後宮編 第41章:叩かれた頬と重ねた絆
エメロードは遺体の検分を終えると、淀みのない動作で宦官たちに指示を出し、ファルザーネの残した食事や茶器、さらには衣服や愛用していた化粧品に至るまで、一切合切を地下の秘密研究室へ運ぶよう命じた。
彼女の態度は事務的で、まるで実験材料を回収するだけのようであったが、その瞳の奥には静かな怒りの炎が灯っていた。
アズールは無言で彼女の後を追った。いつもならば「ついてこないでね!」と釘を刺されるところだが、今日のエメロードはアズールが背後にいることを黙認していた。
二人は重苦しい沈黙の中、石の階段を降りていく。地下特有のひんやりとした空気が、二人の肌を撫でた。
研究室の奥、普段はエメロードが一人で思考の海に沈むための長椅子へ、アズールは崩れるように腰を下ろした。
普段の気迫は失せ、彼の顔色は酷く悪く、組み合わされた手先は微かに、だが確かに震えていた。
エメロードは、そのアズールの隣に静かに座った。
彼女は立ち上がらず、ただアズールの膝元で、影を濃くした彼のラピスラズリの瞳を見上げた。
「ここは誰もいないよ。だから……大丈夫」
エメロードの囁きに、アズールは一度だけ、肺の奥底まで凍るような息を吐き出した。
震える手は、帝国の重圧を背負うにはあまりに頼りなく、この姿を後宮の臣下たちに見せることなど、断じて許されない。
「……すぐに行かねば。
シファや宦官長と話さねばならん、お前は……第四妃の死因を調べてほしい。
それかは極力早く、あの毒の解析を完成させてくれ。頼む……」
アズールの言葉は弱く、掠れていた。
エメロードはそのかすかな弱さを逃さず、そっと自分の小さな手を、アズールの震える手の上に重ねた。
彼の手が、驚きにピクリと動く。
エメロードの湖のようなエメラルド色の瞳は、彼を真っ直ぐに射抜き、底なしの光で繋ぎ止めていた。
アズールは息を吐き出す。
「……遠い記憶の中の母の死に顔は、清らかで、まるで殉教した聖女のように美しかったんだ。
だが今日、無惨なファルザーネの死に顔を見て……思い出したのだ。
あの七つの誕生日の後の冬至の昼、冷たい床に倒れた母の……恐ろしい姿を」
淡々と語るアズールに対し、エメロードは彼の手をより強く、しっかりと上から押さえた。
彼の手が震えているのを感じながら、彼女は否定した。
「それはお母様への裏切りじゃないよ。
小さなアズールが、自分の心を守るために無意識に作り上げた記憶だわ。
お母様もきっと、あなたにそんな恐ろしい姿を焼き付けたくなかったはずだもの」
「……そう、だろうか。不甲斐ない息子だと、あの世で嘆いてはいまいか?」
アズールはエメロードの瞳から視線を逸らした。エメロードは少しだけ首を傾げ、まっすぐに彼を問いかける。
「あなたの母様は、そんな女性だったの?」
「……違う。
思い出は少ないが、どれほど辛い中でも優しい微笑みしか思い出せない。そんな人だ」
「ならば、それが全てだよ! あなたのお母様は辛くても決して人を恨まず、息子に微笑みを向け続けた。
ならば私たちが、お母様やファルザーネ様のために出来ることは、あの毒を使った犯人に罪を償わせることだけ!」
パン、と乾いた音が研究室に響いた。
エメロードは気合いを入れるようにアズールの頬を両手で挟み、その瞳で彼を凝視した。二人の視線が絡み合い、アズールは息を呑む。
「……おまえは、おまえの分野で。俺は、俺のやり方でか?」
アズールの問いに、エメロードは満面の笑みを浮かべた。
「ええ!」
その言葉を聞いた瞬間、アズールの手の震えは完全に止まっていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、研究室の出口へと向かう。
振り返ることはなかったが、その背中は先ほどよりも遥かに大きく、そして鋭利であった。
「……ありがとう」
アズールはその一言だけを、はっきりと力強く告げた。
エメロードは、その背中が去った後の静寂を見つめ、決意を胸に手帳を開いた。
地下の冷たい石畳を歩み、アズールが地上へ戻ったとき、そこには先ほどまでとは別人のような空気が漂っていた。
彼の顔から憔悴の影は消え、凍てつくような冷徹さと、自身の縄張りを荒らされた事への、昏い怒りの色がその瞳に宿っている。
執務室でアズールを待っていたのは、正妃シファであった。
彼女はアズールの帰還を察すると、姿勢を正して歩み寄る。
