終わりを告げる境界線
国境の山脈を目前に控えた夜、二人は古びた石造りの監視塔の残骸に身を潜めていた。
森の端に位置するこの場所は、ミリアム王国の終わりを告げる境界線――かつての戦火で焼き払われた場所。
アズールは塔の入り口を塞ぐように腰を下ろしていた。
焚き火の火は今夜も小さく、灰の中でか細い赤色を放つだけだ。
エメロードは、その炎の明かりに浮かび上がるアズールの横顔を、ただ静かに見つめていた。
彼の鋭い鼻筋、力強く冷たい眼差し、そして何よりその強靭な肢体。
「……向こう側は、どんな場所なの?」
エメロードが不意に問うた。
その声は、かつて研究室で響いた無邪気な探究心とは遠い、どこか夢見心地に聞こえるほどに、現実離れした響きを持っていた。
アズールは研いでいた短剣を止め、冷ややかな視線を彼女に向けた。
「俺の国、ファールスは…ミリアムとはまったく違う。
かつては覇王と言われた国王は年老いて、今や甘言を垂れ流す者に囲まれて、忠臣のことばすら届かない。
血肉を分けた兄弟は殺し合い、権力争いは地獄絵図を描く…そんな国だ。
どうだ?満足か?」
「そう……」
エメロードは寂しげに微笑んだ。
その笑顔を見て、アズールの胸の奥で、正体不明の痛みが生じる。
利用するために近づいた女が、なぜこうも無防備に自分の隣で微笑むのか。
「……大昔の話だ」
アズールは、吐き捨てるようにそう言った。炎を見つめながら、彼は絞り出すように言葉を継ぐ。
「ファールスに、毒と血にまみれた宮殿があった。母は幼い子を暗殺から守るため、常にあらゆる小さな動物や自らの知恵をしぼり、毒を退けていた。
だが、七歳の冬至、その子を狙った者たちが強要した毒菓子を、母は子を庇って口にし、目の前で死んだ。
その子は、その冷たい骸の上で笑う者たちを、今も忘れていない」
「……その子にとって毒はこの世でもっとも卑劣で、汚れた存在だ」
(お前が嬉々として触るソレが俺にとっていかに唾棄すべきものか…)
アズールは言葉を切った。
幼い日の自分を抱きしめ、毒に侵された母親の蒼白な顔と、酷く震えていた手。
その感触までが、今、この夜の冷気の中で蘇っている。
エメロードは、そのあまりの凄惨さに顔を歪める代わりに、そっと手を伸ばした。
彼女の指先が、アズールの硬い頬に触れる。
「毒に罪はないわ……ごめん、それは譲れない。
でも、その子は、とても寂しかったのね。
守ってくれる人がいなくなって、世界中が敵だらけになったのだわ」
触れられた場所が、焼けるように熱い。
アズールは、払いのけるべきその手を、動かせなかった。
エメロードの瞳の中にあるのは、同情ではない。
ただ、凍てついた氷に、春の光が差し込むような、純粋さ。
アズールは、自分の中の理性が音を立てて崩れるのを感じた。――危うい。
このままでは、彼女を道具として使い潰す前に、自分が彼女の無垢に食い殺される。
その時だった。森の静寂を切り裂くように、鋭い警笛が響き渡った。
「見つけたぞ! この塔の中にいる!」
アンリの執念は、アズールの予測をわずかに上回っていた。
周囲の闇からミリアムの密偵たちが、数十名単位で姿を現す。
彼らの手には、ミリアムの職人が磨き上げた特殊な形状の波打つような刃が握られていた。
「アズール……!」
「下がれ、エメロード!」
アズールの瞳から、迷いが一瞬で消失した。その代わりに浮かび上がったのは、通り名『ファールスの黒い死神』の凶暴な本性だ。
彼は立ち上がると同時に、手にしていた剣を振り回し、塔の入り口へ突進した。
密偵の一人が先陣を切って飛び込む。
アズールの動きは速すぎた。肉を裂く鈍い音と、噴き上がる鮮血。
彼は人間を屠るのではなく、ただ淡々と障害を排除していく。
その姿はあまりに美しく、あまりに獰猛だった。
「ひ……っ!」
エメロードは塔の隅で息を殺した。
先ほどまで自分の頬を撫でていたその手が、今や他人の命を弄ぶ凶器として踊っている。
アズールは返り血を浴び、その端正な顔を紅く染めながら、次々と密偵たちを切り伏せていく。
彼が剣を振るうたびに、塔内には凄まじい覇気が渦巻き、エメロードの心臓を圧倒的な重圧で締め上げた。
「……おい、アンリの腰巾着ども。
アンリは貴様らの命をいくらで買い取った? 俺の命は、貴様ら全員の首よりも重いぞ」
その声には、慈悲もなければ、恐怖もない。
あるのは、絶対的な支配者の傲慢さだけだ。
最後の一人を無残に切り伏せ、アズールは血に濡れた剣を拭いもせずに振り向き、エメロードを見つめた。
炎の赤と血の赤が、彼の瞳の中で混ざり合い、異様なまでの色気を放っている。
彼はエメロードの元へ近づくと、血に染まった指で彼女の顎を掴み、無理やり視線を合わせた。
「……見たか、エメロード。これが俺の本当の姿だ」
エメロードは、逃げ出したいほどの恐怖と、それ以上に抗えない強烈な惹きつけられる感覚の間で、言葉を失って彼を見つめるしかなかった。アズールの眼差しは、獲物を逃さないという決意で満たされている。
「さあ、境界線は目の前だ。……ここから先は、俺の住む地獄だ。
覚悟はいいな?」
アズールは冷徹に告げると、血の匂いを纏ったまま彼女を抱き上げ、闇夜の中へと駆け出した。
エメロードの逃げ道は完全に消えた。




