後宮編 第28章:覇王の苦悩と正妻の慈愛
ダーリャ妃の部屋を出た廊下で、アズールは重苦しい面持ちでエメを振り返った。
背後で侍女たちが安堵の溜息を漏らす声が聞こえるが、彼の心には重い霧が立ち込めている。
「……毒か? 一体、何の毒だ。
あのような幼い子を狙うとは、何者かによる嫌がらせの範疇を超えているぞ?」
エメロードは湖水色の瞳を、一度ギュッと綴じ合わせた。
表情を微かに揺らしたが、すぐに冷徹な学者の顔に戻った。
「毒を特定するには、まだ詳細な分析が必要だけど。
ただ……ダーリャ妃だけじゃない。
アズール、貴方の血を引く子供を産んだ妃たちや、寵愛を受けている女性たちの警備を、今すぐ強化したほうがいいとおもう。」
彼女の淡々とした言葉に、アズールは背筋が冷えるのを感じた。
続いて、エメロードは静かに、しかし断固とした口調で告げる。
「明日から、主要な妃の部屋を周り、聞き取りを行いたいな。
まずは正妻であるシファ妃のところからね」
「……シファか」
アズールは反射的に苦い顔をした。
嫡子であるジャミールはまだ幼いが、先だっての妖精事件もある。
エメロードが現れれば、純粋な好奇心からすぐになついてしまうだろう。
愛を元にしない政略結婚ではあるが、敬意を抱く己の正妻と、エメロード。
その二つの世界が交わることに、アズールは言いようのない焦燥感を抱いていた。
「……わかった。明日、俺が迎えに行く」
そう短く告げると、エメは「じゃあ、私は研究室へ行くわ」と、アズールの心情などお構いなしに踵を返した。
背中を見送るアズールの瞳には、やり場のない苛立ちと、自分でも認めたくない不安が渦巻いていた。
その夜。
アズールは正妻シファの寝所を訪れた。
豪奢な設えの部屋で二人、静かに夕食を囲む。会話は自然とシリンの話題に移った。
シファは、かつて自身の二人の子供を毒で失ったという悲痛な過去を抱えている。
そのためか、シリンの無事を告げたアズールの言葉を聞き、彼女の目元には心からの安堵が浮かんでいた。
「……本当に、良かったわ。ダーリャ妃の幼いシリンが助かって……」
シファの柔らかな微笑みに、アズールは酒を一口煽った。
「今回のことは、エメロードの功績だ。彼女がいなければ手遅れだっただろう」
「まあ!エメロード?離宮に住まわせた殿下の新しい寵姫ね。
そのような優れた腕の持ち主だとは存じませんでした」
シファは驚きつつも、夫であるアズールの視線が、どこか一点に定まらないことに気づいていた。
いつもなら政情や周囲の妃たちの動向を探るような鋭い眼差しが、今夜はひどく所在なさげに揺れている。
夜が更け、二人は寝所へ向かった。
しかし、重なる肌の熱を感じても、アズールの心はどこか霧の中にある。
以前のような圧倒的な力強さは鳴りを潜め、どこか自信を失い、迷いの中にいる男の姿があった。
「……アズール。あなた、お酒を飲み過ぎたのですか?」
シファの白い指が、夫の眉間の皺を優しくなぞる。
アズールはしばしの沈黙の後、人生で一度も口にしたことのない、あまりに情けない言葉を紡いでいた。
「……シファ。正直に言え。俺との夫婦生活を、……どう思っている」
シファは動きを止めた。
夫の唐突な、そして威厳の欠片もない問いに、思考が追いつかない。
「……ふ、夫婦生活、ですか?」
困惑し、言葉を濁すシファ。
その沈黙を、アズールは最悪の解釈で塗りつぶした。
やはり自分は下手なのか。満足させていなかったのか。
これまでの甘い嬌声や満足げな吐息はすべて、権力に対する演技だったのか。
(待て、まさか……やはり……俺は? そんなバカな!)
アズールの顔から血の気が引いていく。
その様を見て、シファは優しく、しかし残酷なほどに冷静な妻の顔を見せた。
「わたくしは、不満などありません。……ただ、私たちも付き合いが長くなりました。
もしも……もしもあの、物足りないのなら、もう少し若い、新しい妃を……」
それは妻としての配慮だった。
しかし、その言葉はアズールの心に突き刺さるトドメの一撃となった。
明日からの妃の部屋周り。
毒の出処を調べるという目的の裏で、同時にアズールは知らぬ間に、己の男としての尊厳を賭けた公開処刑へと足を踏み入れようとしていたのである。




