死神の帰還
国境を越えて進むにつれ、世界は色を変えた。
ミリアム王国の森を覆っていた湿った空気は消え失せ、代わりに乾燥した荒野が広がっていた。
どれほど時間が経っただろうか。
エメロードを乗せた黒馬が丘の頂へと駆け上がると、眼下に広がる光景に、彼女は息を呑んだ。
数千の黒い軍装を纏った騎兵たちが、静寂を保ったまま整然と隊列を成していた。
彼らはまるで意志を持つ一つの巨大な獣のように、ただ一人の男の帰還を待ちわびていたのだ。
騎兵たちが一斉に掲げた槍が、夕日を反射して血のような赤色に染まる。
「アズール・シャー・アルシャタット!!!」
地鳴りのような歓声が、ミリアム国境近くの空を切り裂いた。
「ファールスの黒き死神! 我らが世継ぎ、ファールスの牙の帰還だ!!」
野太い怒号が重なり、空気がビーンと震えて物理的な重圧を持って、エメロードの身体を叩き伏せる。
これまで見てきた優しいアズールなどという影は、この圧倒的な軍勢の威圧の前に霧散した。
東の支配者の帰還。
エメロードは、馬上で身体を強張らせ、ただ呆然と、アズールの背中を見つめるしかなかった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、遠く、そして残酷なほどに頼もしく見えた。
(……アズールは今、一体どんな顔をしているのだろう)
心臓が早鐘を打つ。
どこか秘密を抱えた優しい召使いアズールと言う名の幻想が、今この瞬間、崩れ去ろうとしていた。
これまでの甘い囁きも、研究室での穏やかな日常も、すべては、この圧倒的な権力を手にした男が、獲物を籠へ誘い込むための偽りに過ぎなかったのだろうか。
アズールは、軍勢の中心で、ゆっくりと、この瞬間を噛み締めるように振り返った。
夕日の逆光を背負った彼の顔は、影に沈み、その表情は読めない。
だが、彼が視線を向けただけで、周囲の近衛兵たちが息を殺して跪くのが分かった。
エメロードの瞳に、その本当の彼が焼き付けられる。
そこには、もうかつての伏せ目がちな侍従の面影など一片もなかった。
冷酷無比な覇王の顔。
全てを焼き尽くし、支配し、冷笑する、ファールスの世継ぎの君としての、真実。
「……っ」
エメロードの喉から、声にならない吐息が漏れる。
アズールは、血に汚れた手袋を脱ぎ捨てると、エメロードに向かって無造作にその手を差し出した。そこには、慈しみも、迷いもない。
ただ、有無を言わせぬ支配の意思だけがあった。
「ようこそ、俺の国、ファールスへ」
彼の声は低く、そして荒野の風のように冷たかった。
玉座の主が命を下すような、絶対的な響き。
「歓迎しよう。ミリアムの元帥令嬢を――」
差し出された手は、拒絶を許さないほど強固だった。
エメロードは震える手で、その冷たい掌に触れた。
彼が指先を強く握りしめた瞬間、エメロードの人生における平和な時代は、完全に終わりを告げた。
彼女の生まれて初めての友情と、無自覚な淡い思いは、この血に染まった支配者の掌の中で、完全に握り潰されたのだ。
軍勢が歓喜の雄叫びを上げる中、エメロードはアズールの胸元に引き寄せられた。
その顔は無表情のまま、彼女の耳元で低い囁きを落とす。
「逃がしはしない。諦めろ」
アズールは軍勢の先頭に立ち、荒野の彼方、陽炎の向こうにそびえ立つ、赤々と燃え盛るような篝火に囲まれた城塞を見据えた。
ミリアムの至宝を抱き、死神はついに、戦場という名の故郷へと凱旋した。
これより始まるは、権力と愛憎が絡み合う、残酷で甘美な地獄であった。
アンリから逃げたら…別のヤバい人に捕まる…




