後宮編 第39章:毒入りの新年
新年の離宮は、朝の光に満ちていた。テーブルにはファールスの新年を象徴する七つの縁起物が、祝祭の彩りを添えて並べられている。
食欲をそそる麦芽のペースト、ハーブと青菜を贅沢に練り込んだオムレツ、ディル、コリアンダー、パセリといった芳香豊かなハーブをふんだんに炊き込んだご飯。
香ばしく焼き上げられた川魚に、蜜のように甘く煮た林檎。
「うわあ……これ、全部新年の祝い膳なの? ミリアム国とは随分と趣が違うね。香りが……なんていうのかしら、とても清々しくて」
エメロードは、初めて見る色鮮やかな料理の数々に、研究者らしい好奇心を隠しきれない様子で目を輝かせた。
彼女は繊細な匙を手に取り、ハーブが香るご飯を一口含んで、その爽やかな味わいに小さく驚きの声を上げる。
「ねえ、アズール。あなたがミリアムに潜入して、わたしの屋敷で暮らしていた頃……わたしに作ってくれた料理とは全く違うね。
あなた、自分で作った癖に、あの時はほとんど口をつけなかったもの」
エメロードの何気ない問いかけに、アズールは銀のナイフを止めた。
彼女の屋敷で身分を偽り、彼女の側仕えとして息を潜めていたあの時期。
配下に裏切られて敵国で行き倒れ、常に神経を研ぎ澄ませていた日々が、ふと脳裏を過る。
「……あれは、お前の好みを聞いて合わせていただけだからな。
ミリアムの料理は俺には重すぎた。肉をこってりとしたワインと脂で煮込み、味付けも単調で……食欲をそそるどころか、胃が受け付けなかったんだ」
アズールは苦々しく眉をひそめ、冷めた紅茶を一口飲んだ。
「まあ、お前の口に合うかは分からんが……食え。冷めると味が落ちる」
ぶっきらぼうに言いながらも、アズールはエメロードの皿に魚の切り身を取り分ける。
エメロードは「ふーむ」と呟きながら、炊き込みご飯と魚を交互に口に運び、そのたびにエメラルド色の瞳をキラキラと輝かせた。
「これ! 味わい深い! ミリアムの重たい料理とはまた違って、素材の味が重層的で美味しいよ!」
喜ぶエメロードの横顔を、アズールは言葉もなく見つめた。
その眼差しには、隠しきれないほどの愛おしさが滲んでいる。
しかし、エメロードは悪戯っぽく視線を巡らせ、ふと真顔になってアズールをじっと見つめた。
「あの頃のアズールは、本当に猫かぶりが酷かったよね。
あんなに礼儀正しくて、健気な側仕えだと思っていたのに。本性を知ったとき、驚きすぎて口から涎がこぼれたくらいだよ」
不意を突かれたアズールは、耳まで赤らめて視線を逸らした。
「……仕方ないだろう。当時の俺は、政敵に買収された配下に後ろから刺され、死線を彷徨っていたんだ。
ミリアム付近で何とか逃げようとしたら、人買いに捕まるわ、踏んだり蹴ったりだった。
お前に出会わなければ……」
(……出会わなければ、死んでいたか。
毒を研究する変わり者…運命なぞ、いままで信じた事もないが…)
ボソボソと吐き捨てるように呟くその声には、当時の孤独と焦燥が色濃く混じっていた。
エメロードがさらに食事に手を伸ばそうとした、その時だった。
離宮の静寂が、外からの騒めきによって打ち破られた。
扉が押し開かれ、イザベルが蒼白な顔で駆け込んでくる。
その後ろには、普段はあまり離宮に姿を見せない宦官長が、土気色の顔で控えていた。
「……殿下、新年の食卓にこのような汚れを持ち込むことを、どうかお許しください」
イザベルの震える声に、アズールは濃青の瞳を細める。
ファールスの世継ぎとしての冷徹な表情が、一瞬にしてその顔に張り付く。
「……よい、申せ」
「恐れながら申し上げます」
宦官長は深く頭を下げ、切迫した様子で口を開いた。
「第四妃ファルザーネ様が、今朝方……自室にて急逝なさいました」
アズールは動きを止めた。
「……何と言った。病死か?」
「それが……」
宦官長は言葉を詰まらせ、絞り出すように続けた。
「朝の食事を済ませ、好物の茶を召し上がった後……。しばらくして、突然真っ青になり、激しく痙攣し苦しみ……そのまま冷たくなられたと。毒か、あるいは呪いか、見当もつきませぬ」
その報告に、アズールは唇を噛み締める。
幼い頃、母が同じように激しく痙攣し、青ざめて息を引き取ったあの日の光景。
冷たい鉄のような柘榴の匂いと、甘い菓子、お茶の香り。
アズールが戦慄の中で母の最期を反芻する一方で、エメロードは瞬時に毒の専門家としての顔に切り替わっていた。
二人の間には、先ほどまでの幸福な新年の陽光など、もはや一片も残されていなかった。




