後宮編 第43章:闇に溶ける愛
後宮の夜は、普段であれば静寂に包まれている。
だが、相次ぐ召使いや妃たちの不審死を受け、今の後宮は邪を祓うための焚き火の煙と、神官たちの低く詠唱する歌声が満ちていた。
松明の赤々とした光が廊下を舐めるように走り、壁に歪んだ影を落とす。
そんな喧騒の陰、普段は祭事用の衣装が詰め込まれた物置部屋の奥で、影が二つ、密やかに重なっていた。
「……シャイフ。どうして、あんなことをしてしまったの」
小柄な娘の震える声が、暗闇の中で微かに響いた。彼女は、潤んだ瞳で目の前の若い宦官を見上げている。
後宮において、妃や侍女が若い宦官と密会し、甘い戯れに興じることなど珍しくはない。
政略が絡まない限り、それは〝檻の中の慰め〟として暗黙の了解の下に許されてきた。
しかし、二人の間に漂う空気は、そうした退屈な恋人ごっことは一線を画していた。
「しっ……! 声を潜めろ」
宦官――シャイフと呼ばれた男は、娘の唇に指を当て、その耳元に唇を寄せた。
その所作には、宦官特有の柔和さは微塵もなく、敵を前にした戦士のような強固な力が宿っている。
「全ては、君のためだ。……殿下と、あのミリアムの学者はすでに毒の正体を突き止めている。しかも殿下は、あえて特定の妃の派閥に噂を流した。
犯人を炙り出すための餌だ……奴らはもう、確信に近づいている」
「怖い……わたし、捕まってしまうの? 首を斬られるの……?」
娘は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
その表情は愛らしく純朴で、この陰惨な場所にはあまりにも不似合いな透明感を湛えている。
「ただ……お父様に逆らえなかっただけなの。こうしなければ、お母様にあの高価な薬を飲ませてあげられなくなる……。お母様が、今の屋敷を追い出されてしまう……っ!」
後宮に入る、と頷いた褒美に娘の父親は病に苦しむ娘の母を、まるで正妻のように扱ってくれた。高貴な身分のある人に頼み素晴らしい薬まで手にれてくれたのだ。
娘の小さな身体が震え、涙がこぼれ落ちる。
シャイフはそのか弱い肩を力強く抱き寄せた。その抱擁は、軟弱な宦官のそれではなく、戦場で生き抜いてきた男の、無骨ではあるがしっかりとした安心感を与えるものだった。
「大丈夫だ。俺は君を守るためなら、どんな穢らわしい場所にでも潜り込むと決めていた。守ってみせる。
必ずだ、君をこれ以上汚させはしない」
「シャイフ……愛してるわ。……たとえこの身体が汚されても、心は、永遠にあなただけのものよ」
娘は泣き顔のまま、精一杯の強がりを込めた笑顔で彼を見つめた。
シャイフは愛しい人の頬を伝う涙を、荒々しい指先でそっと拭う。
その瞳の奥には、彼自身の人生には決して存在しなかった光への執着が渦巻いていた。
「……さあ、もう行くんだ。あとは、俺に任せろ」
娘が物置からそっと抜け出していくのを見送り、一人残されたシャイフは、自身の両手をじっと見つめた。
暗がりの中、その手はまるで幻覚のように真っ赤な血に塗れて見える。
かつて剣を握り、数多の命を奪ってきた手。今さら、どれほど血に濡れたところで、何も変わらない。
大切なものを守り通せるのであれば、この人生など、地獄に捧げても惜しくはなかった。
(可哀想な……)
シャイフの掠れた声が、愛しい名と共に暗闇に溶け出す。
妾の子として蔑まれ、母を人質に取られ、この呪われた後宮へ、恐るべき企みを成し遂げるために引きずり込まれた恋人。
彼女をこの恐ろしい企みから救い出すことだけが、シャイフという男の、この世に生まれた唯一の意義であった。
この後宮ですら、もはや、すでに数人を殺めた。
あと数人の血が加わろうと、地獄の業火が熱さを増すだけのこと。
シャイフは歪んだ笑みを浮かべると、音もなく闇の中へ紛れ込んだ。
その姿は、まるで後宮の闇そのもののように、気配を完全に消し去っていた。
満員電車で投稿は無理だった…かなしみ
ミステリーではないから、ミステリーは大好きだけど…
これで複雑にしたらジャンルが変わる
書いてるときから悩んだり
犯人分からないようにするか…
ひっぱるか…




