アンリ王太子からの贈り物
アンリが屋敷に来たのは、昼下がりのことだった。
空は穏やかに晴れていたのに、屋敷の空気だけが妙に重かった。庭の木々の影や塀の外には、変装したアズールの配下たちが潜んでいる。主の合図を待ちながら、アンリの護衛と密偵たちが屋敷を囲んでいくのを、息を殺して見ていた。
表門が開く音がして、アンリが入ってくる。白い外套に金の刺繍。余裕のある足取りで、庭をゆっくりと横切った。
「エメロード」
研究室の前で、アンリが名前を呼ぶ。扉が開いたその瞬間、庭の方でガラスの割れる音がした。
兵士たちが、エメロードが何年もかけて育ててきた研究用の温室を壊し始めていた。破片が飛び散り、中の草や苗が踏み荒らされていく。
「今日は少し派手な贈り物を持ってきたよ」
アンリは笑いながら言った。
「ふふふ、愛しい婚約者に、こんな場所で得体の知れない穢らわしい、毒を扱わせておくわけにはいかないだろ。百合や薔薇でも植えた方がずっと似合う」
エメロードの顔から、すっと血の気が引いた。割れる音に肩を震わせて、唇を噛む。
「……アンリ。ねえ、何してるの。
私の研究を、こんなふうに……」
「どうだ。
そろそろわたしの気持ちを、受け入れる気になったかな?愛しき白狼」
アンリが頰に指を伸ばしてくる。
冷たくて、どこか湿った感触に、エメロードは顔を背けた。
そのとき、奥から声がした。
「そこまでにしてください」
アズールが静かに出てくる。いつもの丁寧な表情のまま、自然とエメロードの前に立った。
「アンリ様。
エメロード様は今、大事な作業の最中です。この〝贈り物〟でどれだけものが失われたか、わかりますか」
声は低く、落ち着いていた。
それでも、その場の空気が少し変わる。
アンリは目を細めて、アズールを見た。
「……面白い。混血めが、使用人のくせに、芯があるじゃないか」
短く冷笑すると、視線をエメロードに戻す。
「また来る。その前に、火傷をしないようにな」
それだけ言って、アンリは踵を返した。護衛を連れて去っていく後ろ姿を、アズールは黙って見送る。門が閉じて、人夫たちも引き揚げたあと、庭にはガラスの破片だけが残った。
風が、壊れた温室を吹き抜けていく。
「……あんなに時間かけたのに」
エメロードの声が、小さく途切れた。膝が折れそうになったところを、アズールが肩を支える。強く抱き寄せるでもなく、ただ倒れないように受け止めた。
眼鏡を外して、涙で滲んだ目を覗き込む。
「泣く必要はない」
声は低かったが、意外と穏やかだった。
「あんな男のために、涙を使うことはない」
エメロードは何も言えず、ただ俯いた。アズールはそれ以上何も言わず、彼女の呼吸が少し落ち着くまで、黙って傍に立っていた。
――その間、アズールの内側では、別のものが静かに暴れていた。
(……なぜ、俺は止めた)
アンリの指がエメロードの頰に触れた瞬間、理性より先に体が動いていた。使用人の分際で割って入れば、立場が悪くなることくらいわかっていたはずだ。なのに、あの冷たい指が彼女の肌に触れた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
(道具だ。忘れるな)
何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。エメロードは母を殺した毒の真相を解くための鍵に過ぎない。利用し、解析させ、必要なら連れて帰る。
それ以上の感情を抱けば、それは弱さになる。七歳の冬至に、すでに骨の髄まで教えられたことだ。
なのに。
壊された温室を見たとき、最初に浮かんだのは、研究が無駄になるという計算ではなかった。あの無邪気な笑顔で毒は純粋だ、と言い切った女が、どれほどこの場所に時間を注いできたか。その時間が、踏みにじられていく光景に、胸の奥が僅かに熱くなった。
(……俺らしくもない)
アズールは、支える手に無意識に力を込めていたことに気づき、すぐに緩める。
(……甘いぞ)
自分を嘲るように、内心で呟く。このまま情に流されれば、ジャミールもシファも、全てを失う。祖国は待ってくれない。
影武者の限界は近い。動け。利用しろ。
それ以外に道はない。
それでも、俯いているエメロードの小さな肩を見てしまうと、胸の奥で何かが抵抗し続けていた。
(……この女を、アンリの手になど渡さない)
それは目的のためか。それとも、別の何かのためか。
アズールには、もう自分でもはっきりとわからなくなり始めていた。
Ponezoもアンリ怖い…でもアンリはまた再登場する…




