プロローグ2幕:網狭まる
エメロードのちいさな屋敷は、すでに完全に包囲されていた。
アズールは窓辺に立ち、夜の闇をじっと見つめる。視線を向ければ、木々の影が不自然に濃い箇所がいくつもある。
床下からは、ごく稀に、人が息を殺している気配が伝わる。屋根裏からも、微かな木材の軋みが落ちてくることがあった。
(……アンリめ。よくもここまで手を回した)
王太子アンリ。
ミリアムの次期国王と目される男であり、リュシェール家と深く結びついている人物だ。
エメロードが実家を出て、この辺境の屋敷で毒の研究を続けていることを、ただ見逃しているはずがない。
そして、そこに〝アズール〟という名の異国人が居着いたとなれば、当然、警戒はする。
アズールは静かにカーテンを閉じ、部屋の中央へ戻った。
粗末な木の椅子に腰を下ろし、指でこめかみを押さえる。
配下との密会は、当分、不可能になった。この包囲網の中で動ければ、たちまち、ただの使用人ではないという尻尾を掴まれる。
そうなれば、エメロードの研究に近づくことも、母を殺した毒の真相に触れることも、全てが水泡に帰す。
(……詰んだか?)
いや、まだだ。
アズールはゆっくりと息を吐き、目を閉じた。
時間が、ない。
それでも、今ここで焦れば全てを失う。アズールは目を開け、壁の向こう――研究室のある方向を、無意識に見やった。
(……あいつ)
エメロード。無防備で、純粋で、毒を「罪のないもの」と言い切る女。
利用するつもりで近づいたはずなのに、今やこの屋敷で最も近しい存在になっている。
そして、皮肉なことに、アンリの密偵たちもまた、彼女の動きを最優先で監視している。
アズールの唇が、わずかに歪んだ。
(……逆に、利用できるかもしれない)
エメロードが動けば、密偵たちの視線もそちらに集中する。
彼女を〝餌〟にすれば、わずかな隙が生まれる可能性はある。
だが、それは同時に、彼女を危険に晒すことでもある。
(……構わん。所詮は道具だ)
そう自分に言い聞かせる。胸の奥で、何かが小さく疼いたが、即座に凍りつかせた。
アズールは立ち上がり、部屋の隅に置かれた箱に手を伸ばした。
黒い布に包まれた細い剣の感触を、指先で確かめる。まだ、抜く時ではない。
だが、いつでも抜けるようにしておく必要はあった。
夜風が、再び窓の隙間から流れ込んでくる。
アズールは静かに目を細め、暗闇の中で動く密偵たちの気配を、数え始めた。
翌朝。
アズールは、いつものように丁寧な微笑みを浮かべて研究室の扉を叩いた。
「エメ、失礼します。紅茶を持ってきました」
中から「入って」と明るい声がする。
エメロードはすでに作業着に袖を通し、机の上にいくつもの小瓶を並べていた。
昨夜から続くくしゃみは、少し落ち着いたらしい。
アズールはカップを傍らに置き、自然な仕草で実験道具に視線を走らせる。
「……そういえば、以前から言っていた『蒼月草』の根は、もう手に入りましたか?」
エメロードの手が、ぴたりと止まった。
「蒼月草? あれ、まだよ。
この辺りじゃ滅多に流通しないし、遠隔地から取り寄せると鮮度が落ちるから……」
「実は、昨日、近隣の村から来た薬草商から話を聞きました。北西の山麓に住む老採集人が、最近まとまった量を持ち込んだらしい、と」
アズールは、わざと少しだけ声のトーンを落とす。
「ただ、彼は人と会うのを極端に嫌うそうで。
使者を立てると、すぐに逃げてしまうとか。
直接、顔を合わせて交渉した方が確実だと聞きました」
エメロードの目が、明らかに輝いた。
「本当? 蒼月草の根が手に入れば、いまの研究が最終段階にはいる!」
「ええ。ただ、あのあたりは道が割と悪い。俺でよければ同行しますが……」
ここでアズールは、わずかに躊躇する素振りを見せた。
「……ただ、俺のような異国人が現れては採集人が怯えてしまいかねないか、その不安はありますね」
計算し尽くした一言だった。案の定、エメロードは首を横に振る。
「いいよ、一緒に行かなくて。
私一人で大丈夫。地図はわかるし、道も以前通ったことがあるから」
「でも……」
「大丈夫。せっかくの機会を逃したくないもの。すぐ支度するわ」
彼女はすでに作業着の上に外套を羽織り始めていた。アズールは内心で、静かに息を吐く。
(……乗ったか。この程度の誘導で動くあたり、やはり素直すぎる)
表向きは心配する表情を崩さず、彼は扉の前まで見送った。
