧嘩を売りに来たのか」
「薪を売りに来た」
「だったら、もう少し客への口の利き方を考えろ」
田朔は何も言わなかった。
主人は苦笑しながら札へ印を押した。
「品は悪くないし、約束した日に持ってくるから買っているんだ。お前の口が気に入って買っているわけじゃないぞ」
「分かった」
「そこも『分かりました』くらい言え」
田朔は眉をひそめた。
「……分かりました」
「言えるじゃないか」
主人が笑った。
田朔は札を懐へ入れた。
それまで田朔は、相手が父親でも商人でも店の主人でも、ほとんど同じ調子で話していた。
城外で育ち、荷運びばかりしてきた田朔にとって、必要なことが通じればそれでよかった。
だが、自分で商売を始めると、それでは済まないことが増えていた。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は郭安の店へ行った。
字を習い始めてから、仕事が終わった夜にはできるだけ通っていた。
郭安は田朔が書いた注文札を見た。
「字はずいぶんましになった」
「もう少し難しい字も教えてくれ」
「その前に、お前には別に覚えることがある」
「何だ」
「今のそれだ」
「何が」
「口の利き方だ」
田朔は昼間の宿屋を思い出した。
「またそれか」
「また言われたのか」
「客に言われた」
郭安が笑った。
「当然だ。お前は18歳の荷運びの若造なのに、50歳の商人にも、役人にも、梁家の旦那にも同じ口を利く」
「言っていることが正しければいいだろう」
「よくない」
「なぜだ」
「お前が正しいかどうかを聞く前に、相手がお前を嫌うからだ」
田朔は黙った。
「商売では、相手に話を聞かせなければ始まらん。品が同じ、値も同じなら、感じの悪い若造より、礼儀を知っている男から買う者もいる」
「口の利き方で銭が変わるのか」
「変わる」
田朔の顔が変わった。
郭安はそれを見て笑った。
「やっと聞く気になったか」
「銭になるなら覚える」
「お前らしいな」
郭安は田朔へ、まず年長者や客に対する簡単な言い方を教えた。
頼む時。
断る時。
値を聞く時。
礼を言う時。
田朔は字と同じように、一度聞いた言葉をすぐ覚えた。
だが、実際に口へ出すとぎこちなかった。
「これは、いくらで……売っていただけますか」
「顔が怖い」
「顔は関係ないだろう」
「今、戻ったぞ」
「面倒だな」
「だからお前は駄目なんだ」
郭安は笑った。
「急に立派な商人の真似をする必要はない。まず、誰に向かって話しているのか考えろ」
「相手で変えるのか」
「当たり前だ。父親と役人へ同じ口を利く奴があるか」
「役人は嫌いだ」
「好き嫌いの話ではない。得をするか損をするかだ」
それなら田朔にも分かった。
「最初からそう言え」
「お前には、それが一番効くと思って今言った」
田朔は郭安を睨んだ。
「先生にも丁寧に話せ」
「金を払っている」
「帰れ」
「冗談です」
郭安が声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
商売が増えるほど、別の問題も大きくなっていた。
父の荷車1台では足りない。
朝、宿屋へ薪を届ければ、別の飯屋へ豆を運ぶ時間が遅れる。田順が本来受けていた荷運びの仕事もある。
田順が荷車を止めた。
「今日はここまでだ」
「あと炭が12束ある」
「明日だ」
「今日の約束だ」
「俺は朝から荷車を引いている」
「もう1軒だけ頼む」
田順が息子を見る。
「少し言い方が変わったな」
「うるさい」
「もう戻ったぞ」
「父さんにまで必要か」
「知らん。郭爺さんに聞け」
田朔は炭12束を見る。
届け先まではまだ遠い。
「運賃を5銭増やす」
「10銭」
「高い」
「なら明日だ」
「7銭」
「10銭」
「親子で値切るのか」
「商売だろう」
田順が笑った。
「そこは変わらんな」
結局、田朔は10銭余分に払った。
炭を届け終わった時には日が傾いていた。
空になった荷車を見ながら、田朔は自分の荷車が欲しいと思った。
だが、中古でも簡単に買える値ではない。
車体だけあっても、牛や馬を使うならさらに銭がいる。
人が引く小さな荷車なら安いが、父の物ほど荷を積めない。
今はまだ、父の荷車を借りるしかなかった。
◇ ◇ ◇
4月4日。
城外の道端に、見慣れない一家が休んでいた。
男は足を痛めている。妻と子供が荷物のそばに座り、脇には豆の袋が3つ置かれていた。
長安近郊の者には見えなかった。
田朔は通り過ぎかけて足を止めた。
「その豆は売るんですか」
自分の口から出た言葉に少し違和感があった。