しかし、アズールと視線が交わった瞬間、シファは思わず息を呑んで立ち止まった。
その眼差しには、もう迷いも、初恋に浮かれる少年のような甘さもなかった。
そこにあるのは、かつての誰よりも苛烈で、誰も寄せ付けない、ファールスの世継ぎの眼差しそのものだった。
シファは、その冷酷なまでに鋭い眼光に、かすかな安堵と、それ以上に深い戦慄を己の内に感じた。
「……殿下。ファルザーネ妃の件、いかがなされましたか」
アズールは立ち止まり、強い意志がひかるラピスラズリの瞳で、シファを真っ直ぐに見つめた。
「エメロードに鑑定を任せたが、おそらくは毒殺だろう。
あの第四妃の死に様、死に顔には……覚えがある」
シファの顔色から、一気に血の気が引いた。
彼女もまた、あの日の惨劇を詳しく聞かされた、数少ない人間の一人だったからだ。
アズールの人生を揺るがした、あの忌まわしき毒が、再びこの後宮を這い回っている。
「……では、これは殿下に対する宣戦布告、ということですか」
「ああ。後宮を汚した毒の出所を、根こそぎあぶり出す」
アズールはシファに対し、正妃としての権限をフルに活用し妃たちを探るよう命じた。
後宮内の食事の調達ルート、茶の仕入れ先、出入りする商人。
そして各妃に仕える使用人たちの動静。
シファはアズールの冷徹な命令を淀みなく受け入れ、彼を支える正妃としての権限を速やかに執行した。
二人の間には、夫婦としての温かみよりは、長年の戦友のような雰囲気が流れていた。
一方———
地下研究室に取り残されたエメロードは、松明の火影の中で黙々と作業を続けていた。
机の上には、ファルザーネ妃の形見となった美しい花鳥の絵付けがされた茶器と、かつてアズールの母を殺した毒の記録が広げられている。
「……やっぱり。
かなり不完全なんだ……だから僅かに吸い込んだダーリャ妃の娘にも証拠が出た。
ファルザーネ様の遺体にも…完全なあの毒のレシピじゃないから。
でもなら、アズールのお母さんだけがなぜ…」
エメロードは眉をひそめ、手帳に激しくペンを走らせる。
毒の調合そのものは、かつてアズールの母を死に至らしめたものに似ている。
しかし、今回、ファルザーネ妃の茶器から検出された毒は、決定的な劣化を見せていた。
学者の国、医療大国とも呼ばれる秘密の多いミリアム国の機材や素材、そして知識あっての解析ではあるから、ファールスの医師や学者では手に余る分析だった。
ファールス王が例え遺体を調べさせても、オレリア妃は病死とされたはずだ。
アズールの母を殺した特殊な毒は、従来ファールスでよく使われる暗殺の毒とはまったく異なる。
即効性の致死でもなく、長い時間で死に至るわけではない。
接種してからしばらく経ち、まるで心臓の病のような様子でもがき苦しみ死んでしまう。
体外、体内にはさしたる証拠も残らない、エメロードに特殊な知識がなければ、ミリアムの最高峰の学者たちにすら、わからなかったかもしれない。
エメロードの瞳に、研究者としての狂気と鋭さと、同時に僅かな揺らぎが灯る。
彼女は珍しくどこか落ち着かなげな様子で、差し入れが入った籠を見つめた。
籠の中にはエメロードの好みに合わせた、甘い甘い、ミリアム風に作られた焼き菓子がぎっしりと詰まっていた。
*
その頃、アズールはシファと共に、後宮の妃たちが住まう区域を静かに見下ろしていた。
アズールの推論は明快だった。
毒を使える機会と、それを隠し通せる立場にあるのは、この後宮の中に巣食う妃たちの誰かである。
「正妃であるシファ、お前以外の妃の中に、必ず毒を扱う卑劣な犯人がいる」
アズールは冷酷な宣告を下す。
「罠を仕掛けるぞ……今夜、最も疑わしい派閥に、あえて毒の解析の噂を流せ。」
アズールの覚悟は決まっていた。
かつての平和な新年の朝など、もうどこにも存在していない。
後宮という檻の中で、断罪の鐘が鳴り響こうとしていた。
目があ…目があ…と目にバルスをされたみたいになっちゃったので(書きだめの修正、誤字脱字チェック+現実生活)少しスローペースだけど、毎日こちらにちょくちょく移植作業中!
他②作品を移植するのはいつになるか…友達そちらも読んでくれたらいいな
あと、読んでくださる優しい方がた、ほんとにありがとうございます♪
1日250ページ〜400ページでついていたので
まだ初投稿4日目で慣れないけど、使いやすいし楽しい




