後宮編 第35章:境界線を溶かして
※本章には軽度の恋愛描写があります。
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恋愛描写が苦手な方はご注意くださいませ。
離宮の扉を潜った瞬間、アズールの鼻腔に広がったのは、ミリファの部屋に纏わりついていたあの甘ったるく、どこか腐敗のを感じさせる果実のような香りではなかった。
そこには、さっぱりとした独特の薬草の苦味と、エメロードという女が持つ微かな花の甘さが混じり合った、清潔を思わせる香りが満ちていた。
アズールは、ミリファの狂気に汚染された肺の中を洗い流すように、その空気を深く、胸いっぱいに吸い込んだ。
寝椅子で微睡むようにして資料のメモを見上げていたエメロードが、アズールの気配に気づき、ゆったりと顔を上げた。
吸い込まれそうなほどに透き通る、湖水のような瞳。
その静かな視線に射抜かれ、アズールは吸い寄せられるようにして、そっと彼女の横に腰を下ろした。
「……ミリファ妃の話をしたい」
アズールは低く、どこか気圧されたような声で呟いた。
かつて自分を熱烈に愛し、今は壊れた夢の中に閉じ籠もってしまった女。
その愛が、あまりに純粋で脆く、そして歪んでいたことを語るうちに、アズールは罪の意識からか言葉に詰まった。
ミリファがばら撒いていた青い蝶の正体、彼女の瞳が追っていた虚空の幻影。
すべてを冷徹な手際で処理し、箱庭の中に封じ込めたはずの自分の対応が、どこか自分自身でも腑に落ちない不快感として胸に澱んでいる。
エメロードは、アズールの言葉を一言も聞き漏らさぬように、じっと彼を見つめていた。
その無垢なまでの視線が、アズールの脳裏に、暫し前の出来事を呼び起こす。
――『ミリファ妃と過ごしたあと、すぐにわたしの元を訪ねてね?』
アズールはミリファ妃に会うまで、この言葉を甘美な誘いだと解釈し、不埒な想像に胸を躍らせていた。
そのやましさが、エメロードの透き通る眼差しの前で露わになり、アズールは思わず視線を逸らした。
「……おい、人の顔を見てばかりいないで何かいったらどうだ。それとも、じっと見ていたいほどいい男なのか?」
自尊心を隠すための冗談めかした声音。
しかし、エメロードはその戯言に微笑むことさえしなかった。
彼女の瞳には、学者としての鋭い光が宿っている。
「……ミリファ妃は、ダーリャ妃の娘には何もしてないよ」
冷たい事実が、静かな離宮の空気を凍りつかせた。
アズールの表情から余裕が消える。
「どういうことだ……。やはり、違和感は正解だったか」
エメロードは、シリンが後宮の隅の茂みで土を掘り下げて遊んでいた事実、そして彼女が見たはずのキラキラと輝く小瓶の行方について、淡々と論理を組み立てて説明した。
青い蝶の毒は、肌を荒らしたり腹を下したりする程度のものに過ぎない。
シリンに盛られたあの緻密な毒とは、あまりに違っている。
「あの子は、小瓶のまわりに付着していた毒を吸い込んだだけ。……それから、小瓶はあった場所から忽然と消えた。
何者かが、ミリファ妃の狂気を利用して、その裏で獲物を狙っているのじゃないかな?」
エメロードの指先が、机の上に置かれた一枚の紙を指した。
「小瓶が埋まっていた場所の土を調べたんだ。
……成分がわかったよ。
アズール、あなたのお母様を殺害したあの毒と、すごく似ている成分」
その言葉が落ちた瞬間、離宮からすべての音が消え去った。
無味無臭で生命を蝕む、悪魔の毒。
銀にも反応せず、死体に目立つ証拠すらも残さない。
かつて最愛の母を、自分の目の前で死に追いやったあの毒に似た代物が、この後宮の土の下から見つかったという事実。
アズールの怜悧な美貌が、激しい苦痛で歪んだ。
冷徹な統治者としての誇りも、最愛の母の悲劇という、過去の傷の前では無力だった。
彼は唇を血が滲むほどに強く噛み締め、膝の上で握りしめた拳が白く震えた。
「……また、同じことが起きるのか?」