男が顔を上げる。
「ああ。長安へ持っていけば売れると聞いた」
「どれくらいあります」
「1石半ほどだ」
郭安に教えられた通りに話していると、自分が別人になったような気がした。
「城内まで運べますか」
男は痛めた足を見る。
「何とかするつもりだ」
田朔は袋の口を開けた。
豆の状態は悪くない。
長安の相場も知っている。
「俺が買い取ります」
「買うのか」
「全部です」
男が警戒した。
「いくらだ」
田朔は長安で売れる値より低い金額を示した。
男が妻を見る。
「そんなものなのか」
「長安では豆が出回り始めています」
嘘ではない。
だが、田朔が示した金額でもなかった。
「城内まで運ぶ必要もありません。ここで全部引き取ります」
「もう少し高くならないか」
「それなら自分で長安へ運んだ方がいいです」
田朔は立ち上がった。
男は痛めた足を見た。
妻と少し話したあと、田朔を呼び止めた。
「分かった。その値で売る」
「ありがとうございます」
口に出してから、田朔はまた妙な気分になった。
男は字が読めなかった。
田朔は豆1石半を、その場で決めた値で買い取ったことを札へ書き、内容を説明した。
男は指へ墨をつけて札に押した。
田朔は豆を父の荷車へ積んだ。
長安へ向かって歩き出すと、田順が言った。
「ずいぶん丁寧になったな」
「郭安に習った」
「中身は前より悪くなったがな」
「何がだ」
「相場より安く買っただろう」
「向こうも納得した」
「本当の相場を知らないからな」
「俺は知っている」
「だから儲けるのか」
「そうだ」
田順は息子を見た。
「口だけ丁寧になって、中身はますます悪くなったな」
「それで商売がしやすいなら、その方がいい」
田順は呆れた顔をした。
豆はその日のうちに城内で売れた。
田朔が旅人へ払った額との差は、そのまま利益になった。
普段の委託販売よりずっと大きい。
夜、田朔は銭を数えた。
旅人が長安の相場を知っていれば、あの値では売らなかっただろう。
だが、田朔が奪ったわけではない。
男は値を聞き、自分で売ると決めた。
田朔は銭袋の口を閉じた。
それ以上考える必要はなかった。
◇ ◇ ◇
4月7日。
田朔は南門近くの店へ炭を届けた。
遠回りをすれば時間がかかるため、今回はそのまま南門近くを通った。
杜三の姿はない。
田朔は足を速めた。
「おい」
後ろから呼ばれた。
振り向くと、杜三ではなく曹五が立っていた。
門兵の手伝いをしている男だ。
「田朔だったな」
「そうだ」
「最近、杜三を避けているらしいな」
「殴られるのが好きな奴はいない」
曹五が笑った。
「口だけは元気だ」
「用は何だ」
「杜三が面白くないと言っている」
「俺には関係ない」
ここで丁寧な口を利く必要はない。
田朔はそう決めた。
曹五の笑顔が消えた。
「お前、誰と話しているか分かっているか」
「曹五」
「名前の話じゃない」
「門兵の手伝い」
曹五が田朔の胸ぐらをつかんだ。
「殴られたいのか」
田朔は抵抗しなかった。
「いくら欲しい」
曹五の手が止まった。
「何?」
「俺が長安で小商いをするたびに杜三へ10銭払うのは嫌だ。それなら、お前に直接払う」
曹五は田朔を離した。
「いくらだ」
「月20銭」
曹五が笑った。
「安い」
「杜三には1回10銭取られる。月に何度も払えば商売にならない」
「30銭」
「20」
「25」
田朔は曹五を見る。
「25でいい。その代わり、杜三には払わない」
「俺が止めるとは言っていない」
「なら払わない」
曹五の眉が動いた。
「生意気だな」
「殴るなら殴れ。その代わり銭は渡さない」
田朔は相手の顔を見る。
「俺から毎月25銭取るか、杜三に俺を殴らせて何も取らないか。好きな方を選べ」
曹五はしばらく黙っていた。
「毎月25だ」
「分かった」
「遅れたら杜三に任せる」
「それも分かった」
田朔は25銭を渡した。
曹五が懐へ入れる。
「今月分だ」
「杜三には話を通せ」
「俺に命令するな」
「25銭払ったんだ。そこはやってもらう」
曹五が田朔を睨んだ。
「お前、本当に口が悪いな」
「よく言われる」
「余計なことを喋るなよ」
「誰にも言わない」
曹五は城門へ戻った。
田朔は後ろ姿を見送った。
杜三へ毎回取られる銭を惜しみ、その後ろにいる男へまとめて払った。
結局、銭は取られている。
だが、回数を考えれば安い。
殴られることも減る。
田朔にはそれで十分だった。
4月上旬が終わる頃、南門を通るのは以前より楽になっていた。
まともな方法ではなかった。
田朔は気にしなかった。