「無理はしないでください。不審な者がいれば、すぐに戻るように」
「わかってるわよ。心配性ね、アズールは」
エメロードは無邪気に笑い、屋敷の表門へ向かって歩き出す。その後ろ姿を、アズールは穏やかな微笑みで見送った。
――そして、門が閉じられた瞬間。
彼の表情から、笑みが消えた。
窓の外では、木々の影が複数、一斉に動き始めている。アンリの密偵たちが、外出するエメロードに食らいつくように尾行を開始したのだ。
屋敷周辺の監視密度が、明らかに落ちている。
アズールは静かに客間へ戻り、小さな鏡を取り出した。窓に反射させる角度を微調整し、森の特定の位置へ、短い光の信号を送る。
(……十分だ。これで配下の一人が動けばいい)
胸の奥で、また小さな疼きが走る。
あの無防備な背中を、意図的に密偵の前に差し出したことへの、わずかな違和感。
(……道具だ。忘れるな)
アズールは鏡をしまい、いつもの仮面を顔に戻した。これで、わずかな時間を稼いだ。
あとは、その時間をどう使うかだけだ。
アズールは信号を送ったあと、部屋の奥に沈むように座った。
窓の外では、まだ密偵たちの気配が揺れている。
だが、その大半はすでにエメロードの後を追って屋敷を離れていた。
残った監視の目は、明らかに手薄だ。
十分ほどが過ぎた頃、床下から極めて小さな音がした。誰かが、慎重に近づいてきている。
アズールは動かず、ただ低く応じた。
「……入れ」
床板の一部が無音で持ち上がり、黒い布で顔を覆った男が、静かに滑り込んできた。
配下の一人だ。
昨夜、森で会った顔ぶれの中にいた男である。
「殿下、監視はまだ完全には解けておりません」
「わかっている。手短に話せ」
男は息を整えながら、一気に報告した。
「ミリアムの王太子が国中を探っているようです。殿下の見た目は目立ちます故…正体がわかる可能性も、なきにしもあらず」
アズールの指が、椅子の肘掛けを強く握る。
「まあ、アンリ王太子は戦場に出るタイプではないのが幸いしたか」
「……殿下、くれぐれも御用心ください。
リュシェール家の男ならば、殿下も幾度も戦場でまみえたはず。
あの娘の親族に出くわせば、流石に逃れられますまい。」
短い沈黙が落ちた。
アズールは目を閉じ、ゆっくりと瞬きをする。
確かにエメロードの父アルベール•リュシェール元帥には、何回も苦湯を飲まされたものだ。
「他には?報告はないか?」
「シファ様の実家から、正式な書簡が届いております。『これ以上の遅延は、政略上好ましくない』と。婉曲ながら、帰還を強く求めてきています」
男はそこで声を落とした。
「殿下。もう、時間はありません。このままでは、影武者が持ってもあと半月が限界かと」
アズールは無言で頷いた。
計算は、すでに頭の中で終わっている。
エメロードの研究を観察し、学者としての能力はすこぶる高いことは分かった。
おそらく天才の類い、十分に役に立ってくれるはずだ。
「……わかった。次の指示は三日後に出す」
「は」
男はそれ以上何も聞かず、床下へとそのまま消えていった。痕跡は、ほとんど残らない。
アズールは一人になると、深く息を吐いた。
(……半月)
残り時間は、あまりにも短い。このままでは、エメロードを連れて帰る決断を、早めざるを得ない。
そのときだった。
遠くから、軽い足音が近づいてくる。表門が開く音。そして、明るい声。
「ただいまー! 蒼月草、ちゃんと手に入ったわよ!」
エメロードだ。予想より早い帰還だった。
アズールは即座に表情を整え、扉の前まで歩いて出迎える。
彼女は頰を赤く染め、小さな包みを抱えていた。
髪には枯葉が二、三枚ついている。
「お帰りなさい。無事で何よりです」
「うん! 老採集人、最初は警戒してたけど、研究の話をしたら急に打ち解けてくれて。
おまけに少し多めにくれたの」
無邪気に笑う彼女の顔を見て、アズールは胸の奥で何かを噛み殺した。
(……この無邪気な笑顔を、利用するのか)
密偵たちはすでに彼女の周囲に戻りつつある。だが、アズールはそれを悟られぬよう、ただ穏やかに包みを受け取った。
「……すぐに暖かい紅茶を淹れます」
「お願い。喉が渇いちゃった」
エメロードは研究室へ戻っていく。その後ろ姿を見送るアズールの目は、静かに、冷たく沈んでいた。
(……だがもう、猶予はない)
半月。それまでに、全てを決めなければならない。
挿絵はアンリ様です…上から男




