後宮編 第45章:鍵のない鳥籠と神殿への旅
後宮の澱んだ空気は、アズールの冷徹な宣告によって一気に張り詰めたものとなっていた。宦官長を介して突きつけられたアズールの疑念に対し、疑惑を抱かれた妾妃らは、驚くほど平然を装っていた。
その沈黙は、潔白ゆえの余裕か、あるいは追い詰められた鼠が身を潜めた故か。
後宮という巨大な檻の中で、じわじわと、見えない網が引き絞られていたが、未だに何者かがその網に絡まる気配はなかった。
そして数日後、アズールの机上に届けられた一枚の羊皮紙が、さらに事態を混沌へと引きずり込んだ。
ファールス国王アルデシールの朱い御印が押されたその書状には、長々とした飾り立てた文言を並べ立て、アズールに対してケルマンの炎の神殿へ赴き、災厄を祓う祈りを捧げよと命じていた。
「この時期に、か……。いや、だからこそか」
アズールは吐き捨てるように紙切れを机に叩きつけた。
糸を引いているのは父の正妃とその背後に控える宰相一派に違いない。
自分を後宮から切り離し、監視の目を奪った隙に何らかの不穏な計画を進める――あまりにも明白な罠であった。
しかし、王命を掲げられれば、世継ぎとはいえ逆らうことは不可能だ。
重苦しい足取りで、アズールは離宮へと向かった。
そこはかつて、彼が偽りの寵姫のために設えた白亜の籠であったはずだった。
扉を開けると、そこはもはや美しい鳥籠どころか、宮殿の一角ですらなかった。
かつて優雅に囀っていた小鳥たちはダーリャ妃の元へと「五月蝿い!」と押し付けられ、壁を飾っていた名画は無造作に積み重ねられ、その空いたスペースには不気味な虫の標本や、乾いた薬草の束が夥しく吊るされている。
水の女神の彫像の白い胸元には、難解な化学式や珍しい毒草の効能が記されたメモが、所狭しと貼り付けられていた。
「……相変わらず、ひどい有様だな」
床に敷かれた分厚い敷物の上で、専門書を貪り読んでいたエメロードは、アズールの気配は愚かその呟きすら気が付かない。
アズールは彼女の顔を見るより先に、その手から古びた専門書をひょいと奪い取った。
「ぬお、アズ! 返してよ!」
エメロードはエメラルドの瞳を釣り上げ、白金の髪を揺らして睨みつける。
アズールはため息をつきながら、積み重なった書物の山をかき分けて長椅子に腰を下ろした。
「数日、留守にする。ケルマンへ行かねばならん。
父王の名による、炎の神殿での祈祷だ」
「ケルマン?」
「ああ。恐らくは、宰相たちの企みだろう。
俺を後宮から追い出し、何かを仕掛けるつもりに違いない」
アズールは彼女の顔をまっすぐに見つめ、濃青の瞳に強い警告を込めた。
「俺が戻るまで、極力この離宮からは出るな。……決して、無理だけはするなよ」
その瞬間、エメロードの表情が劇的に変化した。
彼女はアズールの膝に纏わりつき、陽光が差し込む湖水のように瞳を煌めかせながら、今までにないほど愛らしく見上げてきた。
「ケルマン! 火山地帯だし、火山灰が降る?温泉もあるでしょ? わたしもついていく!」
「……ダメだ」
「いく!」
「ダメだと言っている。論外だ」
壮絶な押し問答の末、エメロードは頬を限界まで膨らませ、憮然として沈黙した。
アズールは、その柔らかい白金の髪を、まるで手懐けた小さな獣を撫でるようにゆっくりと梳く。
「火山灰の見物など、平時になればいくらでもさせてやれる。
だが今は、俺の言うことを聞け。」
「……分かったわよ」
渋々といった様子で頷いたエメロードを後にし、アズールは離宮を去った。
ケルマンへの旅路に先に潜む不穏な気配に気を取られ、彼は気づかなかった。
白亜の離宮の中に残されたエメロードが、アズールの小さくなる背中をじっと見つめていたことに。
彼女の口元には、未知の毒薬を前にした時のような、あるいは獲物を追い詰める小さな狼のような、にんまりした微笑が浮かんでいた。
「アズ、ほんとうに分からずやね……」
誰に聞かせるでもなく、エメロードは囁いた。そのエメラルドの瞳には、暗闇の中で堪えようがない好奇心に満ち溢れていたのだった。
小説は全体的なプロットを考え、キャラクターを掘り下げたりする時が1番楽しくワクワクします。
一つの章が映画のワンシーンのように頭の中で、違和感なく再生されるかどうか。
常に文章を生み出す時は、それを意識していた方がいいとのはなし…おお…難しいです
本日も18時過ぎ投稿でお送りしました。
明日も18時台に投稿予定でございます。




