後宮編 第31章:白金の微睡みと覇王の逡巡
執務室の窓から差し込む陽光が、山積みの政務書類を白く照らしている。
アズールは、第三妃ミリファの侍女頭が持参した一通の手紙を読み終え、苛立ちを抑え込むように深く長い溜息を吐いた。
『精神的に不安定であるため、エメロードの訪問は受け入れがたい』
丁重な拒絶の言葉。
だが、アズールの脳裏には、昨日までの妃たちの言葉が反芻されていた。
窓辺に撒き散らされる青い蝶の死骸。
そして、虫を極端に嫌うはずのミリファが、なぜか蝶だけは異常な執着を見せて愛でていたという過去の記憶。
この二つが重なった時、胸の中にどす黒い予感が渦巻く。
「……拒むか。ならば直接確かめるまでだ」
アズールは淡々と宦官を呼び、明日の夜に久しぶりに、ミリファの元へ渡る旨を言い渡した。
エメを連れて行けば、彼女の鋭い観察眼がミリファの警戒を招き、真実を閉ざしてしまうだろう。
ならば、自身の夜伽という形ですべてを洗い浚い引き出す方が賢明だ。
政務を片付け、必要な指示を次々と飛ばし終えたアズールは、ふと足を離宮へと向けた。
向かうべきは、今やこの広大な後宮で唯一、彼を翻弄する白金の鳥が住まう場所。
先だっての光景が、彼の脳裏から離れない。
自分はあの研究室で、彼女に『好きかもしれない』とまで告げた。
初夜のやり直しを迫られ、男としての矜持のすべてを注ぎ込み、渾身の愛を捧げたはずだった。
しかし、彼女からの返答は――皆無だ。
あのやり直しの時、エメは瞳を潤ませ快楽に溺れているようにしか見えなかったにもか変わらず、最後まで決定的な言葉をくれなかった。
(俺は……エメロードに、男として意識されていないのか? それとも、俺の抱き方が不満だったとでもいうのか…嫌、それどころかまさか嫌われているのか?)
理屈では、彼女が研究に没頭する変人であることは理解している。
だが、あの情事の後において彼女が見せた反応のすべてが、アズールという男のプライドを、根底から塗り替え、あるいは破壊していた。
彼女には自分が必要ないのではないか。
そんなおかしな方向へ、アズールの思考は雪崩のように加速していく。
離宮の扉を押し開けると、研究に没頭していたはずの寝室には、信じがたい光景が広がっていた。
「……エメロード?」
思わず名前を呼ぶ。
しかし、返事はない。
寝椅子の中心で、彼女は無防備な姿を晒していた。
プラチナブロンドの長い髪を床まで垂らし、両手を万歳のように頭の上に投げ出し、あろうことか腹をわずかに覗かせて、すうすうと規則正しい寝息を立てている。
仮にも大国の世継ぎの、寵姫の姿ではない。
まるで、この世のすべてが自分の世界であると信じ切ったような寝顔だ。
アズールは溜息を深く吐き出した。
「エメロード、起きろ。……聞こえているのか?」
肩をゆすっても、名前を呼んでも、彼女は微動だにしない。
痺れを切らしたアズールは、彼女の柔らかな頬を両手でぶにりと挟み、あろうことか鼻先を指先で摘んでみた。
しかし、彼女は小さく「ん……」と寝返りを打ち、そのまままた深い眠りへと落ちていく。
そのあまりの無防備さに、アズールは呆れを通り越し、言いようのない無力感を覚えた。
この女は、自分がどれほど彼女のことで悩み、プライドを削られ、寝食を忘れるほどに彼女を求めているかなど、これっぽっちも理解していないのだ。
結局、彼は諦めて寝椅子の端に腰を下ろした。
無防備な寝顔をじっと観察する。
ふてぶふと呼吸を繰り返す彼女の唇を見つめ、昨夜の記憶を反芻する。
あれほどの密着をしながら、それでも彼女は自分を研究対象の一つ、としか見ていないのではないかという疑念が、アズールの胸をじわじわと蝕んでいく。
(……これほど近くにいるのに、魂だけはどこか遠くにいっているような感覚だ)
昼過ぎまで、覇王は世界を統べる支配者であることを忘れ、ただ一人の無防備な女の寝顔を眺めながら、答えの出ない嫉妬と、初めての恋心に悶え続けることとなったのである。




