ダンスの時間
そして2人が門に近づいた、その瞬間、屋敷の古びた門が王宮の近衛兵の手によって、力任せに打ち破られた。
アズールはエメロードの手を引くと、荷物に隠していた剣を抜き放ち、扉の向こうに潜むアンリの密偵たちを見据えた。
「……来たか。さあ、ダンスの時間だ。エメロード」
かつての男娼あがりの使用人という仮面は、その場に脱ぎ捨てられた。
今、そこに立っているのは、異国の冷酷なる支配者、黒い死神・アズール。
ここから二人の、血と硝煙にまみれた逃避行が幕を開ける。
近衛兵たちが玄関の扉を粉砕したその瞬間、空気の密度が変わった。
アズールはエメロードの手を引いて部屋の出口へと躍り出る。
その動作には、これまで見せていた優しく優雅な、侍従の面影など微塵もなかった。
一歩踏み出すたび、彼の纏う空気が刃物のように研ぎ澄まされ、その眼光は近づく者すべてを凍りつかせる、紛れもない戦士のそれへと変貌していた。
「――殺せ。ただし、エメロードには指一本触れさせるな」
アズールの冷酷な号令が、骨笛の高い音と共に響き渡る。
黒い覆面をした男らが七、八人と、屋敷の敷地内に雪崩れ込み手印を交わす。
彼らが動きだし、剣を抜き放つや否や、風を切る音が連続する。
「な、なに……!? あの人たち。どうして……!」
エメロードは、目の前で繰り広げられる惨劇に呆然と立ち尽くした。
さっきまでは姿すら無かった存在が、一瞬にして近衛兵たちの急所を的確に突き、音もなく無力化していく。
その動きは、無駄が削ぎ落とされた歴戦の猛者のそれだった。
「ひ、ひぃぃ……! 誰なのよこの人たち!? 強い、強すぎるわ……!」
エメロードが混乱のあまり叫ぶ一方で、黒ずくめの屈強な男たちは、何とも言えない気まずそうな顔をしていた
主人からはミリアム女を連れ帰るとは聞かされたものの、彼らには敵国のしかも軍門の娘を守るのは抵抗があることだった。
「おい、エメロードを安全な場所へ運べ」
配下に短く命じたアズールの顔立ちは、召使いという名の仮面を脱ぎ去り、獲物を狙う猛獣のような冷徹さと、ぞくりとするほど鋭い雄の色気を湛えている。
先ほどまで感じていた優しさの気配は消え、代わりにそこにあるのは、圧倒的な強者の威圧感だった。
エメロードは、目の前の男が自分の知っている〝異国人の召使いアズール〟とは全く別の存在であることに気づき、言葉を失った。
アズールは屋敷の裏手、あらかじめ部下が手配していた黒馬の元へエメロードを連れて行く。
迷いのない手つきで彼女を鞍の上に押し上げると、自分もその背後に跨った。
「っ、アズール! 一体何がどうなっているの!? あの人たちは誰!? どこへ行くのよ!」
エメロードが叫びながら彼の腕の中で暴れるが、アズールは一切の感情を見せず、ただ黙々と馬の腹を蹴った。
彼の胸筋は鉄のように硬く、背中からは逃げ場のない支配者の圧が伝わってくる。
「……静かにしていろ。今はまだ、何も聞くな」
彼の声は低く、そして恐ろしいほどに冷たかった。
エメロードは、彼の腕に抱かれながら、自分が引き返しのつかない世界へ足を踏み入れてしまったことを悟る。
馬は屋敷の壁を突き抜け、闇の中を疾走し始めた。
後方で炎上する研究室と、叫び声を上げる近衛兵たちが、まるで遠い異世界の出来事のように後ろへ流れていく。
エメロードは、自分の首筋を拘束するように回されたアズールの腕から、もはや逃げ出すことはできない。
アズールは、前を見据えたまま、その瞳を夜の闇に同化させた。
(……まだだ。あの軟弱な王太子の手から、完全にこの獲物を引き剥がし、国境まで……)
彼は、己の目的を口にすることなく、ただエメロードを背に抱きながら馬を走らせる。
エメロードは、自分の心臓が彼の鼓動と重なっていくのを感じながら、ただ震えることしかできなかった。
彼が何者で、自分をどこへ連れて行こうとしているのか。
その答えが全く見えずとも、彼女はすでに、この腕の中の冷たい熱から離れることはできなかった。
二人の逃避行は、始まったばかりだった。
最初、アズの配下には女装させようと思ってたけど…
可哀想でやめたのである




