後宮編 第30章:琥珀の光と蝶の羽ばたき
シファ妃の私室を辞したあと、エメロードは当然のように研究室への道を急いだ。
次々と明かされる青い蝶、という共通項に、彼女の思考はすでに、毒の解析へと切り替わっている。
背後でアズールがその様子を見て、僅かに拗ねたような瞳を向けていた。
「もう少しゆっくりしていけばいいものを……」
と微かな溜息をついていることなど、彼女の耳には入っていない。
結局、エメは一顧だにすることなく去っていった。
アズールはまるで慈しむべき母に手酷くあしらわれた子のような、理不尽な苛立ちを胸の奥に抱えて取り残される。
彼が今、どれほど彼女との距離を縮めたいと願い、あるいはその距離感に翻弄されているか。その苦悩は、重厚な後宮の回廊に静かに吸い込まれていった。
「……あいつには、毒のこと以外、何の意味もないというのか」
そう自嘲して肩をすくめると、アズールはあてどない足取りで夜の後宮を彷徨うことにした。本来であれば、用事のない妃の部屋を夜分に訪れることは稀である。
しかし、毒の嵐が後宮を覆い尽くそうとする今、彼は妃たちを順繰りに回るという名目もあり、その実は、自身の脆く崩れかけたプライドの破片を拾い集めようとしていた。
向かったのは、第四妃ファルザーネの私室である。
彼女はかつて女奴隷から成り上がった出自を持ちながら、その控えめな性格と、他の妃たちとの摩擦を中和する卓越した調整能力で、正妃シファの右腕として後宮を支えてきた。
榛色の瞳を伏せ、質実ながらも洗練された調度品の中で、彼女は静かにアズールを迎え入れた。
「アズールさま、今宵はお足元の悪い中を……」
編み込まれた榛色の髪が、室内の柔らかな灯りに琥珀の光を宿す。
彼女は音もなく近寄ると、丁寧に酒器を持ち上げ、アズールの杯を満たした。その所作には一点の隙もなく、慈しみと敬意が混在している。
「……ファルザーネ。
近々、学者を連れて、この部屋にも顔を出すつもりだ。
何か……その最近、変な兆候はないか」
問いかけると、ファルザーネは長い睫毛を伏せ、僅かに眉を寄せた。
「……とくには。ただ……不気味なことが一つ。ここ数日、部屋の前にやたらと青い蝶の羽が落ちておりまして。
まるで誰かがわざと、死骸を集めて捨てているようですわ」
「またあの蝶か」
アズールは杯の酒を一気に煽り、吐き捨てるように言った。
これで三箇所目だ。
毒の影が、確実に後宮の中枢を侵食し始めているような、なまぬるい不気味さ。
明日は第三妃ミルファの元へ赴かねばならないが、増え続ける蝶の死骸が、まるで彼を嘲笑っているかのように思えた。
彼は暗澹たる気持ちに蓋をするように、ファルザーネの華奢な肩を力強く抱き寄せた。
求められるままに身を委ね、彼女は献身的に主を受け入れる。
しかし、同衾の果て、静寂が訪れた寝台の上で、アズールはどうしてもその呪文のような問いを口にしてしまわずにはいられなかった。
「……ファルザーネ。お前に聞きたい。……俺との、夫婦としての時間は、どうだ」
ファルザーネは僅かに目を丸くし、それから困ったように、だが慈しむような苦笑を浮かべて夫を見上げた。
「……多少、殿下は激しくあられますけれど。
でも、ファールスの世継ぎたるあなた様と褥を共にできるだけで、わたくしにとっては幸運の極みなのですわ」
彼女は控えめに、慎ましやかにそう答えた。
それは誰の目から見ても、夫を敬う妻の完璧な回答だった。
しかし、アズールのラピスラズリの瞳には、かつてないほどの絶望が広がっていた。
(……多少激しい、だと? それは、満足しているのか、それとも……ただの我慢の裏返しなのか……!)
彼女の気遣いすらも、彼には技術の未熟さを隠すための慈悲、にしか聞こえない。
エメという異質な存在に出会って以来、彼の中の自信は音を立てて崩れ去っていた。
アズールは、虚しさとやり場のない哀愁を胸いっぱいに溜め込み、それ以上何も言わずに布団を被った。
後宮の危機も、毒の出処も、今、一瞬すべてがどうでもよくなる程の、寄るべなさ。
ただ己の男としての価値だけが、闇の中で音もなく沈んでいくような感覚に、ファールスの世継ぎの君は拗ねた子供のように黙り込むしかなかったのである。




