暗躍するアズール
夜が更けてから、アズールは静かに屋敷を出た。
月明かりは薄く、雲が時折顔を隠す。足音を殺して森の外れまで歩き、古くなった石造りの教会の影に身を潜める。ここで待つこと一刻ほど。葉擦れの音がして、三人の人影が現れた。
全員、顔の半分を黒い布で覆っている。それでもアズールにはわかった。
先のミリアムとファールスの戦いを生き延びた、かつての配下たちだ。
「……お待たせいたしました、殿下」
先頭の男が、低く頭を下げる。声には疲労が滲んでいた。アズールは短く頷くだけで、すぐに本題に入った。
「よい、構わん。状況を話せ」
「はい。戦況は膠着状態でしたが、前日ミリアムに打撃を与える事が出来ました。恐らくミリアム側が近々、軍を後退させる動きがあるかと。イスファーンにおいても表向きは機能しており———
シファ様もジャミール様も、ご健勝です」
男はそこで一度言葉を切った。
「……ですが、さすがに限界が近づいております」
アズールの濃青の瞳が一瞬、細められた。
青白い月明かりに照らされた顔は、先程、エメロードに見せていた優しげな側仕えのものではない。
端正なその顔には、どこまでも冷徹な厳しさが浮かんでいた。
「詳しく話せ……」
「影武者の方は優秀ですが、やはり本人ではありませんので。特に、戦場に置いて長時間、殿下の代わりを務めるのは無理かと…
一部の者が、影武者の言動の細部に、わずかな違和を感じ取っているようですし。
加えて、正妃シファ様の実家からも、此度は殿下の帰還が遅すぎるとの催促が届き始めております」
別の配下が続ける。
「ジャミール様はもう五歳。『父上はいつ戻られるのか』とシファ様に呟く日々とか…」
アズールは無言で夜空を見上げた。雲の切れ間から、冷たい星の光が差している。
(……ジャミール)
幼い息子の顔が、脳裏をよぎる。母を失った自分と同じような年頃だ。
父の不在を、どれほど不安に思っているか。
胸の奥が、小さく疼いた。すぐに、その疼きを凍りつかせる。
(情を挟むな。今はそれどころではない)
アズールはゆっくりと息を吐く。ポケットの中のロケットが、指先に冷た触れた。
限界は近い。影武者では、もう戦場は長く持たない。シファは賢い女だが…。ニ妃のダーリャに至っては、分別と言う言葉を知らない女だ。このままでは、後宮も乱れる。
「わかったが、もう少しだけ時間が必要だ」
「……殿下。あまり長くは」
「大丈夫だ。わかっている」
低く、しかしはっきりと遮る。
「エメロード・リュシェールの研究は役に立つか、まだその核心に触れていない。
母を殺した毒を特定できれば、あちらの尻尾をつかめるやもしれんのだ…」
配下の一人が、遠慮がちに口を開いた。
「まさか! あの娘を、国に連れ帰るおつもりですか」
アズールの視線が、一瞬だけ鋭くなった。
「……いずれな。だが。
そのまま後宮に入れれば、即座に狙われる。守りきれん」
そこで言葉が、わずかに止まった。
(守りきれん、だと?)
自分でそう口にしたことに、彼自身が気づいてしまう。利用するはずの女を、守りきれない、と危惧している。亡き母の面影を重ねてしまったせいだろうか。
純粋で、無防備で、毒を純粋だ、などと言い切る、あの愚かなほどの眩しさ。
(……甘いぞ、アズール)
内心で自分を嘲る。あの女は道具だと言い聞かせる。
母の死の真相を解くための、優秀な鍵に過ぎない。不用意に情など抱けば、全てが狂う。
弱さを持てば喰らい尽くされる。七歳の冬至以降の人生でそれは、すでに学んだはずのことだ。
なのに———
研究室で無邪気にくしゃみをする姿が、ふと脳裏をよぎる。犬の子のような笑顔で紅茶に飛びついてくる仕草。『毒に罪はない』と言い切ったときの、真っ直ぐに自分を見てめる澄んだエメラルドのような瞳の煌めき。
(……似ている)
あの日、記憶のそこに焼きついて離れない光景。
母が、最後に自分を庇って毒菓子を口にしたときの目に。何もかも犠牲にして、ただ自分を守ろうとした、あの眼差しに。
アズールは、強く奥歯を噛み締めた。
「……余計なことは考えるな。指示は後で出す」
「は」
三人は一斉に頭を下げ、静かに闇へ溶けていった。
一人残されたアズールは、しばらくその場に立ち尽くした。風が通り、木々が小さく揺れる。
(シファも、ジャミールも、待っている)
限界は近い。影武者では、もう長く持たない。そろそろ、動かなければならない。
それでも、アズールはすぐには屋敷へ戻らなかった。しばらくの間、暗い森の中で、ただ静かに息を整えていた。
(あの女を、どうするか……)
利用する。連れて帰る。解析させる。それだけの話しだったのに。
そう決めたはずなのに、胸の奥で、何かが小さく抵抗し続けていた。
8/9 挿絵追加
8/10 改稿、あらら…ふと考えると影武者が国本にいたら破綻しますね。
気づかなかったのは力量の圧倒的な不足ゆえ
大変申し訳ありませんでした。
オープニング場面って難しい。
長々と書いてもダラけるし、短くてもわからない。




