国境手前のふたり
ミリアム王国の領土深奥、天を覆う巨木の枝葉が冷たい月の光を遮り、森の中は漆黒の底のような静寂に包まれていた。
二人は、アンリの密偵が通り過ぎるのをやり過ごすため、深く切り立った谷間の岩陰に身を潜めていた。
アズールは手際よく野うさぎを仕留め、慣れた手つきでその命を奪うと、小刀で剥皮し、即席の焚き火にかけた。
かつて豪華な寝台で甘い愛撫を繰り返していた指先は、今や迷いなく肉を裂き、骨を砕く。
パチパチと爆ぜる火の粉が、アズールの横顔を断続的に照らし出す。
炎の揺らぎが、その端正な顔立ちに陰影を落とし、冷徹な死神としての貌を際立たせていた。
エメロードは、岩場に座り込み、膝を抱えてその光景を眺めていた。
研究室の消毒液と香草の香りに満ちた世界から放り出され、今や彼女の鼻腔を支配するのは、焼けた肉の匂いと、アズールという男から立ち上る荒々しい雄の匂いだ。
(……この人は、誰なの?秘密があるとは思っていたけど。こんなのついてけない!)
エメロードの心は、激しく軋んでいた。
彼女が慣れ親しんだのは、自分を愛おしげに見つめ、優しく語りかけてくれた召使いのアズールだ。
だが、目の前で静かに獲物を屠り、刃を研ぐこの男は、あきらに違う。
自分をあのアンリの支配から逃がしてくれたのは、紛れもなくこの男なのに、その手はあまりに冷酷で、あまりに強大で、彼女の想像を遥かに超えていた。
「なぜ……私を逃がしたの?」
沈黙に耐えかね、エメロードが絞り出すように問う。
アズールは火の側で肉を裏返しながら、こちらを向くこともなく短く吐き捨てた。
「アンリの手元に置くより、俺の側に置く方が有益だと判断しただけだ」
その言葉は、突き放すような冷たさを含んでいた。エメロードは唇を噛む。利用されていることはなんとなく分かっている。
それなのに、彼と過ごした時間を思い出すと恐怖よりも先に、深い喪失感が込み上げてくる。
一方で、アズールはこめかみを軽く押さえ、深い疲労を隠そうともしなかった。
彼の脳裏に浮かぶのは、故国・東国ファールスの王宮の光景だ。病床に伏せ、気力を失った父王アルデシール。
その背後で権力を牛耳り、やりたい放題に国を食い荒らす正妃アムシャと、その兄たる宰相。
彼らは老王の後宮に親族の女たちを次々と送り込み、駒となる王子を産ませ、アズールの築き上げた世継ぎの座を、根底から腐らせようと画策している。
(母を亡くし、兄たちを排してようやく掴んだ世継ぎの座だ。……今、俺が戻らねば、シファの命もジャミールの未来も配下らも、あの老いた毒婦たちの餌食になる)
アズールが不在の間、彼の守るべきものが今や崩壊の危機に瀕している。
あちらの泥沼は、アンリが張り巡らせた陰湿さとは比較にならない、血と肉が腐る臭いのする権力闘争だ。
アズールは、自身を求め奪い合う三〇〇人の側室たちが、己の生存のために血眼で寵愛を競い合い、殺し合いを繰り広げているその後宮の騒乱を思い浮かべ、吐き気のような苛立ちを覚えた。
炎が少しだけ勢いを増し、アズールの濃い青色のラピスラズリの瞳が煌めく。
その瞳には、すでに帰還した後に待つ血塗られた玉座の景色が映り込んでいた。
「……冷えるだろう。肉を食え」
アズールが突き出した肉片は、焼け焦げた無骨な塊だった。
エメロードがそれを受け取ろうと手を伸ばすと、アズールは彼女の指先を不意に掴み、そのまま自らの唇に引き寄せた。
それは、かつてのような甘やかな触れ方ではなく、獲物を捕らえる狩人のような鋭く、荒いものだった。
「残すなよ。しっかり食わねばこの先は無理だからな。」
エメロードは、彼の手のひらに伝わる鋼のような力強さに、言いようのない圧迫感を覚える。
彼は今、エメロードを心配しているのではない。
ただ、自分が所有するものが、他人に損なわれることを嫌悪しているだけに見える。
森の奥から、遠くで獣の鳴き声がした。
国境まで、あと半分。
エメロードは、自分の抱いていた暖かい気持ちが、この男の冷酷な瞳の中に深く沈んでいくのを感じていた。
うさぎ…美味し…かの山?




