後宮編 第32章:蜂蜜の甘露と覇王の勘違い
陽光が最高点に達し、離宮の窓から射し込む光が微細な塵を黄金色に輝かせていた。
長椅子に横たわっていたエメロードが、小さくあくびを噛み殺しながら、ようやくその透明感のあるエメラルドの瞳をうっすらと開いた。
寝ぼけまなこでぼんやりと天井を見つめ、隣に座り込んでいたアズールに気づくと、彼女はきょとんとした表情で問いかけた。
「……アズール? いつ来たの?」
昨日、朝方まで研究室で毒物の反応を見ていた記憶はあるが、そこから寝所に戻ったあとの記憶がまるでない。
エメロードはふわああ、と大きなあくびをこぼし、今の時刻を気にするように寝台で身を起こした。
アズールは、彼女の無防備な寝起き姿を二時間もの間、一言も発さずに観察し続けていたのだ。
世継ぎの君としての威厳も、政務の重圧も、今の彼には微塵もない。
ただ、この無頓着な女の寝顔に振り回される一人の男がそこにいた。
「……二時間だ。お前のその締まりのない寝顔と、奇妙な寝相を眺めていた」
アズールがボソリと呟くと、エメロードはきょとんとして瞬きをした。
そして次の瞬間、大真面目な顔で、しかしどこか呆れたように問い返した。
「えっ……アズール、そんなに暇なの?」
「……ッ!」
その言葉が突き刺さった。アズールの口元が引きつり、激しい沈黙が寝室を支配する。
自分に対して「暇なのか」と問える人間など、この国にはエメロードただ一人だろう。
アズールは怒る気力さえ失い、ただ深く沈黙した。
やがて、アズールが呼び鈴を鳴らしたことで、侍女たちが寝起きのエメロードでも食べやすい、柑橘のコンポートや薄く焼いたパリパリのパン、蜂蜜と濃厚なチーズを乗せた皿を運んできた。
「やったあ、ご飯!」
エメロードはアズールとの会話のことなど、まるで水に流すかのように幸福そうな笑顔を浮かべ、食事を平らげ始めた。
その姿を眺めながら、アズールははっと思い出す。
そうだ、本来の目的はこれではない。
彼は咳払いを一つし、低く落ち着いた声で口を開いた。
「……ミルファ妃の部屋へは、明日俺だけで向かう。お前は同行させない」
「えーーーっ! なんでよ!」
エメロードは蜂蜜のついたパンを片手に、驚きと不満で唇を尖らせた。その表情は、不当な扱いを受けた子供のように、なんとも愛らしい拗ね顔だった。
「調査だよ?
一番の鍵を握っているかもしれない場所なのに。わたしに会いたくないなんて、そんなの納得できないわ」
アズールは、目の前で唇を尖らせる彼女の顔を見て、喉の奥が熱くなるのを感じた。
いままで多くの妃たちが、自分に寵愛を求めて、あるいは嫉妬のあまりにそのように唇を尖らせ、情を求めてきた。
だが、目の前のエメロードは違う。
彼女が求めているのは調査という名の仕事、への情熱だけなのだ。
(この顔で寵愛をねだるならば、どれほど……)
そんな邪な考えが脳裏をかすめ、アズールは慌てて首を振った。
自分は何を考えているのだと、自嘲気味に息を吐く。
「……俺が探りをいれる。その方が、話がすんなりと引き出せるはずだ」
アズールは、彼女の口元についた一滴の蜂蜜が気になり、自然な動作で指先を伸ばした。
彼の親指が、彼女の柔らかく甘い唇をなぞり、蜂蜜を拭い取る。
その動作一つで、寝室の空気が微かに湿ったものに変わったような気がした。
エメロードは拭われた唇をぺろりと舐め、いまだ納得がいかない様子で眉を寄せている。
「ふーん……。でも、じゃあさ。
ミルファ妃の部屋から帰ってきたら、すぐにわたしに会いに来て?」
それは、エメロードにとっては、調査の結果を知りたい、毒の情報をいち早く共有してほしいという、純粋な学者としての渇望を込めた言葉だった。
しかし、今の状況下でアズールには、その「すぐに会いに来て」という甘い響きが、別の意味を持つ情事の誘いに聞こえていた。
「……わかった」
アズールの返答は、極めて低く、重苦しい響きを持っていた。
冷徹な表情の下にある、端正な美貌の耳の先が真っ赤に染まっていることに、エメロードは気づいていない。
彼女が見せる調査への熱意と、アズールの人生初の恋慕。
二人の間のあまりに決定的な温度差を隠したまま、アズールは、明日、自分がミルファ妃の部屋へ赴くことへの重圧と、明日の夜にエメロードがもたらすであろう甘い時間への期待に、胸を高鳴らせていた。
今の時点では毒が恋人だもん




