貴方は誰?
ミリアム王国の辺境、荒れ狂う風が吹きすさぶ未舗装の道を、黒馬は土煙を上げて疾走していた。
背後に迫る近衛兵の追っ手は、アズールの配下たちが仕掛けた伏兵によって、かなりの数が撹乱させられたはずだが、彼はなおも手綱を緩めない。
エメロードは、自分の背後に座る男の変貌ぶりに、驚きのあまり呼吸さえ忘れてしまっていた。
これまで見せていた、伏せ目がちな甘い微笑み、柔らかな物腰――そのすべてが、今はまるで別人であったかのように剥がれ落ちている。
アズールの纏う空気は重く、戦場を支配している死神そのものだ。
「……っ、アズール、ねえっ……お願い。止まって」
エメロードは掠れた声で懇願するが、返ってくるのは地響きのような馬の蹄の音と、彼の胸元から伝わるやや早めの鼓動だけだ。
「お前のお願いなど、今は何の価値もない。
命が惜しければ、ただ俺の腕の中にいろ」
耳元で放たれたその声は、かつて彼女を翻弄した甘美な囁きとは対極にある、冷徹で容赦のない命令だった。
アズールの腕は、彼女が暴れるたびにその肉の薄い腰を容赦なく締め上げる。
深夜、ようやく人の気配のない切り立った断崖の陰に隠れ、小休止を取ることになった。
焚き火を焚くことも許されず、二人は体温を奪い取る冷たい岩肌に背を預けて座り込む。
エメロードは、アズールの少し先で冷たい視線を夜道に向けている背中を見つめた。あの背中が、今夜はひどく遠い。
「……貴方は、本当に誰なの?昔の知人が残した隠れ家で、わたしに研究をさせてくれるって、あれは嘘?」
エメロードの問いに、アズールは肩越しに彼女を一瞥した。蒼い月光に晒されたその横顔は、彫刻のように端正でありながら、血に飢えた獣のような冷酷さを宿している。
「俺は、お前が望んだ逃げ道だ。それ以上でも、それ以下でもない。それに、場所と目的に違いはあれ、研究はさせてやるから安心しろ」
「嘘よ。さっきの……あの人たちへの指示、あれは普通の人がするようなことじゃないわ。
貴方のあんな表情、一度も見たことがなかった」
アズールはゆっくりと立ち上がると、エメロードの目の前まで歩み寄った。
彼は膝をつき、彼女の頬に触れた。
だが、その指先は以前のような愛おしげな愛撫ではなく、獲物を品定めするような冷徹な触れ方だった。
「俺に、自分の知らない顔をされているのが、そんなに怖いか?」
彼はエメロードの顎を掴み、彼女が逃げられないように至近距離で覗き込んだ。
そこにあるのは支配者の傲慢さだ。
「俺がお前に優しくしたのは、あの国から労力無く誘い出すための餌だ。……気づかなかったのか? 俺の手の中にいる間、お前は自分が大切にされていると勘違いしていただけだ」
「……っ!」
残酷な真実を突きつけられ、エメロードは息を呑んだ。
それはアズールに心を許し初めていた彼女にとって、何よりも痛い言葉だった。
アズールは、彼女の湖水の瞳に浮かぶ涙を、乾いた親指で無造作に拭う。
「泣くな。お前を殺したりはしない。連れて行ってやる。二度と、あの軟弱な王太子の顔を思い出せない場所へな」
そう言ってアズールは立ち上がると、無言で彼女の肩に自分のマントを投げかけた。
その布地からは、汗と冷たい冬の夜の匂いがした。
エメロードは、震える手でマントを握りしめる。彼女は混乱の中にいた。
「……明日になれば、また長い逃走が続く。寝ろ」
アズールは岩にもたれかかり、抜き放った短剣を膝の上で研ぎ始めた。
彼の背中を見つめながら、エメロードは本当のアズールを探そうとする自分の心が、あまりに無力であることに気づかされる。
この冷たい死神こそが、きっと本当のアズールなのだ。
彼女はマントの中に身を縮め、彼が発する冷酷な熱に抱かれて、ようやく浅い眠りについた。暗闇の中、アズールは眠る彼女の寝顔を横目で見やり、一度だけ、憎らしげに小さく舌打ちをした。
(……くそっ。この娘の匂いが、俺の理性を狂わせる……だめだ、情を移すな)
彼は、己の中に芽生え始めた、目的とは無関係の焦燥を押し殺すように、研ぎ澄まされた刃を夜の闇へと向けた。
小説を書くのは楽しい、でも読むのも好き。
小説を書いたり編集したりに集中する時期は、あまり読書ができません。悩みです……
なので、アガサクリスティを画像でひたすら流します
最近のミステリー小説で何か読みたいな。
あ、内容に関係ないですね。申し訳ありません。




