後宮編 第33章:柘榴の雫と無自覚な気持ち
帝国の夕暮れは、血のような色を帯びて後宮の石畳を染め上げていた。
執務室の窓辺に立つアズールの耳には、数時間前に離宮で交わした言葉が、呪文のように何度も反芻されていた。
「ミリファ妃と過ごしたあと……すぐに…わたしに会いに来て…」
あのツンと尖らせた唇、無邪気で何の計算もないはずの甘い囁き。
実際にはただの調査報告の催促に過ぎないその言葉が、アズールの脳内では歪なほどに甘美な旋律を奏でている。彼は溜息を殺し、書類を叩きつけるように机に置いた。
研究室に戻りたい、とあっさり自分を遠ざけておきながら、あんな表情で訪問をねだるなどと、どれほど男の神経を逆撫でする所業か。
あの無邪気な笑顔を思い出すたびに、一国の世継ぎとしての威厳は揺らぎ、代わりに少年のような焦燥感と情熱が腹の底から湧き上がってくる。
「……今宵は、別の場所で頭を冷やすとしよう」
アズールは宦官を呼び、最近後宮に入ったばかりの商家出身の妾妃――ナスリンを寝所に呼ぶよう命じた。
(どのみち、一度は召し出さねば…あの娘の生家の顔が立つまい)
夜の帳が下りた寝所には、芳しい香炉の煙が漂っていた。
ナスリンは、王都でも指折りの富を持つ商家の娘でありながら、その容姿は派手さとは無縁だった。
子リスのように怯え、黒い瞳を潤ませてアズールの顔色を窺うその姿には、エメロードにはない従順さがある。
アズールを見つめるたびに真っ赤になり、細い指先をぎゅっと握りしめて震える様子は、彼がこれまでに見てきた妃たちとは違う初々しさがあった。
冷酷なまでの美貌と、鍛え上げられた長身を前にして息を呑む彼女に、アズールは「それほどに萎縮せずともよい。」と、短く言葉を掛ける。
同衾の果て、アズールは静かにナスリンの癖のある黒髪を撫でていた。
腕の中で小さく息をつく彼女の寝顔を見ながら、ふと、明日のミルファ妃との面会について思考を巡らせる。
青い蝶の死骸、ミルファ妃の精神状態、そして不気味な毒の影。
東国第二の都市イスファーンを治める者として、処理すべき事はあまりにも多かった。
だが、アズールの意識の片隅には、明日、調査の結果を報告した時にエメロードが浮かべるであろう、あの輝くような宝石の瞳が、いつまでも焼き付いていたのである。
*
同じ頃、宮殿地下の秘密の研究室では。
アズールが特注させた木のロッキングチェアに深く身を沈め、エメロードは天井の隅を見つめていた。
周囲には南国から取り寄せた希少な毒草や、不気味な虫の標本が整然と並んでいる。
しかし、今夜の彼女は、それらの研究対象よりも今まさに、後宮で蠢く暗い翳りについて考えていた。
(ミリファ妃……。アズールがかつて寵愛し、今は壊れかけているという女性)
エメロードは、ダーリャ妃らから得た証言を整理しながら、記憶の糸をたぐる。
ダーリャ妃の幼い娘シリンは、乳母らの目が逸れた隙に後宮の木陰の入り込んだ。
そこで、土中にキラキラと煌めく物を見たらしい。
シリンが迷い込んだ際に何かを口にした形跡はない。
だが、なぜか喉の奥に小骨が引っかかったような、生ぬるい不快感が消えない。
学者としての論理的な思考を超えた、生き物としての本能的な警告が、警鐘を鳴らし続けていた。
ふと、机の上に届けられた籠が視界に入る。
アズールの命により、アズールの乳母イザベルが差し入れた夜食の数々。
柘榴、デーツの糖蜜漬けや、見た目にも愛らしい焼き菓子。
エメロードは、籠を見つめて唇を歪めた。
アズールは、あの日の研究室で「好きかもしれない」と言った。
甘く情熱的な初夜のやり直しまで済ませておいて、その感情については一度も明言していない。あれは一体、何だったのか。
言葉の欠片を放り投げておいて、その後の回収を怠る男の無責任さに、エメロードは言いようのないモヤモヤを感じていた。
「……ちっとも、伝えてこないくせに」
苛立ちを鎮めるように、彼女はアズールが大嫌いだと公言している果物――柘榴に手を伸ばした。
ざくりと皮を割り、真っ赤な粒をしゃくしゃくと齧る。
あの告白の日のように、鮮やかな赤い雫が、彼女の顎先や白い指を伝い、床へと滴り落ちた。血のような色が、静かな研究室の床で広がっていく。
エメロードは、もう一度、深く溜息を吐いた。
心臓の奥底で、熱い澱みが渦巻いている。
このモヤモヤの正体が何なのかを解明したくて、彼女は無意識に柘榴を齧り続けていた。
アズールの差し入れを口に含みながら、彼への不満を噛み締める。




