後宮編 第46章:秘密の薬と火の神殿への旅路
イスファーンの宮殿にて、ケルマン詣りを控えたアズールは表面上はしごく冷静な面持ちで、数々の指示を部下たちに叩き込んでいた。
それは後宮に潜む敵をあぶり出すため、正妃アムシャやその兄宰相ザイールの一派が、彼の留守中に動くであろうことを見越した指示だった。
すべてを終えた時、彼の周囲に残ったのは、静かに彼を見守るシファ妃と、宦官長レイヴ、そして彼の揺るぎない忠臣たちだった。
「イスファーンの全権を、シファ妃に預ける」
アズールから手渡された書状を、シファは恭しくも、彼女らしく穏やかな表情で受け取った。
彼女の胸には、夫の去り行く先への危惧と、アズールという男に対する複雑な情愛が去来していた。
彼が去る直前、白金の髪をフワフワと揺らして現れたエメロードが、油紙に包まれたちいさな薬包と、燃やすことを前提とした数枚の指示書を渡していったことを、シファは思い出す。
(ふふ、こういうところは、本当に似たもの同士ね。殿下も、あの自由で小さなミリアム人の娘も……)
ふと、シファはアズールが向かうケルマンの火の神殿で待ち受ける最大の困難を思った。
神殿の主である巫女姫、ダナエ。
アズールのかつての正妃候補であり、彼から母を奪った憎き宰相一族の娘。
彼女がアズールへ抱く、執念深く狂おしいまでの執着が、今もあの神殿でどろどろと渦巻いていることを、シファは痛いほど理解していた。
元々、アルデシール王が溺愛した奴隷上がりの寵姫オレリアが産んだ子であるアズールには、母が死んで以来、頼るべき後ろ盾が一切なかった。
軍からの圧倒的な支持を得て、さらに彼を高く評価したシファの父・大将軍ラフマンの後見がついてなお、父王や正妃アムシャ、そして宰相からの冷遇は続いたのだ。
彼にとっては因縁深い正妃腹の王子たちの相次ぐ病死や戦死。
そして、表立っては決して口にできないような残忍な政略の果てに、戦場に身を置き続け武功を立て続けたアズールが〝ファールスの死神〟と呼ばれ、誰もがその存在を無視できなくなった頃。
アズールはようやく、正式にファールスの世継ぎの座を射止めたのである。
あの時、どこか虚ろな顔をしたアルデシール王の左右に控えていたアムシャと宰相の腑は、煮えくり返るほどの怒りに満ちていたことだろう。
それでも世継ぎとせざるを得なくなったアズールに対し、彼らは宰相の娘であるダナエを娶せることを絶対の条件として突きつけてきた。
当然ながら、シファの父ラフマンとアズールの間では、すでにシファとアズールの婚姻が約束されたものであったため、宮廷内では血を洗うような激しい政治的駆け引きが繰り広げられたのだ。
シファは、アズールの正妃候補としてダナエと並び立ち、アルデシール王の前に召された日のことを今でも鮮明に思い出す。
互いに顔を合わせ、氷のように冷たい礼儀程度の挨拶を交わした時の、ダナエの誇り高き顔。それが、王の前に現れたアズールを見た瞬間、異様なほどの高揚に染まり、僅かに開かれた赤い唇から熱い息遣いが漏れたのを。
ダナエの赤褐色の瞳は見開かれ、ファールスの世継ぎとなったアズールを食い入るように凝視し、決して離そうとしなかった。
熾烈な政略を経て、最終的に正妃争いに敗れたダナエが最後に見せたあの表情は、シファにとって一生忘れられないほど底知れぬ情念を孕んでいた。
(……殿下はきっと、げっそりしてケルマンから帰還されるわね……)
シファ妃は、アズールのケルマン詣でが無事に――せめて精神的な疲労が少なく済むようにと、火の神に祈ることしかできなかった。
