後宮編 第29章:蒼き蝶の鱗粉と幼き初恋
朝の陽光が差し込むシファ妃の私室は、後宮の中でもひときわ気品と静謐に満ちていた。
大国ファールスの世継ぎアズールの正妻として、常に完璧であることを求められてきたシファは、背筋を伸ばして二人を迎え入れた。
その横に控えるアズールは、世継ぎの君としての威厳を維持しようと努めてはいるものの、その目元には隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「アズール殿下、そしてエメロード。ようこそお越しくださいました」
シファの穏やかな声音が部屋の空気を柔らかくする。
エメロードは、その場に漂う緊張感などどこ吹く風といった様子で、真っ直ぐにシファを見つめた。
「突然の訪問をお許しください。
シファ妃、最近シファ妃の身の回りや、このお部屋の周りで、何かしら……普段とは違う、おかしなことは起きていませんか?
どんな些細なことでも構いませんから…教えてほしいんです。」
その問いかけには、学者としての冷静な観察眼と、彼女本来の気負いのない、親しみやすい人柄が滲み出ていた。
シファは、エメロードの言葉の目的を即座に汲み取る。
夫が昨夜見せたあの所在なげな動揺の理由、そして自分とは全く異なる性質のこの娘が、いかにして夫の心の奥底を揺さぶっているのか。シファはわずかに目を細め、静かな洞察を巡らせた。
「おかしなこと……ですか。そうね、思い当たるのは……ここ数日、窓辺や庭に『青い蝶々の死骸』が撒き散らされていることくらいかしら。気味が悪いので侍女たちに片付けさせていたのですが、掃除をしても翌早朝にはまた増えていて……」
その言葉に、それまで冷静さを装っていたアズールの瞳孔が収縮した。
エメロードもまた、表情を引き締めてアズールと視線を交わす。
先ほどダーリャ妃の侍女が証言した内容と、あまりにも合致しすぎている。ただの悪戯ではない。
青い蝶という、特定の隠喩を孕んだ呪いのような予兆が、この静かな正妃の住まいにまで忍び寄っているのだ。
「……蝶??」
エメが難しい顔で考え込み、手元のメモに何かを書き付けようとしたその時だった。
部屋の奥にある遊戯室から、アズールに瓜二つの整った顔立ちをした幼い少年、ジャミール王子が駆け出してきた。
「あ! あの時の草むらで会った、夏の祭りの水の女神さまだ!」
ジャミールは母親であるシファの制止も聞かず、一直線にエメロードの元へ駆け寄り、無邪気にその腰に抱きついた。
不意を突かれたエメロードは驚いて目を瞬かせたが、ジャミールの無垢な瞳と、彼が自分を純粋に慕っていることを察して、表情をぱっと輝かせた。
「あらら?そんな風に覚えていてくれたの?……嬉しいな、ジャミール?」
エメがこぼしたのは、彼女の飾らない性格そのままの、年相応で楽しげな笑みだった。
彼女は屈み込み、ジャミールの目線に合わせて優しく髪を撫でる。
その無防備で母性すら感じさせる温かい対応に、アズールは言葉を失った。
自分には滅多に見せない、肩の力が抜けた素直な笑顔。
(俺には、あんな顔一つ見せぬくせに……)
アズールの内心は、大人気ない嫉妬と、自分という存在が彼女にとっての特別な一人ではないという敗北感で、激しく波打っていた。
自分以外の誰かに向けられるエメの純粋な優しさを、ただ指をくわえて眺めるしかない。
その傍らで、シファは夫のあまりに露骨な表情の変化を悟り、小さく溜息をついた。夫の抱える焦燥感と、エメロードの持つ無自覚なまでの自由奔放さ。
二人の間のあまりに大きな温度差を前に、正妻として彼女ができることは、この情けない夫の姿を静かに見守るという、ほろ苦い慈愛だけだった。
「本当に、あなたは面白い方ですね、エメロード。
気難しいあの子があれほど懐くなんて……」
シファの言葉には、どこか諦念を含んだ柔らかい微笑が添えられていた。
しかし、その微笑みの裏で、彼女もまた、この「青い蝶」が象徴する後宮の闇の正体について、ある一つの恐ろしい予感を感じ取り始めていたのである。
政略結婚…いまもあるのかな?偉い人たちは?
性格がめちゃくちゃ合わなかったら、どうするんだろ?