怒りよりも深い絶望が、アズールの全身を突き抜けていく。
まだ権力が安定しておらず、政敵に囲まれていた頃に失った妃や子ら、忠実な配下たちの顔が脳裏に次々と浮かんでは消える。
エメロードは、そのあまりに脆く見えるアズールの横顔をじっと見つめ、迷うことなくその冷たい拳の上に、そっと自分の小さな手を重ねた。
重ねられた掌の熱が、互いの境界線を溶かしていく。
アズールは、自分がエメロードの手を振り払わなかったことに、かすかな驚きと、それ以上の安堵を覚えていた。
大きな掌が、繊細な彼女の指を包み込む。指先が触れ合い、体温の微かな揺らぎを確かめ合うその仕草は、どんな言葉よりも雄弁に、互いの心身が相手を求めていることを告げていた。
「……アズの手はあったかいから、すき」
エメロードが、まるで独り言のように小さく囁いた。
アズールはその言葉の温度を、全身に染み込ませるように目を細める。
「手、だけか?」
アズールが低く、からかうような声で返すと、エメロードは少しだけ視線を逸らした。
彼女はファールスの未来の覇王を見つめ、どこか諦めに似た複雑な表情を浮かべる。
「……私はミリアム人だよ。
ファールスの習慣なんて馴染めないわ。一夫多妻なんて、到底耐えられないと思う」
彼女の淡々とした指摘に、アズールは心臓を掴まれたかのような衝撃を受けた。
彼は驚き、そしてすぐにその瞳に拗ねたような光を灯した。
「それは……俺には、どうすることもできないぞ。
ファールス王国の法であり、ファールスに生まれた王族の務めだ。
それに、ミリアムの貴族だって愛人を囲うだろう?
俺がちゃんとした形で妃を娶る方が、よほど健全で公明正大だろうよ」
「健全? そんなの…私には関係ないよ」
エメロードは憤然として唇を尖らせた。
彼女にとって、愛は独占的で対等な契約であるはずのものだ。
アンリ王太子との婚約を破棄し、母国の堅苦しい王族の愛憎から逃げ出し、自由を求めて南の国へ行こうとしていた自分の人生が、今、まさに最も避けたかった愛憎の渦中に引きずり込まれている。
「……アズール。
あなたの問題を全部解決したら、約束通り私を解放して、南の国へ逃がしてくれるのよね?」
その言葉を口にした瞬間、空気が凍りついた。アズールは一瞬、思考を停止させた。
彼の手の中にあるエメロードの指先が、わずかに震えているのがわかった。
「……わからない」
絞り出すような、正直すぎる吐露だった。
アズール自身、答えを持ち合わせていなかった。
エメロードを自分の隣から手放すことなど、今の彼には死ぬこと以上に考えられない。
だが、それを口に出せば、今この瞬間に築き上げた静かな共有の時間すら、すべて崩れ去ってしまうという本能的な予感があった。
エメロードもまた、自分の胸に湧き上がる感情の正体を突き止められず、内心で混乱していた。
(どうして、こんなにも苦しいの? 逃げたいはずなのに)
「好き、かもしれない……なんて。そんな失礼な言い方、あまりに薄情すぎて信用できないわ。初夜のときも、やり直しのときも、正式なプロポーズもなく、あなたは勝手に私を追い詰めて……」
自分でも支離滅裂すぎて、何を話しているのか解らぬまま、エメロードはぶつぶつと文句を言う。
「――は?」
アズールは呆然と口を開いた。彼の瞳には、純粋な混乱が宿っている。
「やり直しただろう? あれほど……あれほど熱を込めて、お前に俺のすべてを捧げたはずだ!なのに、お前は終わった後にも、ただ淡々と熱に答えるわけでもなく、翌日の予定の話を始めただろう?」
「当たり前でしょう!あなたは自分の欲望を押し付けただけじゃない。正式な愛と契約の言葉もなしに、順序もなしに、そんなの求愛じゃないわ!」
二人の認識は、あまりにも決定的に噛み合っていなかった。アズールは、自分の激しい情熱が最大の愛情表現、であると疑わない。
エメロードは対等な対話と正式な手続き、こそが愛の証だと信じている。文化の壁と、東国の世継ぎの君としての傲慢さと、研究者としての理屈っぽさが、真っ向から衝突していた。