翌朝。
夜明け前の冷気の中、アズールを乗せた馬車列がゆっくりと副都イスファンを離れた。火の神殿までの道程は片道、二日ほどである。
そこには憎き宰相の娘であり、かってアズールを執拗に追い回したあの女が待っている。
「……忌々しいが、仕方あるまい」
揺れる馬車の中で、アズールは独りごちた。
巫女姫ダナエとの邂逅は、彼にとって何よりも避けたい苦渋の対面だ。
彼女はかつてアズールの正妃候補として、誰よりも激しく彼に固執し、拒絶されるたびにその熱を強くしてきた。
任期が終わるまでのあと一年を切り、彼女の情念がまた嵐となって吹き荒れるのは目に見えている。
その時だった。
街道を包む朝霧を引き裂くように、護衛兵の張り裂けんばかりの悲鳴が響いた。
「敵襲かっ!」
アズールの手が腰の剣に伸びる。
列が止まり、兵たちが臨戦態勢をとる中、続いて聞こえてきたのは、この緊迫した雰囲気にはあまりに不似合いな、高く、愛らしい声だった。
「離してよ! もう、痛いな、乱暴にしないで!」
馬車の外へ飛び出したアズールの目に飛び込んできたのは、大柄な兵士二人に両腕を掴まれ、必死に抗う華奢な女の姿だった。
「……嘘だろう」
アズールは青ざめ、その場に硬直した。
そこにいたのは、今ごろ離宮で専門書を貪っているはずの、エメロードであった。
「おまえ……どうやってここに!」
「貢ぎ物の箱に入り込んでたのよ、昨日から! ……あ、ずっと寝てたから、貢ぎ物がちょっとだけ涎臭くなっちゃったかも。ごめんね?」
エメロードは悪びれる様子もなく、むしろ「どうだ!驚いたか!」とでも言いたげな自慢げな表情でアズールを見上げた。
絶句したアズールは、思わず天を仰いだ。
この予測不能な女を、一体どう扱うべきか。ここで追い返せば、イスファーンへ戻る道中で別の危険に遭うかもしれない。
かといってこのまま連れて行けば、ダナエの強烈な嫉妬の標的にされるのは火を見るよりも明らかだ。
しかし、猛スピードで思考を巡らせた結果、彼はひとつの真理を悟った。
この小さな白金の獣は、アズールが何を言おうと自分のしたいように動くのだ、と。
「……わかった。ケルマンまで来い」
アズールは朝から今日一番の深い溜息を吐き出すと、ずかずかと近づき、エメロードの細腕を掴んで強引に自分の近くへと引き寄せた。
「だが、絶対に約束しろ。その厚底の眼鏡は外すな。そして火の神殿では、俺に対して馴れ馴れしく接するな。分かったか?」
「やったあ! 眼鏡は外さないよ。……それに、馴れ馴れしいって何? どういう意味?」
女神のように美しい素顔の造作を無邪気に輝かせ、首を小さく傾げるエメロードに、アズールは腕を掴んだまま彼女を真剣に見下ろす。
「とにかく眼鏡は外さず、大人しくしていろと言うことだ!」
この学問以外に鈍感な薬学者は、自分の存在と美しさがどれほど危険な火種を招き寄せるか、全く理解していないのだ。
「……まったく、お前という奴は」
アズールは、前途多難なケルマン詣での重圧に押しつぶされそうな心境を抱えながらも、喜び勇んで自分の馬車へと乗り込んでいく小さな白金の髪を揺らす背中を、苦々しくも、どうしようもなく愛おしげに見つめるしかなかった。
挿絵は夜中にせっせと作っている、ショートアニメ動画バージョンよりの切り抜きです。
それにしてもアズールもエメも…特級呪霊に取り憑かれているもよう…
後宮編の次は2部ファールス内乱編に、2部はかなり新しい人たちが出てきます。
本日も18時頃の投稿でお送りしました。
明日も同じ頃に投稿予定で御座います。




