後宮編 第34章:夢見る妃の青い花園
第三妃ミリファの居室の前で、アズールは一瞬だけ足を止め、己の表情を冷徹な男のそれから、慈愛に満ちた夫へと塗り替えた。
扉の向こうからは、重苦しい沈黙と、それを隠すように焚かれた甘ったるい花の香りが漏れ出している。
深呼吸ひとつで雑念を断ち切り、彼は極力穏やかな笑みを浮かべて扉を潜った。
室内は、南国の陽光を閉じ込めたかのように鮮やかな赤と金で彩られていた。
その中で、かつてアズールの寵愛を一手に受けていたミリファ妃は、まるで時間が止まったかのような美しさを保っていた。
赤毛は艶やかに波打ち、グラマラスな身体つきは健在だが、その瞳だけはどこか遠くの幻影を追うように浮遊している。
「アズールさま……!」
その叫びは、子供のような歓喜と、湿り気を帯びた悲鳴が混ざり合ったような、酷く奇妙な響きを伴っていた。
ミリファ妃はアズールの姿を認めるやいなや、青い瞳を潤ませ、涙を溢れさせながら彼に縋りついた。
祖国での政変により後ろ盾を失い、寵姫の座から転落した彼女にとって、アズールという存在は唯一無二の救いであり、恋物語の中に生きる王子様そのものだった。
「ミリファ、久しいな。
しばし多忙ゆえに訪れることも、召し出すこともできなかった。許せ」
アズールは、耳元で乱れる赤毛を、繊細な硝子細工を扱うように指先で耳にかけた。
その触れ方に、彼女は陶酔しきった様子で力を抜き、彼の腕の中に溶けていく。
湿度を孕んだ吐息がアズールの胸元を湿らせる。
彼女の無邪気さは、エメロードの持つ理知的なそれとは対極にあり、重苦しいほどに甘く、逃げ場のない泥沼のような愛の形をしていた。
侍女たちが蒼白な顔で部屋の隅に控える中、アズールは冷静な観察眼で室内を見渡した。
どこか不自然なほど、部屋の調度品には青い蝶の装飾が施されている。
「ミリファ。……青い蝶は、いまだに好きなのか?」
優しく問いかけると、彼女は夢見るような笑顔を浮かべ、アズールの胸に頬をすり寄せた。
「ええ、だいすき!
私の庭に来てくださるの。あの子たちは、皆を幸せにするのよ」
「……そうか」
部屋の隅で、若い侍女が恐怖に耐えかねて震え出し、年配の侍女頭が血相を変えて彼女を叱りつけている。
その様子を視界の端に追いやりながら、アズールはミリファの青い瞳を覗き込んだ。その瞳には、すでに現実を映す焦点は存在しない。
「ミリファ。叱らないから教えてくれ」
アズールは、子供に言い聞かせるような優しい声で、しかし決して逃げ場を与えないトーンで告げた。
「蝶々の羽を、この後宮にばら撒いたのはそなたか?」
侍女たちが一斉に悲鳴を上げて泣き崩れる。
だが、ミリファだけは、どこか子守唄を歌うような軽やかな声で、至極当然のことを言うように告げた。
「ええ、ええ、そうよ。だって美しいでしょう? 青い蝶々を細かくして、みんなに分けて差し上げたの。
皆、とても喜んでくださったわ。
ほら、ふふふ……お礼を言いに来てくれたのよ」
彼女が指差した先には、何もない空間があるだけだった。
それは、壊れた愛の形ろうか。
かつての寵愛を失い、現実から遊離することでしか己を保てなかった彼女にとって、毒を含んだ蝶の死骸は、誰にも奪えない宝物であり、同時に世界へのささやかな復讐だったのかもしれない。
アズールの胸には、激しい憤りではなく、どうしようもない憐れみが広がった。
彼女の愛は、あまりに純粋で、あまりに脆く、そしてあまりに歪んでいた。
夜が更けるのを待たず、アズールは冷徹なまでの手際で処理を命じた。
医師をつけ、決して目を離さぬよう宦官を監視に置く。
ミリファという壊れた女を、後宮という箱庭に封じ込めたあと、彼は安堵と罪悪感が入り混じった足取りで、廊下を駆け抜けていた。
ようやく、毒の真相に触れた。あとはエメロードに報告するだけだった。
だが、胸の内に何か腑に落ちない、重苦しいものがつかえて取れない。
気が触れたミリファ妃。
蝶の骸を千切りばら撒き、ダーリャ妃の娘に毒を与えたのだろうか。
アズールの脳裏に自分に無邪気に微笑む、数年前のミリファの顔が浮かんだ。
『ミリファの夢の王子様』と言う甘いセリフと共に、甘い香りと共に、纏わりつくような愛を捧げてきた南国の王女。
愛してはやれなかった…後ろ盾が消えたミリファ妃を、遠ざけたのもアズールだ。
愛故に気が触れた彼女が犯人ならば、その原因は自分であるのだろうか。
アズールは一度、後にした後宮の奥に繋がる回路を振り返った。
(行かねば…)
纏わりつく熟れて腐り落ちる寸前の、甘い果実のような香に唇を引き結び、アズールは脚を早める。
離宮で自分を待っているであろう、無防備で、不器用で、いまだに自分の想いを理解してくれないあの学者の匂いを、今は無性に吸い込みたかった。
ミリファ妃はお気に入り
ポルノグラフィティのアゲハ蝶が脳内再生されるけど