扉の外でそのやりとりを聞いていた乳母のイザベルは、深い、深い溜息を吐いた。
長年アズールを見守ってきた乳母である彼女にとっても、これほどまでに拗れきった不器用な主の恋路は、頭を抱えるほかない難問であった。
二人の間には、深い沈黙が流れていた。言葉が感情を伝えきれず、むしろ互いを傷つける毒に変わる前に、アズールはもう一度、荒い息を吐きながら彼女を力任せに抱き寄せた。
「……うるさい、不器用女め」
「……まあ!アズールのほうが、よほど不器用じゃない」
二人の罵り合いは、もはや恋の告白にも似た熱を帯びていた。言葉がいかに無力で、いかに互いを傷つけるだけであるかを、二人は同時に悟っていた。
アズールが力任せにエメロードを寝椅子へと押し倒すと、彼女の瞳からは先ほどまでの理知的な冷静さが消え失せ、代わりに燃えるような怒りに似た熱が宿った。彼女は拒絶の代わりに、アズールの肩を強く掴み、その背中に爪を立てた。
「……ッ!」
アズールは、エメロードの喉の奥から漏れた短い吐息を聞き、理性が揺らぐのを感じた。
彼は愛の言葉を囁く代わりに、彼女の唇を激しく塞いだ。それはもはや生易しい口づけではない。境界が曖昧になるほどの激しさだった。
睨み合う二人の視線は、かつてないほど濃密に絡み合う。エメロードの頬は上気し、潤んだエメラルドの瞳には挑発の色が浮かんでいる。
アズールは、その細い首筋に熱い吐息を落としながら、逃がさないとばかりにゆっくりと唇を寄せた。彼女の鎖骨の窪みに唇を当て、甘く噛む。その瞬間、エメロードが負けじと動いた。彼女はアズールの肩を押し返し、彼の逞しい首の側面に、かぷり、と歯を立てた。
「くっ……!」
アズールは低く、野性味を帯びた唸りを漏らした。痛みと熱が背筋を駆け巡る。
今まで、これほどまでに苛烈に女を求め、そして同等の熱量で求愛を受けたことがあっただろうか。未来の覇王としての重圧も、全てが消える。
短く浅く乱れる呼吸。エメロードの白くしなやかな指がアズールの背中を強かに掻き、彼女の口からは途切れ途切れの吐息が漏れる。
「アズ……!」
彼女の声はもはや理性を失いかけ、熱に支配されていた。アズールは彼女の腰を強く引き寄せ、自らの存在を刻み込むように激しく彼女を抱きしめた。
「エメ……お前という女は……ッ」
アズールは、彼女の耳元で獣のように荒い息を吐き捨てた。唇が溶け合うほどの長い口付けに、互いの熱が混じり合う。
それは荒々しくも純粋な本能の衝突だった。彼女の唇に何度も自らの唇を重ね、噛み跡が残るほどに激しく求め合う。二人の熱が重なり合い、言葉では届かない何かをぶつけ合った。激しい鼓動が、互いの胸の中ですべての言葉を押し流した。
……やがて、狂おしい嵐が過ぎ去った後には、静寂だけが残った。部屋を包んでいた薬草の香りは、二人の熱の香りに塗り替えられていた。アズールは、荒い呼吸を整えながら、腕の中に収まる重みを感じていた。
エメロードは、まるで獲物を仕留めたばかりの小さな狼のように、アズールの胸元に顔を埋め、深く安らかな寝息を立てている。
その寝顔には、先ほどまでの憤りも、南の国へ逃げるという決意も、今はどこにも見当たらない。アズールは、彼女の乱れた髪を慈しむように梳き、その華奢な肩を毛布で包んだ。首筋に残るエメロードの歯型に指を触れ、彼は静かに、だが深く目を閉じた。
「……いまは言葉など、要らぬか」
求めていた甘美な愛よりも、今、自分の腕の中で眠るこの小さな命の熱こそが、真実であるように思えた。だが、彼らの足元で静かに爪を研ぐ暗い予兆が、この束の間の平穏を長くは許さないということを、アズールはまだ――深く刻まれた歯型の痛みとともに、予感せざるを得なかった。
は……はい……こちらも読ませたグー太郎大先生からたいへん手厳しい指摘が……
ちゃんとR15オッケー!いただいた……つ、つかれた…
はい、こちらもちゃんと見たらまだ。との話でしっかり規約にカスタマイズして再投稿バージョン。




